第43回
解説(3)
2018.03.15更新
【 この連載は… 】 「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孫子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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三、孫子と日本
さて、孫子はいつ日本に紹介されたのか。
一般的には八世紀に吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったのが最初とされている。
これに対してサミュエル・ブレア・グリフィスは前掲書の中で、「吉備真備が帰国する数世紀前に、古代中国の兵法書はすでに日本人(少なくとも一部の日本人)には知られていたと確信している」としている。
というのも、すでに中国から日本への文化移入はあったからである。
日本で孫子が広く普及したのは、戦国時代である。
戦国時代において、武士たちは有力な武士ほど論語などの四書五経と、孫子などの武ぶ 経けい七書を学ぶのが常識とされていた。武経七書とは、『孫子』『呉子』、『尉繚子(うつりょうし)』『司馬法(しばほう)』『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』『李衛公問対(りえいこうもんたい)』のことを指す。もちろんその中でも孫子は、圧倒的な存在感を示していた。
この中でも孫子の次に有名なのは呉子である。我が国の言葉でよく「孫呉の兵法」と一緒にいったり、「孫呉も顔負け」とかいったりもする。孫子と孫呉を併せて一冊の本にしてある啓蒙書もある(『孫子・呉子 新書漢文大系3』明治書院など)。
呉子は約二千四百年前に楚の宰相となった呉起の言葉を集めたものとされる。孫子に比べて記述は生々しく、戦術として役に立つことも多いが、孫子のように体系化されておらず、深みも少々物足りない。
尉繚子は奏の始皇帝に仕えた兵法家尉繚の説を集めたものであるとされる。この本は、戦争は悪いという基本的考え方に立っている。
六韜は、周の建国に貢献した太公望呂尚の教えを集めているとされている。一つの篇の中に「虎の巻」というものがあり、この言葉は日本語でもよく使われている。内容に孫子ほどの独創性はない。
三略も太公望の兵法書とされている。内容的にも『老子』の影響がある。
司馬法は、約二千六百年前の斉の田穣苴(でんじょうしょ)の書とされる。しかし、現存のものは五、六世紀のものではないかといわれている。一貫した内容には乏しいものがある。
李衛公問対は、七世紀の初め、唐の武将であった李衛公の話を記録したものとされているが、後世の偽書ともいわれている。孫子、呉子など多岐にわたって論じているが、兵法書としてそれほど重視はされてこなかったようだ。
戦国時代の有力武士が孫子を含む武経七書と、論語を含む四書五経を学んでいた一つの証拠として、『甲陽軍鑑』に武田信玄の弟・信繁が子弟に与えた「典厩(てんきゅう)九十九箇条」があるが、それを読むと四書五経と武経七書が多く含まれている。普段から孫子の教えも学んでいたことがうかがえる。
以上のようにやはり孫子への信頼は絶大であった。
武士たちの多くは、禅僧たちから教わっていた。というのも禅僧はほとんどが漢文を読めたし、戦国大名の多くは禅僧を人生の師として持っていた。
さらに日本人は漢文を書き下し文という形に変えて、日本語として漢文の原文を学ぶというすばらしい発明をしていた。
中国人でも論語や孫子をどう読むかは、専門の学者によらないとほとんどわからないという(『読む年表 中国の歴史』岡田英弘著 WAC参照)。一方で日本人は、漢文の原文を書き下し文にしていたので、武士たちにも読むことができた(おかげで現在でも私たちは論語や孫子をこのようにして学べる)。
あの農民上がりで無学といわれた豊臣秀吉についても、歴史学者の小和田哲男氏は「当然、秀吉もそうした信長の期待に応えるように、『武経七書』は読みこなしていたと思われる。もしかしたら秀吉は、耳学問が中心だったかもしれない」と書かれている(『戦国大名と読書』柏書房)。
小和田氏は、いわゆる「中国大返し」は、孫子の「兵(へい)は拙速(せっそく)なるを聞き くも、功久(こうきゅう)なるを未だ睹(み)ざるなり」(第二章作戦篇)そのものであるとしている(前掲書参照)。
また、徳川家康も、師の太原雪斎から孫子の教えを教わっており、自身も武経七書の出版をしている。
江戸時代は、専門の学者階級も出現し、武士は、その講義や書物で広く学ぶようになった。この時代に孫子を著した学者として有名なのは林羅山、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰などである。
明治に入ってからも日清、日露の戦争の時は、将軍や高級将校の多くは武士の出であり、孫子はよく学んでいた。
これは海軍においても同様で、日本海海戦を前に連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、孫子一冊だけを抱えて船に乗り込んだとされる。また、作戦面のほとんどを委せた参謀の秋山真之(さねゆき)は、アメリカに留学中も孫子を学び、実践でもそれを応用した。
秋山真之研究で右に出る者はいない島田謹二博士の『アメリカにおける秋山真之 米国海軍の内懐に』(朝日文庫)の中で、アメリカ留学中に兄・好古(よしふる)(陸軍における日露戦争の英雄の一人)から荻生徂徠『孫子国字解』を送ってもらって、感動しながらそれを読む秋山真之が描かれている。
秋山の自論である「優勝劣敗」、すなわち「戦術巧妙なりとも、兵力少なければ勝つ能(あた)わず」というのは孫子そのものだ。
東郷平八郎、秋山真之などの現場の将校だけでなく、政府も日本にいる軍上層部も孫子の教えに忠実であった。それほど小さいころから学んできた者が多かったのであろう。
ところが、日清、日露に勝った軍部の面々は、自分たちこそが強いという錯覚をしてしまった。さらに軍部の組織もそれぞれの学校エリートが支配し、頭でっかちな日本独特の精神論が幅を利(き)かすようになった。
その後、日華事変(日中戦争)そして太平洋戦争と、孫子の教えとはまったく相反するやり方と戦略を行い、政治も軍部も、敗けるべくして敗けていく状態となった。
たとえば、スパイなどの情報活動でも日露戦争当時はロシアやヨーロッパ各国、アメリカなどに優秀な人材を送り込んで情報収集にあたったのに、太平洋戦争前は逆にゾルゲやソ連のスパイとなった尾崎秀実(ほつみ) (近衛文磨政権のブレーン、朝日新聞記者)などによってかきまわされている。
軍事的な戦力面でも国の経済力でも、日本はアメリカに比べて圧倒的に小さかったし、日華事変、太平洋戦争と長い長い戦いをしてしまっている。作戦面でも孫子の教えに反するものが多かった。
これでは勝てるはずがなかった。
一転、敗戦後は、欧米の文化、思想を多く学んだが、それとともに再び孫子の教えも復活している。その一因として、孫子がビジネス面、自己啓発面での活用を見直されたことが大きかった。今では毎年、毎年いくつもの孫子に関する書籍が出る状況となっている。
学問的にも、学者のみならず市井の研究のすそ野がとても広いものとなり、それが日本における孫子の特徴となった。
前にも述べたように、読み下し文にしたもので原典にあたれるのが日本人の強味であり、それによって今では、世界で一番孫子の学習に熱心な国民となっている。
あとは、政治や外交、国防(今では日本の場合自衛隊ではあるが)にどれだけ生かせるか、実践できるかにかかっている。
かつてサミュエル・スマイルズが『セルフ・ヘルプ』の中で力説したように、国民一人ひとりの合わさったものが国力であるとするならば、多くの国民が孫子の兵法を身につけることで、日本は政治、経済のみならず、外交、国防にも強くなっていくはずだ。
本書もその一助となればと願っている。
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