第86回
解説(5)
2019.04.09更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
「もくじ」はこちら
四 老子と孔子の違い~「道」と「徳」の捉え方など~
1 総論
私は「論語」を何十年もの間、読み続けていたが、「老子」については、それに併せて参照していた位置づけだった。と同時に新渡戸稲造の『武士道』や吉田松陰の書物を読み続けてきた。
そうしているうちに「論語」の各教えが日本人のなかに浸透し、生きていることに気づかされた。世界中の人々とビジネスでつき合っていて、そう感じたからだ。
今回、「老子」を何十回と孰読しているうちに、これは「論語」と同等に日本人に大きな影響を与えていることがよくわかった。もっと早くから本格的に学び続けて自分のものにすべきだったと反省した。
後に紹介していくように「論語」と「老子」は、基本的な思想が相当違う。しかし、例の日本人の特長のよいところを自分たちに合うように取り入れていくという資質でもって、うまく自分たちのものにしている。
前述の新渡戸の『武士道』では、仏教、神道、そして論語、孟子などの儒教が日本の「武士道」をつくり上げていくのに影響があったとしている。「老子」のことには何も触れていない。しかし、その仏教、神道に「老子」が入り込んでいた(大きな影響を与えていた)のである。つまり、武士道、すなわち日本人の精神は、「老子」の影響を十分に受けていたのだ。新渡戸は『武士道』の中で仏教、そして神道を次のようにいう。
「仏教は武士道に次のようなものを与えました。それは運命に身を委ねるという平穏な感覚、不可避なものに対する静かな服従、危険や災難に直面したときのストイックな沈着、生に執着することなく死を恐れず親しむ心、などです」(野中訳)
「神道には、キリスト教のような「原罪」という教えはありません。逆に神道は人間の生まれながらの善と、神のような純粋さを信じ、心を信託が告げられる神聖な場所であると崇めます。(中略)神道の自然崇拝は、私たちの奥深くにある魂が、日本の国土を強く慕うようにさせました。また神道の先祖崇拝は、家系をたどっていくことで、皇室が全国民の始祖であることをわからせました。私たちにとって国土とは金鉱を採掘したり、穀物を収穫したりする土地以上の価値あるものです。それは神々、すなわち私たちの先祖の霊の神聖なる棲み家なのです。また、私たちにとって天皇は法治国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもない。天皇は地上において肉体を持つ天の代表者であり、天の力と仁愛を備えておられるのです」(野中訳)
以上の説明を読むと、仏教、神道そして天皇の存在が「老子」に影響を受けて、うまく取り入れてきたのがよくわかる。新渡戸は、これに続いて天皇の「象徴性」を力説するが、「老子」のいう「聖人」に似たものとして日本人が扱ってきたのがわかる(前述のように、「天皇」という言葉も道教からのもののようである)。
ついでに述べさせてもらうと、日本人が仏教、神道、孔子、老子などを日本人に合うように取り入れ、政治、社会、人々の精神をうまくつくり上げていくという柔軟性という才能(いいようによってはいい加減さ)は、明治以降の発展をもたらしたのではないかと思う。
ご存じのように明治になってからの日本は、西洋の文明、文化をどんどん吸収していった。
現在、中国が共産党支配の下に、経済面では資本主義的発展を遂げてきているが、そもそも資本主義は(また自由主義も)、西洋のキリスト教文化(特にプロテスタント)の下に発生し、発展したものである(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、『日本人のための憲法原論』集英社インターナショナル、小室直樹著参照)。
ほぼ儒学一本で社会制度をつくってきた中国は、共産党一党支配はこれまでの王朝のようにうまく中国社会に合わせられても、資本主義、自由主義、民主主義、契約を守るという考え方などはどうしてもなじまない。同じく儒学の影響が強い韓国や北朝鮮が中国とともに、他者の知的財産を尊重したり、国家間の合意や約束を守ったりできないのも当たり前のことなのだ。大事なのは華夷秩序であり、儒教的発想なのである。
2018年11月現在、アメリカが対中国に対して経済戦争を仕掛けているが、それは起こるべくして起こったものだ。これからはのアメリカやヨーロッパ諸国は、これ以上の中国的な都合のよい政策(中国からしたら何が悪いのかとなる)を決して許さないだろう(原理的思想、政策が大きく対立する)。
日本人の先人たちが、儒教、老子、そして仏教、神道のいいとこ取りをしてきたその柔軟性は、西洋的(キリスト教的)な資本主義、自由主義、民主主義、契約尊重主義、法の支配などを抵抗なく取り入れ、定着させていっている。このことに私たち現在の日本人は深く感謝しなければならない。日本人は中国ともアメリカとも、いや世界中の人たちとうまくやっていける。
七〇年以上前、アメリカとの四年にもわたる戦争の後、それまで「鬼畜米英」を叫んでいた日本人が、終戦から一ヵ月後には、『日米会話手帳』(誠文堂新光社)という歴史に残る大ベストセラーを出版した(企画したのは玉音放送を聞いてすぐらしい)。その柔軟性と進取の精神には驚くしかない。
こうした視点で「老子」を読んでいくと、難しい中国古典という感じはなくなり、私たちの原点の一つという親しみを感じる。
さて、「論語」と「老子」が、いかにうまく日本に入り込んできたかを述べたが、続いてその違いについて大きなところに絞って見てみたい。
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