第1回
「多様性バンザイ」宣言
2018.10.09更新
文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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楽しく生きる
楽しく生きてゆきたい。幸せになりたい。
きっと、誰もがそう思っている。
でも、「楽しい」って何だろう?
「幸せ」ってなんだろう?
きっと、それは人それぞれ。
価値が多元化し、混沌が覆う現代。ひとりひとりが自分の殻に閉じこもりながら、ネットとSNSで「仲間」とだけつながる時代。
それでは私も、自分の殻に閉じこもり、自分の価値観にしたがって生きよう。
私の場合は、「多様性」という殻だ。
自己紹介
ここで少し、自己紹介をさせていただこう。
私はアフリカ音楽を専門に研究する文化人類学者。
文化人類「学者」、つまり学術的見方が身についている者ということ。目の前にある現象を「正確」に捉え、「客観的」に分析することが要請される職業である。なにが「正確」でなにが「客観的」かが自明ではなくなってしまった現代ではあるが、すくなくともそんな風に努力することだけは気にしながら生きている。
「文化」人類学者、つまり人間の姿を文化という観点から理解しようとする。「文化と教養」という言い方があるように、一般的に文化とは人間の諸活動のうちでなにか「柔らかい部分」というニュアンスがあるが、文化人類学ではそうではない。直接的な本能のあらわれではなく、人間が自分たち自身でつくりあげてきたすべてを「文化」と呼ぶ。したがって、音楽、文学、衣食住のみならず、政治も経済も法律も文化である。
文化「人類」学者、つまり研究対象を人類全体においているということ。我々はフィールドワークをおこなう。特定の社会集団に入り込み、その言語を覚え、衣食住をともにし、「個」のレベルから彼らを理解しようとする。だが、その目的はけっして個ではなく、人類全体への理解である。個別的な社会の奏でる変奏曲をていねいに聞きながら、人類のもつ基本的なモチーフにたどり着きたい。それが我々の願いである。
そしてアフリカ音楽。文化人類学は具体性の学問であるから、人類学者は特定の調査地を持ち、特定の研究テーマを持つ。私の場合は、アフリカの音楽である。具体的には、西アフリカに位置するコートジボワールという国の大都市アビジャンで、ストリート・ボーイたちのつくりだすレゲエやラップを研究したり、ギニアからマリに広がるマンデと呼ばれる民族の伝統音楽とポップスとの関係を研究したりしてきた。こうしたアフリカ音楽を研究しながら、アメリカ音楽とのつながりを考えたり、他地域の音楽と比較したりもしている。
さて、ここまで読んできた読者のおおくはこう思ったことであろう。
「なんだ、普通じゃん」
情報の溢れる現代において、文化人類学なんて、なんの目新しさもない。70年代から80年代にかけて、山口昌男が活躍し、中沢新一がデビューした頃、もしかしてこの学問はとんでもなく新しい知見をもたらしてくれるのでは、などと世間に注目されたのも今は昔。人気絶頂のアイドルがセンターから外され、いつのまにか消えてしまうように、文化人類学も当初のインパクトはどこえやら、今では、消えはしないものの、大学のカリキュラムのなかでごく普通の選択肢として他の科目と肩を並べる程度の存在となっている。まあ、それだけ社会に定着したといえないこともないが……
アフリカ音楽は、バブル末期の80年代後半から90年代前半にかけて、ワールドミュージック・ブームの到来とともに世界中でブレイクし、日本でも毎年のように有名アーティストが来日コンサートを開いていた。だがブームとはかならず去るもの。映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年)の公開とともにキューバ音楽ブームが到来すると、日本社会からはアフリカ音楽の「ア」の字も見つけることができなくなり、その後現在に至るまで、ぺんぺん草の生える余地もない。
また、YouTubeにアフリカ音楽に関するさまざまな音源や映像がアップされているので、その気になればいつだって聴いて見ることができる。そのなかにはかなり貴重なものも含まれている。いまさら専門家の話なんか聞かなくたって、自分の感性にあったものをピックアップして視聴すれば事足りるではないか。
ことほど左様に社会は変わり、トレンドは移ろってゆく。まさにメディアは「うたかた」の世界。一寸先は闇、驕れる者も久しからず、ライク・ア・ローリング・ストーンである。
たしかにマスメディアに目を奪われていると、その時々のトレンドに惑わされ、古きを軽んじ、新しきをありがたがる心性に、知らないうちに支配されてしまいがちである。だが私たちの生きている世界は、それほど変化し、進化するものなのだろうか? 毎日のようにテレビやネットで宣伝される「新製品の発売」という現象をこの世界から差し引いてしまったら、私たちの生きる「生の現場」で起きていることは、古今東西、古来より現代にいたるまで、あまり変わらないのではないだろうか?
国際結婚という現場
たくさんの「現場」がある。現場とは生きた人間が活動をおこなうフィールドのこと。そこでは筋肉が身体を動かし、声帯の震えが言葉となって空気を揺らし、心と心がぶつかりあってスパークする。工事現場で労働者が働き、介護の現場で介護者と被介護者が呻き、家庭という現場で親子が反発しあい、大学という現場で学生は学び、あるいは眠る。ひとりひとりが個別的な現場で生きている。それこそがリアルな生である。
私は文化人類学者であり、大学の教員である。大学という職場での生活が私の現場だ。だが、それ以上に私が「生きている」現場がある。それは国際結婚という現場だ。
私の妻はアフリカ人。名はニャマ・カンテ。アビジャンでのフィールドワークの際に知りあい、7年間の交際期間を経て1996年にかの地で結婚した。妻は1998年から日本に居住し、翌年には愛娘を出産。毎年里帰りはするものの、20年にわたって日本に住みつづけ、今では日本が第二の故郷となっている。
私の日常は非日常である。毎日、家に帰ると黒人の妻がいる。彼女はコートジボワール育ちのギニア人。かの地の公用語であるフランス語と、母語であるマンデ語というアフリカの言葉と、耳で覚えた自己流の日本語、この3つがごちゃ混ぜとなって我が家での会話が構成される。私と妻はフランス語と日本語で、娘と妻はマンデ語と日本語で、私と娘はもちろん日本語で会話し、ときどき私がへたくそなマンデ語をしゃべって、妻と娘の失笑を買う。言葉がチャンポンなゆえに、ときにお互いのメッセージをミスリードすることもあるが、そんな時は、日本人どうしでさえ意思の疎通が図れないことも多いのだからと、気楽に構える。
彼女は「グリオ」と呼ばれる伝統的な語り部・楽師の家系に属し、幼いころより歌や踊りを生業とし、正式な学校教育を受けていない。よって、なぜ可愛い一人娘が学校などという所にいって、苦労して勉強などという行為をしなければならないのか、わからない。日本において小中学校は義務教育であり、普通の人間は高校に進学するものだ、などと説明してみても、いまいち釈然としない様子。娘が定期試験前に家で勉強などしようものなら、体に悪いから止めろと言い、高校受験のために日夜蒼い顔をして勉強していた時期などは、娘が死んでしまうと本気で嘆いていた。
妻はまた、私の仕事に対しても基本的理解を欠いている。いったい大学とは何なのか。小中高と勉強して、まだ勉強しなければならないのか。通常であれば、大学教授などといえば尊敬されるものであるが、この点において妻は私に対する敬意をまったく欠いている。いったいあなたは大学などという所で何をしているのか、そもそも大学に行っているのか、ほんとうは別のところで遊んでいるのではないか……疑いだせばきりがない。また、私がグリオに関する論文を書いてみても、自身がグリオである彼女は「あんたに何がわかるの」とばかりに、鼻にもひっかけない。
まだまだ書くことはいっぱいあるが、ことほど左様に、我が家では毎日が異文化体験なのである。私にとって異文化とは、抽象的な議論の対象でもなく、一般教養を高めるための話題でもない。それは日々の現場で生起するリアルな出来事にほかならない。
現場からのメッセージ
ひとりひとりに生の現場がある。各人はそこで笑い、怒り、学び、感動しながら固有の生を生きる。その集積が世界を形づくる。ある者は自分が特別であると驕り高ぶり、ある者は自分の凡庸さにため息をつく。だがいつの時代にも、そうした濃淡のある生の総体が歴史となって流れてきた。どのような状況におかれても、各人は個別的な生をしっかりと生きるしかないのだ。私の場合は若干普通とは異なる生のあり方をしているが、まあ、地道に仕事をして、家庭の幸せをできる限り守るよう努力してきたつもりである。だが、そんな私にひとつの事件が起きた。
私は仕事柄、「執筆する」という行為に従事することがおおい。内容は論文からエッセイまで、形態は学会誌から単行本までとさまざまである。ある日、講談社のニュース・サイト「現代ビジネス」の編集者からメールが届いた。「差別について何か書いてくれ」というものである。ちょうど正月番組におけるダウンタウン浜田のエディー・マーフィー・メイク問題が話題となっており、トランプ発言も相変わらずの差別的ニュアンスのオンパレードで、たしかにトレンドな話題ではあった。私はこうした社会問題の専門家ではないが、アフリカ人と国際結婚した文化人類学者として自由な見地から好き勝手に書いてくれ、という注文だったので快諾し、私のコートジボワールでの生活や妻と体験したエピソードを交えながら、「差別という憑き物を落とす必要性」について書いてみた。
『「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること』(現代ビジネス/2018.2.22)
記事が掲載されると、ものすごい反響があった。「現代ビジネス」の各記事には「シェア」とか「ブックマーク」のボタンがついているが、2~3日のあいだにシェアは8000件以上、ブックマークは800件ほどにのぼった。「Yahoo!ニュース」にも同時掲載されたため、さらにおおくの人の目に触れ、ツイートの嵐となった。職場の同僚、友人、知人などからも「あれ、読みましたよ」と声がかかった。
地味なエッセイとして、数百人程度に読んでもらえればいいな、などと呑気に構えていた私は面食らってしまった。いったいこれはどういうことか? ツイートの内容を眺めてみると、否定的なもの、確信犯的にブラックなものも散見されるが、ほとんどが肯定的なコメントであった。なにがウケたのだろう?
するとすぐに、本サイトの編集者からいきなりメールが届いた。あの記事を読んで感動したので、「差別」をテーマに連載をしてくれというのだ。私はすぐに断った。私は社会問題の専門家ではないし、差別などと重いテーマにたいし責任はとりかねます、と。すると彼は、なぜあの記事は反響が大きかったのか、彼なりの分析を聞かせてくれた。あなたの体験したエピソードそのものが物語っているのです、抽象的な議論や理念的な正義ではなく、体験からあなたの紡ぎだした具体的なことばがメッセージとなっているのです、と。
体験することと表明することは別の行為である。体験し、反省し、成長する。それは個人的な営みであり、自分なりに工夫しながら頑張ればよい。いっぽう、外部に表明することは他者とのコミュニケーションであり、責任を伴う行為である。反対意見をぶつけられることもあれば、説明責任を求められることもあるだろう。正直言って、気が重い。
でも、きっと物事には意味がある。私が国際結婚の現場を生きていた約20年。ひとつの記事をきっかけに、その一部が人々に受けいれられ、共感してもらえたということ。それを受けての、連載への誘い。これは「ぼちぼち文字にしなさい」という天の声なのかもしれない。
多様性バンザイ
というわけで、本連載をはじめさせていただきます。
最初にいただいたお題は「差別」ですが、それでは範囲が狭いし、なによりも重いので、私が生きている「多様性」をテーマにしたいと思います。このテーマも、すでに当たり前で使い古された感がありますが、私のスタンスはこれまでのものと少し違います。
通常、多様性について語る際には、多様性は正しいものである、尊重されるべき正義である、それを受け容れない者は偏狭な頑固者で、あるべき生の姿を理解できない愚か者である、という上から目線がほとんどである。リベラルな自由主義者と保守的な国粋主義者といった対立軸に沿って議論が展開されることがおおい。
だが私に言わせれば、どっちもどっちである。それぞれが自分の生まれ育った環境のなかで感性や思想を育んでゆく。多様性肯定派はそれなりの環境で、否定派はそれなりの環境で育ってきたのだろう。各人にはそれなりの理由があるはずだ。そうした個別性を無視して、賛成派/反対派と二分すること自体、多様性に反しているのではないだろうか。また、多様性を主張する人も、場面によっては(つまり、自分に不利になる場合には)「そうでもない」という態度をとる場合がある(つまり偽善者である)ことも多々あるように思える。
私は文化人類学という学問を通して、国際結婚という現場を通して、多様性が日常である環境に身を置いてきた。そこで私は違いを楽しんできた。こうして育まれた「多様性バンザイ」という私の世界観=「殻」は、他の人のそれより正しいわけでもなく、優れているわけでもない。ある意味、自分の身勝手な偏見であるといえないこともない。
これから多様性をテーマにさまざまなエピソードを綴っていこうと思うが、すべては個人的な体験から生まれた個人的な見解である。反発していただいて結構、バカにしていただいて結構。でも、もし共感していただけたら、素直にうれしいのである。