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京都の庭園デザイナーが案内 しかけに感動する「京都名庭園」 烏賀陽 百合

第6回

~建物の中から庭を楽しむ寺~ 泉涌寺 雲龍院

2018.05.21更新

読了時間

元来、神社仏閣や日本庭園巡りは年齢層の高い人たちの趣味とされてきましたが、昨今ではSNSが身近になり幅広い世代が楽しんでいます。なかでも1200年の歴史がある京都はこの町でしか見ることのできない景色が残っており、そのひとつである日本庭園には様々な見どころがあります。本連載では、京都在住の庭園デザイナー・烏賀陽百合氏による、石組や植栽などの「しかけ」に注目して庭園を楽しむ方法を紹介します。
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1372年(応安5年)、後光厳(ごこうごん)天皇により創建された泉涌寺の塔頭寺院。1389年(康応元年)、後円融(ごえんゆう)天皇が開いた「如法写経の道場」でもある。「悟りの窓」のある「悟りの間」、正方形の障子窓が特徴の「蓮華の間」などから眺める庭が美しい。

庭を眺めて過ごすゆったりとした時間

 一度訪れただけなのに、心に残る寺院がある。何年か後に来訪しても、やはり同じ心地良さを感じるところ。5年ぶりに訪れた雲龍院(うんりゅういん)は、まさにそんな場所だった。

 優しげなお寺の雰囲気や、そこかしこに生けられた紫陽花などの花に心が和らいだ。ここはあまりお寺っぽい雰囲気がない。もちろん格の高い寺院であるのだが、他の寺院に比べるともっと身近で、親しみやすい雰囲気がある。市街から少し離れた山の中にあることもあり、何かの結界に守られたような安らぎも感じる。ここは少し疲れた時に訪れたい、シェルターのようなところだ。静かに拝観できるところもいい。京都にはまだこういう寺院が残っている。

 雲龍院は泉涌寺のさらに奥に位置する別院で、泉涌寺派の別格本山。泉涌寺の塔頭寺院だが、皇族との縁の深さから、別格本山という高い寺格が与えられている。そのため、小さな寺院だが上品な空気が流れている。

 南北朝時代の1372年(応安5年)、北朝天皇の後光厳(ごこうごん)天皇の帰依により建立された。その時から今も皇族との関係が650年続いている。本堂の龍華殿(りゅうげでん)は1389年(康応元年)の建立で、1646年(正保3年)、本院中興の祖・如周(にょしゅう)大和尚の時に後水尾天皇からの寄進で復興された。さわら材を竹の釘で打った杮葺(こけらぶき)の屋根が大変貴重として、国の重要文化財になっている。

 この雲龍院には、建物の中から庭を楽しめる場所が多い。「悟りの窓」と言われる丸窓のある部屋などさまざまな部屋があり、どこからでも庭が眺められる。お抹茶とお菓子をお願いすると、自分の好きな場所でいただける。自分だけの場所でゆっくりと過ごすことができるとは、何とも贅沢だ。中庭を眺めていると鳥や蝶も飛んで来る。そんなゆったりとした時間を楽しめる寺院はなかなかないので、のんびりと庭を眺めて欲しい。雲龍院は写経道場なので、受付でお願いすれば般若心経の写経もできる。心穏やかになれるところだ。

悟りの間にある、丸い「悟りの窓」。

「蓮華の間」は、4枚並んだ障子に正方形の障子窓が美しい部屋。この障子窓から中庭がちらりと覗く。障子越しに景色を楽しむというのは、日本人独特の楽しみ方だろう。限られた景色から想像力で楽しむことができるのは、日本人の豊かな感性によるものだ。

 障子を開けると、庭の中央にサツキの刈り込みに囲まれた寄せ灯籠が一基立っている。寄せ灯籠は、複数の材料を寄せて作られた灯籠のこと。石塔の残片を用いたものが多い。灯籠の前に据えられている石は、秀吉が建立した方広寺大仏殿の伽藍石(がらんいし)と言われている。伽藍石とは、社寺の柱の礎石を庭園に転用したもの。飛石の踏分石(ふみわけいし)(次の行き先を決めるときに一度立ち止まるための石)としてよく使われる。雲龍院のものは、ゴロンとしたそのままの形で据えられている。どこか愛らしいこの石があることで、庭もチャーミングに見える。

 ここは誰か有名な作庭家によって作られた庭ではない。雲龍院の市橋朋幸(いちはしほうこう)ご住職にお聞きすると「歴代の住職によって作られた庭」だそうだ。しかしサツキの刈り込み方などなかなか個性的で、雲のような面白いデザインになっている。雲龍院という名前の通り、龍が雲を縫って泳ぐようにも見える。

蓮華の間から眺めたサツキと青もみじ、灯籠と礎石の景色。

 先代のご住職がお庭がお好きで、自ら庭木のお手入れをされていたらしい。先代のご住職のセンスなのか、この刈り込みが庭に個性的なアクセントを加えている。5月のサツキの頃は一斉に花が咲き、とても華やかな景色になる。ここの楓の木は大きく樹形も見事なので、秋の紅葉も見事だ。

 私がここで一番好きな場所は、玄関を入ってすぐ横にある、小さな坪庭の空間だ。美しい形の加茂川真黒石(まぐろいし)(加茂川水系で採れた黒石。京都加茂七石のひとつ)が一石だけ置かれ、後は砂紋が引かれているのみ。この真黒石は観音像を表している。まるで光の筋の向こうに観音様がすっと立っておられるようだ。シンプルだがとても美しい空間。ここは最近作られた平成の庭で、庭木の手入れをされている斎藤造園さんによるもの。観音像からすっと真っ直ぐに引かれた一本の砂紋が効いている。狭い空間でシンプルかつ美しくデザインをすることは難しいが、それをサラリとやっておられる。ここの上品な空気にいつもハッとする。

玄関横の坪庭。加茂川真黒石が一石だけ置かれている。砂紋も美しい。

「山の中で出会った木」を生ける

 この雲龍院で、季節毎に花と木を生けておられるのが華道家の清水南龍(しみずなんりゅう)(南文(みなふみ))さん。その季節と空間に合った作品を、素晴らしい感性で生けておられる。訪れた人々は、まるで宝物を探すようにさまざまな場所に生けられた清水さんの作品を見つけ、歓声を上げる。空間といけばなの調和が美しく、伊勢和紙や袱紗(ふくさ)などを使った設えも楽しい。

 清水さんにお話を伺ったところ、雲龍院で生けるものはできるだけ山採りのものを使っておられるとのこと。早朝に起きてまず体を清め、神様にお祈りし、感謝してから山に採りに行く。山に入ると、体が勝手に動くそうだ。不思議な力に導かれ、これだ、と思える木に出会える。その木を雲龍院で生けると神々しさを増し、訪れた人の心を打つ。清水さんの自然への畏怖や慈しむ気持ちが、作品に込められているのだ。

 清水さんはキリリとこう仰った。「僕のいけばなは、書から来ています。書を書くように、生けているんです」。お父様が書芸家、お母様が華道家という環境で生まれ育った清水さんには、書といけばなが一体なのは自然なことだった。清水さんの作品はまるで筆が流れるように、花や枝がなめらかに生けられて、生き生きとしている。まさに「生ける花」だ。しかし10年間、いけばなも書もまったく辞めておられた期間があった。周りから「お前の花は固い」と言われ、自分の中からすべてを一旦抜く、という作業を10年間された。その経験があって、今のスタイルに辿り着いたそうだ。

「大輪の間」に飾られた清水南龍氏の作品。雪柳とシデコブシが書を書くようにあざやかに生けられる。
題は「盛春:静山行雲 舞春風」。(写真・清水南龍)

 清水さんのいけばなには無理がない。花や木が自ずと美しい方向へ向いているようだ。「まず手の中で花を束ねます。そうすると花が自然と収まり、手の中で作品になる。それを生けていくんです」。手で覚えた感覚というものは、決して忘れないそうだ。「体が学んで自然に滲み出るものは、必ず人を感動させます」。多くの経験から自分のいけばなを確立された清水さんだから、この言葉が出る。インスタグラムで清水さんの作品が沢山アップされる人気の理由は、いけばなを通して清水さんのお人柄やメッセージが伝わるからかもしれない。

 清水さんが雲龍院で花や木を生けるようになったのは、ご住職から「ここを”サロン”のような場にしたい」と要望があったから。いろんなジャンルの人が集まり、「技」が集まることで、訪れる人達が癒される場所にしたい、というご住職の願いからだ。行事の時などは、ボランティアで多くの人達が手伝いに集まってくれるそうだ。

 さまざまな分野の人達が集まって、ウェルカムな空気が出来る。そして訪れる人を優しく迎え入れてくれる。歴代の皇族に愛された寺院は、今もこの時代の人々から愛されている。ここは「癒し、癒される寺」なのだ。

秋の雲龍院。「大輪の間」から庭園を望む。

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著者

烏賀陽 百合

京都市生まれ。庭園デザイナー、庭園コーディネーター。同志社大学文学部日本文化史卒業。兵庫県立淡路景観園芸学校、園芸本課程卒業。カナダ・ナイアガラ園芸学校で3 年間学ぶ。イギリスの王立キューガーデンでインターンを経験。2017年3月にN Yのグランドセントラル駅構内に石庭を出現させ、プロデュースした。現在東京、大阪、広島など全国のNH K文化センターで庭園講座、京都、鎌倉でガーデニング教室を行う。また毎日新聞旅行で庭園ツアーも開催。著書に『一度は行ってみたい 京都絶景庭園』(光文社)がある。

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