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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第14回

「本物」考

2019.04.15更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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歌の原体験

 私がニャマとつきあいだして間もない頃。

 しばしば、彼女の住んでいる下町の家に遊びにいった。


 ふたりの仲は、家族とごく一部の親戚しか知らない。


 狭い居間には、妹3人と近所の子供たちが遊んでいる。彼らは私の視界の範囲内で戯れることを好んだ。


 するとニャマのオバのひとりが、おおきな楽器を抱えた男といっしょに訪ねてきた。男はごく近い親戚筋にあたる。


 彼の抱える楽器は「コラ」。おおきな瓢箪のボディに長い竿を立て、その両側に21本の弦を張り、両手の親指と人差し指で演奏するハープのような楽器で、非常に清んだ美しい音を奏でる。アフリカを代表する楽器で、アフリカ大陸の中部から南部にかけて広く分布する「親指ピアノ」とならび、もっとも有名なアフリカ固有の楽器として、世界中に愛好家を持つ。


 私もその存在は知っていたが、実物を間近で見たのは初めてであった。


 オバから耳打ちされた男は、「ああ、おまえがニャマの<友だち>か」と言いながら私と握手を交わすと、おもむろにコラを弾きはじめた。


 小さな居間が、芳醇なアコースティックの音で満たされる。


 緩やかなリズムがみなの身体を包みこむ。


 やがて彼が歌いはじめると、みなが要所々々で笑ったり、合の手を入れたりして反応する。


 ニャマは恥ずかしそうな照れ笑い浮かべながら、体を左右に動かしている。


 どうやら、私たちの恋について歌っているようだ。


 歌が佳境に入り、コラの弦をつま弾く指に力が入ると、そこにいる全員がすぐにそれを察知し、力強い手拍子を打ちながら、いっしょに歌いはじめた。


 幼子から大人まで、全員が一糸乱れぬリズム感で、手をたたき、身体を揺らし、コーラスをつける。


 コラの音と、男の歌と、手拍子と、コーラスと、体の動きと、すべてがみごとにシンクロしながら、小さな音の宇宙が私の目の前に出現した。


 私はそのヴァイブに全身を包まれながら、「音楽とはこういうものなのか」とひとり頷くばかりであった。


語り歌う民


 あの時、男はコラをつま弾きながら、即興で私たちの恋について歌いあげた。


 このように楽器を演奏しながら語り歌うプロの演奏家を「グリオ」と呼ぶ。


 13世紀、西アフリカにマリ帝国という大帝国が誕生した。建国者である英雄スンジャタ・ケイタの不思議な出生から、苦難に満ちた成長期を経て、呪術を操る宿敵スマオロ・カンテとの対決とその後の帝国樹立までの物語を、グリオはコラや木琴などの楽器を奏でながら、叙事詩として伝えてきた。


 平家物語を伝える琵琶法師の現在進行形、とでもイメージしてもらえれば良いだろうか。


 マリ帝国は300年ほど栄えた後に滅亡する。


 このマリ帝国に起源を持つ諸民族を「マンデ」と総称するが、あの『ルーツ』の主人公クンタ・キンテもその一員で、彼の民族名マンディンカとは「マンデの民」という意味である。


 私が体験したように、グリオはアコースティック楽器で非常に柔らかい音の世界を紡ぎだすのであるが、お祭りの場となると、一転して強く激しい演奏をする。


 村祭り、結婚式、政治集会などなど、さまざまな祭り事にはかならずグリオが招待される。


 派手な衣装と装飾品を身につけたグリオがマイクを握りしめ、エレキ・バンドの伴奏で、あるいはジェンベと呼ばれる太鼓の合奏にあわせて、声を張りあげながら歌いまくる。


 歌の内容は出席者を誉めちぎる「誉め歌」である。特定の個人を誉めて誉めて誉めまくる。マンデの民にとって、公衆の面前でグリオに誉められることは、このうえない喜びなのだ。


 文字のないアフリカ社会では、話し言葉がおおきな力を持つ。言葉には言霊が宿り、それを自由かつ効果的に扱うのが言葉の達人たるグリオの仕事。彼らの声には「福」が宿る。
 みなの前で福を授けられた人は、その返礼として祝儀金を渡さなければならない。


 彼は、彼女は、おもむろに立ちあがり、ポケットから、ハンドバッグから札を数枚とりだし、グリオに手渡し、あるいはグリオの目の前にばらまく。


 札の枚数に応じて、それがばらまかれる時間に応じて、グリオの歌は熱を帯び、その誉め言葉の数々があなたを直撃する。


 誉め歌の個人攻撃に酔いしれたあなたは、次から次へとお札を繰りだし、気がつくと懐はスッカラカンになっている。だが、グリオの生きた言葉にはそれだけの価値があることを、マンデの民は心得ている。


 超一流のグリオが大金持ちを誉めた場合、その祝儀金は数百万にのぼることも珍しくなく、ときにメルセデス・ベンツの鍵を渡されることもある。もちろん、新品の車体つきである。


歴史の重み


 アビジャンのストリート文化研究が一段落したところで、私は「マンデのグリオ」に研究テーマを移していった。


 ニャマの民族がマンデであり、家族がグリオの家系なので、要するに親戚づきあいをしながら調査を進めていった、というわけである。これは、たとえば松たか子や寺島しのぶと結婚した外国人が、その家族を通して歌舞伎の研究をするようなもので、親戚づきあいと調査・研究が一石二鳥となり、まことに効率がよい。普通なら話してもらえない裏話まで聞きだせるというメリットがあるが、親戚関係は死ぬまでつづくので、下手なことを公表して喧嘩にでもなると逃げきれないというデメリットもある。


 私は「親戚づきあい=調査」を通して、アフリカの「伝統」と正面から向きあうこととなった。


 それまで、アビジャンのストリートで、何もないところから文化を創りだす若者たちの猥雑なエネルギーに揉まれてきた眼には、マンデの世界はじつに整然と秩序だったものに見えた。


 たとえば音楽について。


 ジェンベ(太鼓)の叩きだすすべてのリズムには、名があり、意味があり、対応するダンスがあり、演奏されるにふさわしい場がある。


 グリオの歌うレパートリーには、タイトルがあり、故事と結びついた起源があり、コラや木琴による固有の伴奏パターンがあり、歌われるにふさわしい相手がいる。


 マリ帝国をマンデの起源と考えれば、そこには700年以上にわたる歴史の厚みが横たわっていることになる。


 西アフリカでもっとも広範囲に通用するマンデの言葉は、おおくの方言を包含しながら、確固とした発音と文法でもって音のコスモスを形づくり、グリオの歌として長年にわたり鍛えあげられるなかで独自の美的オーラを発散する。


 結婚の仕方、親戚づきあいの作法は一定の様式に則り、誰に敬意を払い、誰と親しくすべきか、あらかじめ決まっている。


 アビジャンのストリートの、その場その場で生成してゆく浮遊する文化と、いかに違うことか。


 まさに、本物の文化がそこにあった。


 人類が、時間をかけて、延々と築きあげてきた真正な世界が、そこにあった。


 この「伝統」なるものに、彼らは無意識のうちにしたがい、それをこの世の常識として、けっして疑うことなどないかのようであった。


 私はその様子を見ながら、歴史の重みをこの手で計れるのではないかなどと、半分冗談で、だが残り半分は本気で思ったりしたのであった。


本物って、なに?


 本物か偽物か、それが問題だ。


 冒頭で紹介した、グリオがコラを弾きながら私たちの恋物語を語ってくれたあの時の音楽はあまりにすばらしく、本物として私の心と体の奥底に定着してしまった。


 聴く側がいつのまにか演じる側にまわり、すべての人を巻きこみながら音楽が立ちあがる瞬間。それは、ひとつの文化に根ざした共通了解がその場を完全に覆っているからこそ成りたつ、至福の時であった。


 あれ以来、日本やヨーロッパにおけるアフリカ音楽のコンサートがつまらなくなってしまった。いかに大物がすばらしい演奏をしようとも、聴衆とのあいだにコミュニケーションの成りたたないアフリカ音楽など、その抜け殻にすぎないではないか。


 おなじことは、ジェンベについても言える。


 ジェンベとはマンデの伝統的な太鼓で、非常にエッジの効いた大きくて硬い音を奏でる。その高性能ゆえに、アフリカの他民族・他地域においても普及し、日本を含めた先進国でも愛好家がおおく、ジェンベ教室も人気が高い。


 マンデの祭りに何度も出席し、私の名を叫びながら金を巻きあげようとするグリオの誉め歌から逃げまわっていた私は、ジェンベの演奏を数えきれないほど聴いてきた。


 まずは、グリオの歌を邪魔しないようにと、抑制されたリズムで伴奏をつける。


 誉め歌の盛りあがりとともにジェンベのリズムも熱を帯び、祝儀金のやりとりが終わってダンス・パートに入ると、待ってましたとばかりに鍛えあげられた男たちが力強いリズムを繰りだす。


 すると女たちが中央に躍りでて、リズムにあわせて踊り、跳びはねる。


 ひとり、またひとりと、リレー形式で飛びこんでくる踊り手の足の動きにシンクロさせながら見事な手さばきを見せるソロ奏者と、それを支えながら強力なグルーヴを創りだす伴奏者による完璧なアンサンブルは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の小型アフリカ版といった趣である。


 こんな体験を、文字通り「飽きるほど」してしまった後で、日本でジェンベのワークショップに立ちあっても、ジェンベのコンサートを見学しても、一種の空々しさしか感じなくなってしまった。


 いったい、この音は、誰にむけて、何のために鳴っているのだろう。


 歌も太鼓も、あるべき場所で、あるべき姿で、響くべきである。


 それこそが、本物というものではないだろうか。


本質主義の罠


 ここまで読んできて、なるほど、アフリカにはすばらしい音楽文化が根づいている、私も本物に触れてみたい、などという感想を持った人。


 ちょっと待っていただきたい。そこには危険な落とし穴が隠されている。


 本物があるということは、偽物があるということである。


 だが文化に、本物と偽物があるのだろうか?


 文化とは、人間の営みにほかならない。


 マンデの民がグリオの歌を聴き、心動かされるのも文化。


 日本人がライヴハウスやコンサート・ホールでグリオの演奏を聴き、歌の内容はわからないながらもそのすばらしさに感嘆するのも文化。


 その「場と文脈」に違いはあるが、どちらも起こるべくして起こっているという意味においては本物である。


 マンデの祭りでジェンベと踊りがシンクロするのも文化。


 日本人がつたないジェンベを叩きながら、アフリカ音楽に触れた喜びを噛みしめるのも文化。いかに下手くそでも、当人にとっては意味ある行為にちがいない。


 たしかに、前者を本物とし、後者を偽物とする見方は成りたつかもしれない。


 たとえば、それが生まれた場所との距離によって、差が生まれる。マンデ音楽はマンデの地で聴くにかぎる。


 このことは物理的距離にかぎらない。いわゆる「黒人音楽」は、奴隷貿易を通してアフリカから新大陸・カリブ海に連れてこられた黒人によって創られた音楽だが、それらは海を隔てたアフリカとの結びつきを何らかのかたちで感じさせるという意味において共通性を持ち、しばしばアフリカ文化との近親性がその真正性の基準となる。


「これはブラックだね~」「あいつは白人に魂を売ったぜ……」


 すると今度は、文化的距離と物理的距離の基準が錯綜し、ジャマイカのレゲエは本物だがアフリカのレゲエは偽物だ、アメリカのラップは真正だがアフリカのラップは物まねだ、という評価が成りたつ。こうなると、アビジャンのストリート・ボーイによるレゲエやラップは、偽物であるということになってしまう。


 このように、それ自体が独立して本質的な価値を持ち、本物として成りたっているという考え方を「本質主義」と呼ぶ。


 黒人と白人との区別は絶対で、双方の特質はすでに決まっているとか、アフリカ音楽とはこれこれのもので、黒人以外には真似できないとか……


 私たちはすべて起源を同じくするホモ・サピエンスなのだから、人種や民族の区別がこの起源に先だって存在しているということはないと考えられる。世界中に拡大する過程で、異なる環境にあわせて適応した結果が、身体的・文化的違いとなって現れたと理解するべきであろう。ただ、そのプロセスがあまりにもゆっくりと時間をかけておこなわれたため、その違いを足がかりに私たちの人格が形成され、心の奥底のアイデンティティと文化の固有性が直結しているのだろう。


 文化には本物も偽物もない。


 ただ、違いがあるのみである。


転石苔むさず


 本物志向とは、「安住」への誘惑である。


 本物が確定しているのであれば、それ以上探す必要はない。悩む必要もない。


 心は休まり、気持ちは和らぐ。


 だが現実はつねに変化している。


 その流動性があなたの安定した世界を脅かし、心をざわつかせる。


 いつしかあなたは変化を恐れ、他者を憎むようになる。


 偽物を排除し、本物を守らなければ……


 たしかに過去と結びつき、時の積み重ねのなかでみなとシンクロできる世界はすばらしい。だが過去に閉じてばかりもいられない。


 何もないところに、それまでなかったものを創りあげるすばらしさも存在する。それは未来につながる、開かれた志向性である。


 おそらく、日常生活において私たちは無意識のうちに本質主義者として生きている。


 性別も、人種も、民族も、所与のものとしてその中身を疑うことなく、生活を営んでいる。


 その日々の営みが、世界の歴史をつくりだしてゆく。


 こうした日常のなかでものを感じ、体験を積み重ねてゆくのであるが、つねに「知」に問いかけることを忘れてはならない。


 考えて、分析する頭を持つことが肝要だ。


 人は容易に環境に左右されてしまう。


 アビジャンのストリートで「完全自由主義者」となった私が、マンデのグリオに囲まれて、いつのまにか「本質主義者」になるところであった。


 これはひとえに私の知的怠慢のなせる業であり、けっしてグリオのせいではない。


 冒頭で紹介したグリオは、今ではパリに住み、そこで生まれ育った子供たちはマンデ語よりフランス語を自由に操る。


 マリ帝国の歴史を伝える語り部たちは、日本人の文化人類学者などより、はるかに自由に時代の波を渡りあるいているのだった。


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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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