第5回
写実主義から印象派へ
2016.12.07更新
絵画は意外とおしゃべり。描かれた当時の事件や流行、注文主の趣味、画家の秘密……。名画が発するメッセージをキャッチして楽しむちょっとしたコツをお教えします。
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アカデミーが教える整えられた美しさではなく、目の前の光景をリアルに描こうとした写実主義。印象や光の表現などに重点を置いた印象派が、彼らに続きます。産業革命後の社会変化やジャポニスムなどの影響を受け、セオリーから外れた表現も模索されました。
■政治体制の激動と産業革命で変貌するパリ
19世紀のフランスは王政・君主制と共和制の勢力が政権を奪いあう激動の時代です。
一方、経済的には産業革命で工場が増加して人口も増え、パリは急速に大都市に変貌していきます。勃興したジャーナリズムは美術批評を発信し、前衛的な若手画家も話題に上るように。資本家や中流階級からなる豊かな市民層が、絵画のパトロンとして存在感を増します。
社会が変貌して既成の価値観が崩れるとき、新しい価値と美意識を呈示する絵画が生まれます。そのひとつは理想を排し、現実をありのままに描く写実主義であり、もうひとつは、自然に帰ろうとするバルビゾン派です。この動きはやがて西洋絵画史の大事件・印象派を生む土壌になっていきます。
■旧来の絵画感をくつがえす印象派の登場
フランスでは画家として認められるためには、国家の公募展(サロン、官展)に入選し、展示されることが第一歩でした。ただし審査基準は既成概念で固まり、線遠近法や陰影など、伝統を踏襲することが基本でした。歴史や宗教、神話画は格上、静物画や風景画は格下と、主題にも序列がありました。
しかし社会の激変、光の原理の解明、チューブ式絵具の普及など主題や技法が変化する条件がそろいます。写実主義に続いて、マネが古典的な絵画観に風穴を開けると印象派があとに続き、審査なしの自主展覧会を開催するように。印象派は各自の探求によって方向性が分かれてゆき、さらに新しい絵が生まれます。一人ひとりの画家の苦闘が絵画の新しい潮流を生む、ダイナミックな時代の到来です。
■大地に根差す農民に人間本来のあり方を見出す
絵画の伝統では、聖書の情景以外で労働者を主題にすると、格の低い風俗画とみなされます。しかし信心深く勤勉な農家に生まれ育ったミレーは、パリに来ても働く庶民を描き続けました。サロンでは低評価でしたが、社会主義的な第二共和政政府には高く評価され、時代の波に翻弄されそうになります。
ミレーは騒動を避けてバルビゾンに移住し、貧しい生活の中で農民を描き続けます。『晩鐘』や聖書の逸話と重ねた『種をまく人』(新約聖書ヨハネ伝)、『落穂拾い』(旧約聖書ルツ記)には、額に汗して働く人間の尊厳が描き込まれています。
晩年、彼の絵を求める新興ブルジョワジーが現れます。急速に工業化が進む社会で、大地や信仰へのノスタルジーをよぶ美しい絵が好まれたのです。
① 見回りをする支配階級
3人の農婦は、刈入れからこぼれた麦の穂を拾っています。わずかな食料を手に入れようとする貧しい農民の姿です。右奥の遠景には、馬に乗って農園の見回りをする男の姿が。支配階級の姿を入れることによって、貧富の対比がより鮮明になっています。
② 広大な農園
はるか向こうでは豊かな収穫物を荷台に積む労働者の姿が見えます。
19世紀には土地をもたない農民を大地主が雇う制度ができていました。小規模な自営農なら境界林など土地の区分が見えますが、境界が見えないこの農園は、土地資産がひとりに集中していることがわかります。
③ 色彩とポーズ
落ち着いた茶褐色中心の色調の中で、農婦の青と赤の帽子は一人ひとりの個性を感じさせるとともにアクセントとなって目を引きます。地平線を高くとり、深くかがんだ姿勢をとることによって、農婦たちと大地の一体感が伝わってきます。
④ 落穂拾いというテーマ
旧約聖書には「落穂は貧しいもののために残す」という定めがあり、プッサンはじめ多くの画家が描いています。ミレーは若い頃、落穂拾いで家族を助けるルツの物語の習作を描くなど、長い間温めていたテーマです。
バルビゾン周辺のシャイイーの村にも、この慣習が残っていました。
■伝統にとらわれず自然の美しさを表現
古典的な風景画は、スケッチをもとに理想的な景観を再構成するもの。パリから近いフォンテヌブローの森は、画家がよく訪れるスケッチの名所でした。彼らのたまり場の宿屋は、森近くのバルビゾン村にありました。
19世紀半ばには村に移住してきたルソーやミレー、度々訪れるコローやドービニーたちがバルビゾンを拠点に自然のままの風景を描くようになり、彼らを総称してバルビゾン派とよぶようになります。ルソーは森の大樹、ミレーは農民、コローは抒情的な風景と個性は分かれますが、いずれも自然を讃えるもの。新鮮な風景画は都会生活に疲れた欧米の人々に愛され、有名になっていきました。さらに自然の美を描きとどめようとする姿勢は、印象派の光の表現につながっていきます。
※1 ミレー『箕をふるう人』1848 ~ 49年頃/オルセー美術館(パリ)
※2 コロー『ナルニの橋』1826年/ルーヴル美術館(パリ)
※3 コロー『モルトフォンテーヌの思い出』1864年/ルーヴル美術館(パリ)
※4 ミレー『種をまく人』1850 年/ボストン美術館(ボストン)
■「物」ではなく「印象」を描き印象派の名前が生まれる
サロンの審査に不満をもつモネやピサロは、出資者を募って無審査のグループ展を実現。その第1回展で『印象、日の出』を見た批評家は、「印象に過ぎない。印象主義の展覧会だ」と皮肉をこめてこきおろします。印象派の名称のもととなった、記念碑的な作品です。
マネの『草上の昼食』スキャンダルから11年たち、前衛画家の意識は進化していますが、多くの評論家も一般人も追いついていませんでした。人々の目には、何を描いているのかわからない未完成の絵に見えたのです。
具体的な事物を綿密に表現するのが伝統的な絵画でしたが、モネは具体性を捨てて大幅に抽象化し、光や空気、印象を主題としました。だからこそ、モネはタイトルを「ル・アーヴルの港」とはしなかったのです。
① 荒い筆触
筆の痕跡(筆触)は見せないのが伝統的な絵画の鉄則。絵具はなめらかに塗り、陰影や質感を表現するものでした。筆触が見える絵は習作とされたので、この絵は未完成と嘲笑の的に。
② 工場の煙
港の対岸には煙を上げる煙突群。急速に工業化が進んだ19世紀当時の風物を描いているところに、のちに蒸気機関車などを描くモネの現代的な視点が見えます。
③ 原色
絵具は混ぜるほど色が濁り、黒に近づきます。モネは自然界に存在する光の色は赤・青・緑の3色という理論にもとづき、絵具を混ぜずに原色を並べる技法(筆触分割)を考案。水に映る太陽の輝きの鮮やかさはこの技法によります。
④ あいまいな形
遠景の船や建物は朝もやに包まれてぼやけ、手前の2 艘の小舟でさえ、形は定かではありません。形態を描こうという意図が見えない絵です。形をリアルに見せるのが絵画と信じる人々にとっては難解な絵でした。
⑤ 水面の表現
当時の一般的な技法とは異なり、ひと筆でさざ波の動きときらめきを表現。生涯、セーヌ川近郊の風景を描き、やがて睡蓮に行きつくモネらしい表現です。
■生涯、光を追い求めた印象派の第一人者
港町ル・アーヴルで育ったモネは、漫画的な似顔絵が得意でしたが、海景を得意とする画家ブーダンに野外で風景を描くことを教えられます。十代のこの経験はのちに「ついに私の目は開かれた」とモネが語るほど、その後の方向を決定づけるものになりました。
パリでは困窮の中、サロンのアカデミスムへの不満を募らせますが、ルノワールなど若手画家との交流から、「虹のパレット」ともよばれる独自の技法を生み出します。自然の風景には存在しない黒を追放し、筆触分割で、原色や原色に近い色をカンヴァスに置いて色彩を再現。近くでは筆触が目に入りますが、離れると明るい色彩が得られます。印象派はやがて画風が変化していきますが、モネは生涯、風景と光の描写に打ち込みました。
※1『印象、日の出』
※2『日傘をさす女(モネ夫人)』1875年/ワシントン・ナショナル・ギャラリー(ワシントン)
※3『ルーアン大聖堂、昼』1892 ~ 93年/オルセー美術館(パリ)
※4『ルーアン大聖堂、朝』1892~ 93年/フォルクヴァング美術館(エッセン/ドイツ)
※5『睡蓮の池と日本の橋』1899年/ナショナル・ギャラリー ( ロンドン)
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