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千年の読書 人生を変える本との出会い 三砂 慶明

第2回

本を読む人生と読まない人生

2022.01.19更新

読了時間

現役の書店員、三砂慶明氏による本をめぐる考察。なぜ、本には人生を変えるほどの大きな力があるのか。働くこと、食べること、そして生きること――。本と人生との関わりを解き明かしていきます。『千年の読書』刊行を記念して、本文の一部を公開します。
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 村上春樹は『村上さんのところ』で、「本をよく読む人と、本をほとんど読まない人がいますが、どちらの人生が幸せでしょうか? 全般的に本を読まない人のほうが、楽天的で人生を楽しんでいるように感じますが、どう思われますか?(猫星、女性、40 歳代、無職)」という読者からの質問に、こう答えています。
「たとえ不幸せになったって、人に嫌われたって、本を読まないよりは本を読む人生の方がずっと良いです。そんなの当たり前の話ではないですか」
 シンプルで美しい回答です。
「本を読む人生の方がずっと良い」。
 一体なぜでしょうか。その理由を自分なりに考えてみました。一言でいえば、私は本が読者を未知の世界へと連れだしてくれるからだと思います。この世で実際に会うことの叶わない人に会えたり、聞いたことのない話を教えてもらえたり、ただ単純に面白かったり、熱中してページをめくっているうちに、目の前の景色が変わっていきます。本を読んでいるうちに読者は自分だけの発見をします。自分だけの地図が少しずつ広がっていくのです。
 私たちは知らずにはいられません。明日の天気も、今、給湯器の温度が何度なのかも、郵便物がいつ着くのかも、となりの家の犬が何という犬種なのかも知りたくなってしまいます。日々の些細な出来事から、過去の記録や、まだ起こっていない未来について、何でも知りたい。知ってどうするのという細かい疑問は気にとめず、ただ知りたい。私たちの知りたいことに終わりはありません。
 古代ギリシアの哲学者プラトンが知識とは何かを問うた『テアイテトス』では、ソクラテスに「驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ智を愛し求める者の情」であり、「求智(哲学)の始まりはこれよりほかにないのだ」と語らせています。また、万学の祖アリストテレスは、哲学の第一原理、存在とは何かを考察した記念碑的主著『形而上学』の一行目を「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」からはじめています。一八世紀の中ごろ、スウェーデンの博物学者リンネは人類を霊長目に分類し、ラテン語で「ホモ・サピエンス」と名付けました。属名のホモが「人間」で、サピエンスは「知恵」をあらわしています。リンネは、人間を「知恵ある人」と呼んだのです。
 では、人間を人間たらしめるこの知とは一体何なのか。誰もがその人生で、毎日、同じことを繰り返すことに耐えられず、何かを発見したいのでしょうか。
 作家、カフカはこの驚異への憧憬を友人オスカー・ポラックにあてた手紙のなかで、「斧」にたとえています。

僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませることがないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか? 君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか? いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である、本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。(『決定版カフカ全集9』)

 人類は、五千年にわたって「僕たちの内部の凍結した海を砕く」驚きや発見を記録し続けてきました。良くも悪くも、私たちが知っていることは、何らかの形で記録に残っています。真っ暗な宇宙に浮かぶ星のように、「本」と呼ばれた記録の塊が星座のように連なって、人類が歩いてきた道を照らしています。
 最初はメソポタミアで粘土に。ついで古代エジプトではカヤツリグサの一種、パピルス草の茎に。そしてペルガモン(現トルコ)では獣の皮に。インドやスリランカ、タイでは木の葉に。中国では骨や亀の甲羅に、ついで木や竹、絹に描かれました。
 やがて中国で「紙」が誕生し、グーテンベルクの印刷機の発明のおかげで私たちは皆、読者になることができました。そして、二一世紀、タブレット型端末の出現により、私たちはポケットに無限の本をおさめられる世界に生きています。
 本を開くと未知の世界の扉が開きます。読みはじめるまで見も知らなかった存在が、読み終わると既知の存在へと変化している驚きは何度味わっても奇跡としか思えません。

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著者

三砂 慶明

1982年、兵庫県生まれ。大学卒業後、株式会社工作社などを経てカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社入社。梅田 蔦屋書店の立ち上げから参加。これまでの主な仕事に同書店での選書企画「読書の学校」やNHK文化センター京都教室の読書講座「人生に効く! 極上のブックガイド」などがある。「WEB 本がすき。」(光文社)などで読書エッセイを連載。本と人とをつなぐ「読書室」主宰。

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