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全文完全対照版 老子コンプリート 野中根太郎 訳

第87回

解説(6)

2019.04.10更新

読了時間

日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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2 「道」と「徳」についての考えの違い

孔子も老子も、人々が幸せになるためにはどうすればいいかを真剣に考えた。ただ、そのアプローチの仕方がまったく違っている。これは老子が孔子の儒教に対する批判として提案した面も強かろう。明らかに「老子」は孔子に始まる儒教への批判が多い内容である。
その違いはたくさんあり、「論語」と「老子」を比較して、気づいたところを述べてみたい。
まず一番大きなところで、「道」と「徳」についての考え方の違いが挙げられる。
本文を見てわかるように「道」は「老子」の一番基本となる概念である。その内容を一義的に言葉では表現しにくいものだが、あえていうと、この世のすべてのもの、万物の根源である。
そういう意味で人間を超えて、宇宙の仕組みとしてあるものである。今日のビッグバン理論などの宇宙論とも見間違うところもある。そして、そのすべての根源たる「道」と一体化した人を「聖人」とする。
「老子」にいう「徳」は、「道」が万物を生み出し、それをこの世で育て伸ばしていくはたらきのことといっているようだ。たとえば、養德第五十一は、「『道』が万物を生み出し、徳がそれを養い、ものになったものが、それぞれに形を与え、『道』の自然の勢いが万物を完成させていくとする。そういう意味で、万物はすべて『道』を尊び、徳を尊ぶのである」としている。
「老子」は「論語」にあるように、「道」とはこうあるべきとか、「徳」はこうして身につけようという、人間がさかしらな知恵で考え出したものは、為政者など権力側に都合のいい考えとなりやすいことを批判しているのである。
「論語」に始まる儒学では、国家、社会の政治、倫理がよくなり、人々が幸せになるためにはどうしていくべきかを考える。あくまで宇宙の根源としてあるものではなく、人間がこうあるべきではないかと主体的に考え出してつくり上げていく。
また、「論語」では、「道」とはこうあるべき人の生き方だし、「徳」とはこうあるべき人としての内面的な美点であると説く。たとえば、「国民をよい方向に導くためには、社会のなかに仁義道徳を広める必要がある」(為政第二)とする。
そして孔子は、「道、すなわち人としての道徳のあるべき姿は、人のはたらきで広めていくものである。道が人をどうこうできるものではない(衛霊公第十五)」と述べる。
孔子は政治に自ら参与して国家や社会をよくし、人々を幸せにしたいと望んだ。「もし、一年でもいいからやらせてもらえればかなりのものをやってみせる(子路第十三)」との自負を述べている。
一方、老子は、国がよくなるには上に立つ人ができるだけ介入しないことを説く。淳風第十七で「最高によい君主(為政者)というのは、余計な政治や干渉はしないことから、人々はそういう君主がいることを知っているだけである」といっている。
また、爲政第三十七では、「『道』はいつでも無為にして為さざるはなし(何もしないでいるようだが、すべてのことを見事に成し遂げている)。諸侯や王たちが、この『道』のはたらきを守れば、あらゆるものは、自ずから感化され、うまくいくだろう」とする。
まさに「論語」と「老子」は正反対なところがある。
「論語」と「老子」は、どうしてこんなにも違うのか。今、多い意見としてあるのが、儒学の教えが広まっていったが、王や貴族の都合のよい政治で不幸せになるばかりで世の中はちっともよくならず、このための批判を老子が考えたものというものだ(だから老子は孔子より後世の人ということになる)。
確かに説得力のある意見である。ここで私は一つの仮説を考えた。それは孔子が貧しい層(卑賤)から出た人であるのに対し、老子は官僚だった人(官を辞した人)であるということだ。おそらく老子はそれなりの層出身の人であろうと思われる。一方、貧しかった孔子は、ハングリー精神の旺盛な人だったのだ。二人の違いはそこにもあったのではないか。
「論語」で孔子がこう述べているところがある。

大宰という地位にある官の人が、弟子の一人、子貢に言った。「孔子先生はまさに聖人ですね。だから多能で何でもできるのでしょう」。
子貢は言った。「確かに天は先生をどんどん伸ばし、聖人の域までに至らせようとしています。その上さらに先生は多能であられる」。
先生は後にこの話を聞いて言われた。「その大宰は、私のことを知っているのだろうか。私は若いころ貧しく、下積みで苦労した。だから何でもやらされて多能になったのだ。君子は多能でなくてはならないのか。そうではないだろう(子罕第九)」。

老子はある意味、今でいう哲学者である。哲学や数学のような学問で優れた人というのは、ある程度、裕福な家柄の人が多いと聞いたことがある。だからかえってじっくりと客観的に世の中を見つめることが可能で、ある真理に気づくことができる。そういえば、先に紹介した『菜根譚』の洪自誠も『徒然草』の兼好法師も官僚出身の人であった。
私は「論語」も「老子」もすばらしくよくできた古典だと思う。どちらが絶対に正しいとは言えず、日本人のようにどちらも学び、自分たちの人生や社会にふさわしいものを取り入れていくのが一番いいと考える。
その上で、「老子」の現代的意義も考えていきたい。それは、より便利なものがどんどん生まれていくことで、かえって人は不幸になる可能性も大きいことへの警鐘である。
原子爆弾に始まり、人工知能(AⅠ)、クローンと次々に新しいものが発明され、使われるようになる。それをすべて否定することは難しいにしても、人間が人間らしく、また、平和に生きていくための最低限の思想に定着させておくべきであろう。
「論語」の倫理、道徳も必要であるが、これからの時代より重要視されるべきは、人間や自然すなわち万物の根源たる「道」に従っていくことではないか。すなわち人間が全能でなく、「道」に生かされていることを自覚し、行きすぎないこと。そして、進むにもよく「道」と相談しながら、考え抜いていくことが必要だと思う。
「論語」と「老子」の比較をするときりがない。そこで読者それぞれで本書と拙著『全文完全対照版 論語コンプリート』(誠文堂新光社)を読み比べてほしい。
最後に、「論語」と「老子」の中で、私が特に好きな言葉を挙げておきたい。すべてが名言だが、その中で特別に気に入っているところを抜粋する。

「論語」(里仁第四)
「里(り)は仁(じん)なるを美(び)と為(な)す」
この部分は解釈としては争われている。通説は「自分の住むところを定めるときは、仁にあふれる人の多い、よい場所を選ぶべきであろう」と解する。
一方、渋沢栄一などは「どこに住んでもかまわないが、その場所を仁にあふれたよいところにしていくべきだ」とする。どちらの説もなるほどそうだなと思う。

「老子」(獨立第八十)
「其(そ)の食(しょく)を甘(うま)しとし、其(そ)の服(ふく)を美(び)とし、其(そ)の居(きょ)に安(やす)んじ、其(そ)の俗(ぞく)を楽(たの)しとす」
この部分は「老子」の「足るを知る者は富む(辯德第三十三)」に通ずるところがある。
また、「論語」の里仁第四にもどこか通じる。結局、孔子も老子も、人が幸せに、人生を楽しみ、社会をよくしていくことを考えていたのである。
その始まりであり終わりは、自分を含めたまわりの人々と地域をよくしていき、楽しんでいこうということである。

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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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