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これ、なんで劇場公開しなかったんですか? スクリプトドクターが教える未公開映画の愉しみ方
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第2回

ジャンル映画の登場人物も「生きているひと」である

2016.08.02更新

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脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 劇場未公開映画の人気ジャンルのひとつに「モンスター映画」があります。

 なかでも根強い人気があるのはサメ映画です。

 最近では『ダブルヘッド・ジョーズ』や『トリプルヘッド・ジョーズ』という具合に回を追うごとにサメの頭の数が増えていくシリーズ、また極端に巨大なサメと荒唐無稽な敵が闘う『メガ・シャークVSメカ・シャーク』『メガ・シャークVSグレート・タイタン』といったシリーズ、ほかにも竜巻にのっかって様々な場所に大量のサメが出没する『シャーク・トルネード』というシリーズもあります。

 サメ映画以外でも、ヘビと魚が合体したモンスターが襲ってくる『殺人魚獣 ヘビッシュ』や、軍が開発した機械仕掛けのワニが暴れる『ロボクロコ』、ピラニアとアナコンダの混合種がひたすらひとを捕食する『ピラナコンダ』といった作品もあります。

 こういった「大風呂敷を広げた設定」や「カリカチュアされた設定」がモンスター映画の企画として成立するようになったのは、CGをはじめとするデジタル技術の進歩の賜です。


 ただし、それらの企画はどこか「お祭り騒ぎ」的なノリで作られていることが多く(それはそれで時代に見合った「新たな愉しみ方」だとは思いますが)、本来の「モンスター映画」が内包していた「生存欲求への恐怖と渇望」を真摯に描くタイプの作品は作りにくくなっているようです。


 今回取り上げる映画『ザ・サンド』は、そんな「本来のモンスター映画」のスタイルを踏襲しつつ、無名の若手俳優たちの芝居が「とても魅力的に撮れている」極めてめずらしい一本です。

 まずはあらすじをご紹介します。


 主人公は、真夏の夜にビーチパーティーでどんちゃん騒ぎをしている高校生たち。

 大量のお酒を飲んでベロンベロンになった彼らは、その場で着の身着のまま眠ってしまいます。翌朝、浜の監視塔でヒロインのケイリーが目を覚ますと、砂浜はガランとしています。あれだけ大勢いたメンバーのほとんどが姿を消しているのです。

 皆、いつのまにか帰宅してしまったのでしょうか?

 残されていたのは、監視塔にいるケイリーと男友だちのミッチ、監視塔の前に停めてある燃料切れのオープンカーで眠っていたケイリーの彼氏・ジョナと浮気相手のシャンダ、少し離れたところでドラム缶に入れられて出られなくなっていたギルバートと他数名のみです。

 やがて、いなくなった残りのメンバーたちが「帰宅した」のではなく、「夜中のうちに〈砂浜〉に喰われて全員死んだ」ことが判明します。

 当然、逃げようという話になるわけですが、ちょっとでも砂浜に触れたり、足をつけたりすると即座に飲み込まれたり、殺されたりしてしまうため、誰ひとりその場を動くことができません。

 さて、ケイリーたちはどうやってこの苦境を脱するのでしょうか?


 ひとを襲うモンスターがサメやワニやピラニアではなく、「砂浜」。かなりバカバカしいアイデアですが、映画自体はとても見応えがあります。

 まず目を引くのは、状況のセットアップの巧みさです。

 「砂浜がひとを襲う」といっても、CGの砂嵐がグワァッと近づいてくるわけではありません。ただそこに砂浜がある。それだけです。

 しかも、物語のほとんどは「日中」で展開します。モンスター映画に限らず「恐怖」を題材にした物語を白日の下で展開させるのは、緊張感の持続を困難にさせがちで、実はかなり難しいのですが、『ザ・サンド』には、その点すらも味方につけて進めていくしたたかさがあります。

 ヒロインのケイリーがいる「監視塔」と、彼氏のジョナやその浮気相手のシャンダらが乗っている燃料切れの「オープンカー」、そして、ギルバートが入れられている「ドラム缶」、それらの位置関係は直径15メートル以内です。

 極端に舞台を狭くした分、高密度な人間関係とサスペンスが繰り広げられていきます。

 ケイリーは彼氏のジョナといたいのに、ジョナはオープンカーのなかにいるため、砂浜を歩かなければ近づけません。しかも、ジョナの傍らには浮気相手のシャンダがいます。

 この時点で、ケイリーとシャンダとの間に〈関係性が生み出す緊張感〉と明確な葛藤構造が組まれている点が重要です。

 やがて、ジョナはケイリーへの罪悪感もあり、助けを呼びに行こうと「殺人砂浜」に立ち向かうのですが、あえなく失敗。大けがを負ってしまいます。

 これを機に、それまで敵対していたケイリーとシャンダは手を組まざるを得なくなるわけですが、どちらも互いを憎んでいるため、物語の中間部では、いつ何時どちらかが裏切って相手を砂浜に突き落とすのではないか、という緊張感が持続していくのです。

 どんなにバカげた設定(砂浜がひとを襲う)でも、構造上明確な葛藤が組まれてさえいれば、面白く展開させることは十分可能だという好例でしょう。


 ところで、登場人物が砂浜に手をついたり足を降ろしたりすると砂浜に飲み込まれてしまうというサスペンスは「地雷モノ」と呼ばれる企画でよく見かける作劇手法の応用です。地面に仕掛けられた地雷をいかに踏まずに前に進むか、という映画は昔からよくありますよね。

 この手のアプローチを選択した場合、「起きたこと」で見せていくよりも「起きるであろうこと」で観客をハラハラさせていかなければならないため、通常よりも高度な演出が求められます。

 とりわけ重要になるのは俳優演出です。低予算ゆえ映像のスペクタクル性に頼れない分、俳優の内面の感情を引き出し、彼らのリアクションを積み重ねることで状況が持つ緊張感や人物たちの心情表現を構築していく必要があるからです。


 必然的に「登場人物たちのアップ」が多くなります。映画の場合、人物のアップを多用した演出は「テレビドラマ的で安易である」と否定的に捉えられる傾向がありますが、必ずしもそうとは限りません。

 人間の体でもっともドラマチックな部位は「顔」です。アップが多くなればなるほど、ひとりひとりの俳優が背負う役割は大きくなりますし、彼らの貢献度も、彼らへの依存度も高くならざるを得ないため、形骸化した芝居では成立しなくなります。

 無名の新人俳優をメインキャストに選ばざるを得ない「超低予算のモンスター映画」を作る場合、「アップの多様」は安易どころか、むしろかなり高いハードルなのです。


 その点で本作はキャストに恵まれています。ケイリー役のブルック・バトラーと、その恋敵であるシャンダを演じたメーガン・ホルダーのふたりの女優は、無名といって差し支えない程度のキャリアしかありませんが、この企画の「足りない予算」を補って余りあるほどの繊細かつリアルな演技で応えていきます。


 そんな彼女たちの健闘に呼応するように、カメラは「登場人物たちの顔」を丁寧にすくい取っていきます。撮影監督を務めているのは、照明部スタッフとしてのキャリアが長いマット・ワイズ。自然光撮影を活かしたシネスコ画面を駆使し、俳優たちのアップを、そのつど的確な位置から的確に捉えていきます。

 特に開始30分目辺りで生じる「ジョナがサーフボードを使ってオープンカーからテーブルまで移動しようとするくだり」での、カメラのポジション取りとレンズ選択は驚くほど的確で、ハッとさせられます。

 あまりにも自然に観ることができるので、正当な評価をされにくいかもしれませんが、このシーンでワイズがとった選択の数々は、実は相当難易度の高い方法論です。


 いずれにせよ、バトラーとホルダー、ふたりのヒロインの芝居を観ていると、アメリカ映画界の若手俳優の層の厚さを思い知らされます(もし日本でこの企画を動かそうとしたら、彼女たちのレベルの俳優は捕まえられないでしょう。おそらくは演技経験のないグラビアアイドル(しかも二流の)がキャスティングされるはずです)。

 一方、対する男優陣は、自分たちの役割がふたりのヒロインを引き立てることにあるということをかなり深い部分で理解しているようで、全編控えめかつ的確なサポート演技で応えていきます(だからこそ、バトラーやホルダーよりも経験値の高い男優たちがキャスティングされています)。

 特にケイリーとともに監視塔にいるミッチを演じたミッチェル・ムッソは、映画化もされた人気テレビシリーズ『シークレット・アイドル/ハンナ・モンタナ』のオリバー役で有名ですが、前半部で引き算の芝居を続けた結果、中間部で期せずして命を落とすくだりでは本領を発揮。観ていて思わず心痛を覚えるほど真に迫った「死の瞬間」を見せ、場をさらっていきます(このさらい方は、単なる独壇場ではなく、その後のバトラーの芝居にプラスの影響を与えています)。

 若手俳優が揃うなか、キャリアがもっとも充実しているのが、中盤で登場する警官を演じたジェイミー・ケネディです。彼は『スクリーム』シリーズのランディ役が有名ですが、今回はトリックスター(事態を混乱させる役割)としてのちょっとした笑いも提供し、物語のアクセントになっています。


 ところで、この映画が面白く仕上がっている最大の要因は、監督や俳優を含めた作り手たちが、「砂浜がひとを襲う」という企画自体が持つバカバカしさに「依存したり、ハシャいだりしていない」点にあります。

 作り手たちが「自分たちのしていること」に過度に自覚的になり、「どうですか? ぼくたちが今やっていることって面白おかしいでしょう?」と居直ってしまうと、観客は作り手たちの自意識を感じ取り、シラけてしまうものです。

 『ザ・サンド』がそうならずに済んでいるのは、そもそも脚本と演出の連繋レベルが非常に高く、しかも「一見、そうは感じられないように」ジャンルの秩序を守ろうとしているからではないか、とぼくは考えています。


 実際、物語が進むなかで「助けを呼ぶには携帯電話が要る!」という展開になり、登場人物全員の携帯電話をまとめて入れてある場所がオープンカーのトランク内だったと判明してからの流れは秀逸です。

 登場人物のひとりがトランクを開けようとするのですが、後部座席から開けようとするとトランクの取っ手に手が届かず、かといってトランクに乗っかって開けようとすると、取っ手には届くけれど体重が掛かって開けられない。

 その後、砂浜に降りずに「立つことができる」場所はどこかと探した結果、幅にしてわずか数センチの「車の後部バンパーの上」しかない、となります。

 ところが、バンパーの上に立った状態でトランクを開けようとすると、今度は自分の「すね」がトランクに引っかかってしまい、開けられない。

 でも、開けなくてはならない。しかし、踏み外すと砂に足が着いてしまう。さぁ、どうする? といった、本来であれば「単に小さいだけのアクションと葛藤」を、安易に「笑いの方向」に(つまり、作り手がハシャいだ状態に)持っていかず、手に汗握るサスペンスとして成立させている点は無視できません。


 監督はこれが初メガホンとなるアイザック・ガバエフ。これまで『メン・イン・ブラック3』や『アメイジング・スパイダーマン2』といった作品で特殊効果の小道具係やグリーンパーソン(合成用のグリーンバックと同色のスーツ〈モジモジくんのようなものです〉を着て、合成素材を操作するスタッフ。日本の現場ではグリーンマンと呼ばれることが多い)を務めていた人物です。ようするに「特殊効果畑出身の監督」ということです。

 「特殊効果畑出身の監督」のなかには、「俳優の演技よりも映像の迫力」を追求するひとが多く(すべてのひとがそうだとは言いませんが、そういうひとが多いのは残念ながら事実です)、細かい芝居や繊細な心理表現に対してなおざりになってしまうこともあります。

 その点、今回のガバエフ監督の場合、きっちりと登場人物の心理に寄り添った演出をしていて、とても好感が持てます。


 例えば、物語の中間部が終わりにさしかかったころ、ヒロインのケイリーと、それまで敵対してきた恋敵のシャンダが合流。

 ひとしきり罵り合ったあと、ふたりからは距離のあるテーブル上で意識を失いかけているジョナを見つめながら、静かに交わす会話シーンは殺伐とした展開のなかで、心地よいアクセントになっています。

 以下、日本語吹き替え版から採録してみます。




 ふたりは互いに目を合わさず、一定の緊張感を維持したまま、やがてシャンダが口火を切ります。


シャンダ「あなたたち……」

ケイリー「?」

シヤンダ「完璧なカップルだった」

ケイリー「……」

シャンダ「綺麗で、賢くて……愛し合ってて」

ケイリー「……」

シャンダ「結婚して、たくさん子供産むんだろうなぁ、って……」

ケイリー「……私も、」

シャンダ「(ケイリーを見やり)……」

ケイリー「そう思ってた……」


 すでに死を覚悟しているようなケイリーの横顔。


シャンダ「(たまらず)……怖い?」

ケイリー「(それには応えず)ジョナのこと、愛してきた……でも、」

シャンダ「?」

ケイリー「(シャンダを見やり)人生は長いから」

シャンダ「(視線を外し、遠い目になり)……どうかな」


 シャンダの横顔も死を覚悟している。それが痛いほど分かるケイリー。


ケイリー「(言葉が出ない)……」

シャンダ「(同様に)……」




 このあとふたりは意を決し、ジョナを救い出すべく、そして共にビーチから脱出すべく共闘していきます。物語の大きな転換点となる重要なシーンです。

 本来は、この手の規模の、この手の作品でこそ、今挙げたような心情表現の芝居を組む姿勢がとても大切だと思うのですが、残念ながら多くの低予算ホラー作品では、まずそういうことはやろうとしません。

 厳密に言うと、「敵対していた人物同士が、共通の敵〈モンスター〉を倒すため、一時休戦し共に闘う」という機能的役割を持つシーン自体は、大抵のモンスター映画には投入されているものですが、それをさきのような繊細な会話で表現するケースは極めて希なのです。この辺り、脚本家のセンスが冴えていると言って良いでしょう。


 脚本を担当したのはアレックス・グリーンフィールドとベン・パウエルのふたり。

 グリーンフィールドは『メテオ』や『メテオ2』また『M10・0/ロサンゼルス大地震』といったジャンル物のテレビムービー(いずれも日本では劇場未公開のDVDストレート)を多く手がけてきた職人タイプです。

 片やパウエルは2012年制作の劇場未公開映画の秀作『キッズ・リベンジ』で脚本を担当し、一気に頭角を現した作家タイプ。

 パウエルの(現時点での)代表作『キッズ・リベンジ』は、一部で「暴力的なホーム・アローン」と評されている、一軒家を舞台にしたバイオレンスドラマです。

 再婚した両親それぞれの連れ子だった高校生の男の子と女の子が共同生活を始めますが、なかなか兄妹として心を通わせられずにいます。そんなある日、突如として自宅を強盗に襲われ、親を殺害されてしまった彼らは、犯人たちに見つからないようにと身を隠しながら、真の兄妹として結束し、復讐を開始するという話です。

 この映画にも、対立していたふたりの意思が疎通する瞬間を繊細な会話で描いた場面が登場します。

 そういう意味では、さきほどのケイリーとシャンダのやりとりはパウエルの筆によるものかもしれません。

 いずれにせよ、このシーンを観たとき、ぼくは「この映画は信用できる!」と確信しました。登場人物をきちんと「生きているひと」として扱っているからです。


 通常、ジャンル映画の、とりわけスラッシャー映画(若者たちが殺人鬼に次々と血祭りに上げられる物語構造のジャンル)の登場人物は、良くも悪くも「生きた人間」として描かれることはまずありません。

 作り手の手抜きや志の低さがそういう状況を呼び込んでしまうケースもありますが、多くの場合は意図的に「生きた人間」にしないようにするものです。

 というのも、通常、スラッシャー映画の見せ場は、特殊メイクやCGといった視覚効果を駆使して描かれる〈登場人物が殺害される場面〉にこそあります。

 例えば、キャンプ場に姿を現した〈仮面の殺人鬼〉が斧や鉈、チェーンソーなどを使って、若者をひとりひとり惨殺する場面ですね。それこそが観客が求めている描写である、という点がスラッシャー映画というジャンルの特殊性でもあります。

 しかし、いくらスラッシャーのファンとは言っても、通常の感性を持った観客であれば、「共感性の高い登場人物」が殺された場合に、観ているのが辛くなるはずです。


 そうなると、ジャンルとしての愉しみを味わうことができなくなります。だからこそ、登場人物たちをあえて「形骸化したキャラクター」として描き、「生きた人間」としては描かない。これは、観客に「不要な」心痛が発生しないようにとの、作り手の配慮なのです。

 ところが、『ザ・サンド』はそのリスクに果敢にも挑戦するどころか、むしろ積極的に立ち向かおうとします。登場人物たちの死を痛みとして描くことで、シンプルな世界観にリアリティを出そうとしているのでしょう。そういった姿勢の誠実さこそが、この映画のオリジナリティーであり、チャームポイントでもあります。


 さて、全面的に褒めるのも不自然かつアンフェアなので、以下、弱点についても触れておきますね。

 残念なのはクライマックスの処理の仕方です。中間部の後半までは炎天下のデイシーンで押し切ってきたにも関わらず、後半部に入った途端、映画はやや強引にナイトシーンへと突入します。

 そして、砂浜の下に身を潜めていたモンスターが登場、ケイリーが闘うという流れになります。この展開自体は「ジャンルの秩序」を辿ろうとした場合、避けては通れない展開です。ですから、ある程度は仕方がない、とも言えます。

 しかし、元々この映画は、普通のモンスター映画ではないはずです。モンスターを堂々と出せないほど予算が少ない「特殊なプロジェクト」だったはずです。

 だからこそ、「ただそこにある砂浜」というアイデアでモンスターの存在を意識させる、という選択をしてきたはずなのです。

 ところが最後に来て突然、過度に少ない予算のなかで、無理をしてCGのモンスターを出してしまう。率直に言って、ここのくだりのCG処理は目も当てられないほどチープなので、多くのひとが興ざめしてしまうでしょう。


 しかし、個人的に「チープなCG」以上に問題だと感じたのは、「チープなCGとの闘い、というクライマックスを選択したこと」で、ケイリー役のブルック・バトラーの演技が、唐突に形骸化してしまった点です。

 これは、それまでの「経験値の少ない新人女優の個性を活かす」べく、「リアルでナチュラルな芝居」に徹していた流れから、急遽、「合成素材との闘い」へと「芝居の質」が切り替わったことで、立ち位置や動きなどが厳密になり、用意された「絵コンテ」にハメるような演技をバトラーが求められてしまったからではないか、と推察します。

 もし、想像のとおりだとしたら、あまりにももったいない話です。

 最後まで「モンスターを出さない」という判断は、商品制作として勇気がいる行為だとは思いますが、そこに至るまでの展開が良いだけに悔しさは残ります。


 それでも、『ザ・サンド』が見応えのある一本なのは間違いありません。

 ぼくは基本的に、映画というのは「最初から最後までずっと良くできていなければならない」とはあまり考えていません。もちろん、それが可能ならそのほうが良いのかもしれませんが、大勢の人間が関わり、それぞれのプロジェクトのサイズや政治や経済を踏まえて作られているのが映画です。高予算であろうが、低予算であろうが、そうそう頭からお尻まで完璧に整えるのはむずかしいものです。

 どこか一点でも、観ている側とシンクロする部分や、観ている側の心が揺さぶられる部分があれば、その映画は「充分楽しめるもの」と認識できるのではないか、と個人的には考えています。

 劇場未公開映画を追いかける楽しみは、そういった「佳作」との出会いなのかもしれません。


 さて、今回の『ザ・サンド』。

 低予算のモンスター映画なんて、どうせバカバカしくて作り手がハシャいでるだけなんでしょ? と感じて避けてきた方にほど、是非ご覧いただきたい一本です。

 お近くのビデオ屋さんに寄られる際は、是非お手に取ってみてください。


 では、また次回お会いしましょう!



■『ザ・サンド』

■原題 The Sand

■製作年 2015年

■製作国 アメリカ

■上映時間 84分

■監督 アイザック・ガバエフ

■製作 ジェイコブ・シルバー

ジョーダン・ロズナー

■脚本 アレックス・グリーンフィールド

ベン・パウエル

■撮影 マット・ワイズ

■キャスト ブルック・バトラー

クレオ・ベリー

ディーン・ゲイヤー

メーガン・ホルダー

ミッチェル・ムッソ

ジェイミー・ケネディ

シンシア・マレル ほか


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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