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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第1回

はじめに

2018.02.05更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
「目次」はこちら

 ブスの敵は美人ではなく、ブスを蔑視する人だ。
  「ブス」と言って、こちらをののしってくる人だ。
  しかし、その本当の敵は、うまーく目くらましをして、「ブスが戦うべき敵はあっちにいますよ」と美人がいる方を指差し、自分はスーッと避難して安全地帯から攻撃を繰り返す。そして、私たちブスから自信や居場所をどんどん剥奪していく。
  本当の敵、すなわち「ブス」とののしってくる人たちに、罪悪感はない。「社会の仕組みに従っているだけ」「みんなが言っていることを自分も言っただけ」、なんて思っている。
  そう、体制側はヒエラルキーを作って被差別者の怒りの矛先を操るものだ。
  その人たちが「ブスの敵」と設定している美人たちは、大抵の場合、実はブスに優しい。
  美人がブスをののしることは稀だ。曖昧な顔の人と違って、美人がブスを攻撃する必要なんてないからだ。
  ブスにとって、美人は友だちだ。大概、仲良くなれる。
  人間関係を純粋に築けば良い。敵視したり、憧れたりする必要はない、と私は思う。実際に、私にも美人の友達が何人もいる。
  私は、ののしってくる人に対してだけ、「困ったなあ」と感じている。

 テレビのお笑い番組などが、ブスキャラ芸人さんを使って、「美人女優さんやモデルさんに向かってケンカをふっかけさせる」「『自分は美人だ』と勘違いしているかのような振る舞いをさせる」といった作り方をしているのをよく見かける。
  でも、カメラがまわっていないところでブスキャラ芸人さんと美人女優さんが仲良くなることは珍しくないらしいし、現実世界においてはブスの自覚を持っていないブスは少数だろう。つまり、芸人さんたちは、「サービス精神」「プロ意識」を持って演じているだけなのだ。芸人さんたちの、恥を捨てる根性や、ひたむきな努力には敬服する。美人にやきもちをやいているフリや、ブスの自覚がないフリを、しっかりとやってのけている。
  現代日本社会における芸人さんの活躍は目覚ましい。
  こうして、ブスという言葉をエッセイで乱発しても怒られずに済むのは、芸人さんが多用しているせいで、読者みなさんが耳馴染みをしているからに他ならない。これが十年前だったら、ちょっと怒られたかもしれない。

 そして、ブスキャラ芸人さんの数の増幅は、ブスの多様化も表現してくれている。少し前まで、ブスというのはひと枠だった。「ブス」という個性のみを保持していた。たとえば「ブス枠」の芸人が同じ番組に二人は出てこなかった。だが、最近の芸人さんは、「こういうブス」「ああいうブス」「ブス+何か」と進化を続けていて、同一番組に「ブス枠」の芸人さんが何人も出てくる。そのおかげで、私たちも、「ただのブス」ではなく、「私らしいブス」として社会に関わることができるようになってきた。

 また、ひと昔前までは、ブスに美人風のメイクを「施してあげる」という番組ばかりだった。画一的な化粧や整形やダイエットを施して「全員で美人を目指す」という社会改革のみが、ブスを生きやすくすると思われていた。
  しかし、今は、ブスが生きやすくなる方法も多様になっている。ブス自らが化粧やファッションを勉強し、決して美人に近づくためではなく、自分の個性的な顔立ち、太り過ぎていたり痩せ過ぎていたりする体型を、隠すよりも活かすように、前向きにおしゃれをするようになってきた。あるいは、コスプレみたいに、もともとの姿とはまったく離れて、精神的な個性をファッションで表現する人もたくさんいる。インスタグラムやツイッターなどの個人メディアで発信する人もいて、女性からも男性からも「かわいい」「ヴィジュアルが素敵」と言われるブスキャラ芸人さんがどんどん登場している。

 さて、ここまで芸人さんについて熱く語ってきのは、もちろん、私がお笑い好きだからだ。
 でも、「お笑い番組や芸人さんだけにブス関連の仕事を任せるわけにはいかない。文学者が取り組むべき仕事がある」という思いも私は抱えている。その理由は四つある。

 まず、一点目に、「実在のブスは、三枚目キャラばかりではない」ということがある。
  ブスの多様化、と言っても、芸人さんには共通点がある。「ブスを笑いに変えたいという思い」、それから、「ヴァイタリティー」「打たれ強さ」「その芸人さんなりの明るさ」といったものを持ち合わせている。
  だが、この世には、真面目なブスや暗いブス、笑いのセンスがないブスもいる(私だ)。

 二点目は、「現実社会においては、笑いに変えるべきではないシーンもある」ということだ。
  「『ブス』と言われた」というシーンは様々で、ひとくくりにはできない。
  軽いじゃれ合いだったり、親しい人からのからかいだったり、笑いに変えて返した方がスマートなシーンも確かにある。
  しかし、人権を無視された場合、学校におけるいじめの場合、仕事に支障が出る場合など、怒ったり訴えたりする必要があるシーンも少なからず存在する。

 三点目は、「お笑いには、世界の独特さや、仕事の環境から、おそらく限界がある」ということだ。
  テレビ番組などでブスを取り上げる場合、プロデューサーなどの制作側も、想定している視聴者も、いわゆる「『古い男性』的な人」というか、「ブスVS美人」といったキャットファイトを好む人たちであることが多く、芸人さんは「体制側にサービスすることが仕事」となり易いのではないか、と察する。ブスのキャバクラというか……。「自虐を見せてくれ」と求めてくる客に求められている通りの自虐を見せる仕事というか……。世界観を揺るがせたり、変化球をなげたり、ブス発信でブスの観客を笑わせるブスネタを作ることも可能なはずだが、たぶん環境的に難しいのだろう。視聴していて、ブスキャラ芸人さんの「プロ意識」「サービス精神」「努力」「根性」を讃えたくなることは度々ある。だが、「新しい視点」「センス」「知性」「革命」といったものは、その萌芽を感じることはあっても、なかなかはっきりとは見つけられない。ご本人たちにそれがあっても、発揮するのが難しい世界なのかな、と思う。

 四点目に、「せっかく、ブスとののしられてブスについて考えさせられたのだから、自分がとりあえず生き抜くというだけの話に終わらせず、この社会システムの成り立ちについて、深く考察してみたい」「できるなら、社会を少しずつ変えたい」「革命を起こせるなら、起こしたい」と考える人もいるのではないか、ということだ。

 この四点の理由から、作家としてブス関連の仕事に取り組みたい、と私は考えた。文学に求められていることがあるような気がするのだ。

 ブスの本を出版したい、という思いを、私は作家デビュー直後から抱いていた。しかし、なかなか上手くいかなかった。ブスという言葉を書くな、発するな、と言われたこともある。また、小説にしようとしたところ、自分にとってリアル過ぎるテーマだからか、単なる力不足か、昇華できなかった。他のテーマのエッセイを書いているときにちらりと容姿に関する小話を出すことはあって、それはわりと評判が良かった。それで、今回初めて、ど直球に「ブスのエッセイの本」にチャレンジしてみたいと決意した。 

 ここで私がどういう立ち位置にいるかを読者へ提示する方が親切だろう。
  私はブスだ。
  そして、純文学系の作家として十四年ほど文学活動を続けている者だ。
  デビューは二〇〇四年で、まだネットリテラシーが浸透していなかった時期だった。Y新聞に載った私の顔写真はインターネット上のあちらこちらにコピーアンドペーストされ、容姿に対するおぞましい中傷や卑猥なからかい文句が踊った(注1)

 デビュー後、一年目から五年目くらいまでの間、「山崎ナオコーラ」というワードを検索窓に打ち込むと、第二検索ワードに「ブス」と出てきた(ある言葉を検索しようとすると、「その言葉と一緒によく検索されがちなワード」が示唆される。それが第二検索ワードだ)。「山崎ナオコーラ ブス」と検索する人が世にたくさんいた、というわけだ。
  そして、「山崎ナオコーラ」のみで検索をかけても、一ページ目に出てくるサイトはウィキペディア以外すべて容姿の中傷を行う掲示板やブログやまとめサイトだった(その頃、匿名掲示板が隆盛だった)。
  この場合、たとえば、雑誌でちらりとエッセイなんかを読んで興味を持ってくれて、「この『山崎ナオコーラ』って人は、他にどんな小説を書いているのかな?」とインターネットで検索した稀有な人がいたとしても、文学作品に関するなんの情報も得られないばかりか、むしろ私が嫌われていることを知って興味を失ったのではないだろうか。
  それで、私は自分の日記を頻繁に更新したり、自分のホームページを手作りして自分で作品紹介を書いたり、しかもその中に「山崎ナオコーラ」という言葉を散りばめたり、……というくだらない努力を始めた。「検索にヒットしますように」「一ページ目に上がってきますように」と祈った。しばらくすると、それは一ページ目に出るようになった(注2)
  それから、まとめサイトの管理人さんへ直接に私からメールを送って、「写真を消してもらえませんか?」とお願いしたこともあった。
  まあ、なんにせよ、個人でできることには限りがあり、長い間、中傷のページはたくさん残っていた。新作を発表しても、著者の容姿に対する中傷ばかりが踊り、作品に関する言葉をインターネット上で見つけるのは難しかった。

 ここ数年は、良くも悪くも作家として私が世間から注目されなくなったり、私の年齢が上がったりしたという理由、あるいは、容姿の多様性の受け入れが進み成熟した社会が近づいてきているという理由、または、ネット民たちのマナー意識が高くなったという理由もあるのだろうか、中傷はかなり少なくなった。

 とはいえ、私は長年、自分に対して発されるブスという言葉に対峙してきた。今でも、稀ではあるが、ブスという言葉に出くわすときはある。
  だから、ブスには強い思い入れがある。
  ブスについて書ける機会をもらえたことに、今、とてもわくわくしている。
  ただ、私の考え方は少数派で、違う考えを持つ読者の方が多いんじゃないかな、と予想している。私は違う考えの人に、私の考えと同じに染まって欲しいとは思わない。「へえ、こういう人もいるんだ」程度の読みでいい。違う人にも面白がってもらえる文章を書ける自信はある。違うまま共存したい。
  それと、私は社会学者ではないし、女性の味方でもない。とにかく、文学者として、個人的なことを、自分の言語センスで綴りたい。心を開いてまっすぐに読者と向き合いたい。
  本書を、ブスという言葉で傷ついたり悩んだりした経験を持つ人はもちろん、他人事と捉えてきた人にも手に取っていただき、ブスについて考えるきっかけにしてもらえたら嬉しい(本書が、と書いたが、つまり、このエッセイは長く書き続けて、後日に書籍化する予定だ)。

 (注1 このY新聞の顔写真の元とコピーは、私が個人としてひとつひとつやりとりして、今ではすべて消してもらえています。そのうち詳細を書く回を設けたいです。賛否両論あると思いますが……)。

 (注2 私が自分で作ったホームぺージは、レンタル先のサービス終了にともない、現在では消えてしまいました)。

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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