第1回
文はいつ文体になるのか、デザインはいつ本文を発見するのか?
2017.11.20更新
【 この連載は… 】 『アイデアNo.379 ブックデザイナー鈴木一誌の仕事』の発売を記念して行われた鈴木一誌さんと山本貴光さんとのトークイベントをもとに再構成。長きに渡り日本のデザイン界を牽引してきたブックデザイナーの鈴木一誌さんと、著書『文体の科学』で言葉と思考の関係を読み解いた批評家の山本貴光さんとの、どこまでも深い考察。全6回に分けて再現します。(トークイベントは2017年10月14日に青山ブックセンターにて行われました)
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時代と社会と歩んできた鈴木一誌の仕事
山本 今日はどうぞよろしくお願いいたします。はじめに私のほうから、『アイデア』の特集「ブックデザイナー鈴木一誌の仕事」についてコメントしたいと思います。郡淳一郎さんと長田年伸さんによるロングインタビューはじつに素晴らしいものでした。インタビューは聞き手がどのような問いを提示できるかによって、語り手の話も大きく変わるものです。その点、このインタビューは多様な視点からなされた用意周到な問いによって、鈴木さんからとても多くのことを引き出しています。郡さんと長田さんのおふたりに感謝します。
鈴木さんのお仕事を振り返る特集ということで、それこそブックデザイナー前夜から、修業時代、ブックデザインの仕事の変遷はもちろんのこと、鈴木さんのもうひとつの大きなお仕事である映画批評、出版の歴史についても語られています。また、それに加えてそうしたお仕事の背景にある歴史の動き、社会や技術の動向、あるいは知恵蔵裁判と法律の話にも及んでいますね。とりわけ驚いたのは、鈴木さんはかなり早い時期からDTPを使ったデザインに着手されており、デザインと印刷のためのコンピューターのインフラストラクチャーについて考えておいでだったことです。なかでも新聞広告に名前を出すエピソードはとても印象的でした。
それはこういうお話でした。憲法記念日に出している「市民の意見30の会」の新聞意見広告を作るにあたり、1万人の名前を紙面にデザインする。このとき、人名や団体名を改行なしにすべて1行で組んだというのですね。文字数にしたらその数倍の数万文字でしょうか。こうなると、例えば1文字挿入するだけで、それ以後のすべての文字の位置が変わるわけです。いまよりずっと性能の低かった時代のコンピューターとDTPソフトでは、その処理だけでも目に見えるくらいの時間、待つことになっただろうと思います。まさに道具の限界に迫り、露呈させる凄まじい使い込み方です(笑)。
このインタビューを読み終えて連想したことがありました。大げさに聞こえることを承知で申せば、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』です。この長大な叙事詩については、古代ギリシアの百科全書のようなものだったという見方があります。そこには人びとの生活や政治、儀式や戦争やコミュニケーションの仕方、感情の表出など、社会百般が書いてある。ギリシア人たちは、この叙事詩によって自分たちの共同体についての知を共有していたという見方があるのです。その顰みにならって言えば、この特集にもブックデザインを中心にしながら様々な人間や社会の営み、時代が映り込んでいます。やはり一種、百科全書のようなクロニクルでもあると思いました。
読む前に見る、デザインが記憶を作る
山本 さて、もう一つ、少し具体的な点についてもコメントしてみます。この特集では、鈴木さんが手がけてこられた本の姿をとらえた写真も多数掲載されています。哲学思想、文学、映画、歴史、辞書など、あるいは思想雑誌の『エピステーメー』や『GS たのしい知識』の「ゴダール・スペシャル」など、自分の書棚にも鈴木さんがデザインした本がたくさんあることに改めて気づかされました。今日、本当は『西洋思想大事典』を担いでこようかとも思ったのですが、さすがに無理でしたので、『事典 哲学の木』を持参してきました(笑)。こうして本の姿を眺めてみると、私の記憶の一部は、紛れもなく鈴木一誌さんの仕事によって作られてきたことがわかります。
どういうことか、少しご説明してみます。私たちは書店で本を見つけたとき、中に書かれたことを読むより前にまず背表紙や表紙を目にしますね。読むより前に目でカヴァーを見ている。次に棚から本を取り出して触る。そうして表紙や扉や目次を繰ってゆき、ようやく本文を目にする。もちろんそれらのページもブックデザイナーによって形を与えられている。
ある本について思い出すとき、私たちはその本の姿形とともに想起するのだと思います。大きな木を描いた白い箱に入っていて、黄土色っぽい布張りのざらりとした表紙のあの本という具合に、本の姿形は間違いなく記憶の手がかりとなっています。他方でデジタルデータとして持っている本ではこの点がとても弱くて、油断しているとコンピューターの中にそんな本のデータがあったことさえ思い出せません。デザインとは、単に外見を作るに留まらず、それを手にとって読む人間の記憶を作る強力な装置であり手法なんだということを改めて痛感しました。
本文を発見せよ!
鈴木 次は私から山本さんの『文体の科学』について話させていただきますが、その前に、私は文字がないデザインはないと思うんです。どんなインダストリアルデザインでも文字があったりしますよね。それを考えれば考えるほど日本語について考えなければいけないと思うようになり、結果的にデザイン批評というのは日本語論になるのではないかと考えています。そういうことであれば、絶対に山本さんと話さなければと思って今日、この会場に来ました。
最初に『文体の科学』を本屋で見たとき、これは初めての本だと思いました。これまで、漱石や鴎外、あるいは大江健三郎の悪文(笑)について書かれた本はありましたが、文体全体について書かれたものは初めての本なんじゃないでしょうか? これは論理的にも言えて、例えばロラン・バルトが「言語学は、文より上位の対象をもつことができない」と書いている。あるいは「言語学は文をもって終わる」と言っているそうで、要は言語学が対象にできるのは「文」までだと言ってるんです。「文」が重なって「文章」ができ、段落を作って結果的に文体だとか作品になっていくわけですけども、そこで問題になるのは「文」はいつ「文体」になるのか。いろいろな分野で、「要素の分析は全体の解明には結びつかない」と言われていますね。そして、これはデザインにも関係してきます。デザインは判型やタイトルをはじめ、要素のほとんどは決まっているのですが、ある瞬間にデザインになる局面がある。それはなんなのか? ということを考えたときに山本さんの『文体の科学』が大変、参考になりました。
デザインをはじめるにあたって重要な手がかりって“本文の発見”じゃないかと思うんです。もちろん純文学ではどれが本文かは当たり前にわかりますけど、じゃあ写真集の本文はどこにあるんだ? もちろん写真が主役なんだけれども、文字の観点から言うと写真集の本文って写真番号なのか? ノンブルやキャプションを本文と考えることもできるわけです。
では、映画のチラシなどフライヤーの仕事の場合はどうでしょうか? 映画題名なのか、データか、あらすじなのか……。本文を発見することで、箱組なのか尻揃えなのか? で、本文が発見できれば、組を決めて大きさや詰め具合を与えて、そこから見出しだとか、段落を「枝」として派生させたりはできる。
たとえば、カレンダーの本文ってなんなのだろう? カレンダーの日付=業界用語で「タマ」と言いますけど、「タマ」が本文だと思いますが、ところがこの「タマ」をどういう書体を使って、どんな大きさにするか。銀行のカレンダーと新聞販売店が無料でくれるカレンダーとでは「タマ」の質というか、テクスチャーが違ってくると思うんです。もう、このへんですでに文体に触れてきているんじゃないか。
文はいつ文体になるのか、デザインはいつ本文を発見するのか?
というのは、問題点として、文章が発生するかしないかというかすかな地点と、あるいはデザインが発生するかどうかの地点はすでに触れあっていると思います。
その意味で『文体の科学』を面白く読ませていただきました。
(第2回につづく)
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