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「ブス」の自信の持ち方 山崎ナオコーラ

第30回

本当に「ブス」と言ってはいけないのか?

2019.03.25更新

読了時間

現代は多様性の時代と言われます。しかし社会には、まだまだ画一的な一面が強くあるのではないでしょうか。この連載で取り上げるのは「ブス」。みなさんはこの言葉から何を感じますか? 山崎ナオコーラさんと一緒に、「ブス」をとりまく様々なモノゴトを考えていきます。
※連載は終了しました。2019年初夏に書籍化されます。
「目次」はこちら

 容姿の問題について、「他人に『ブス』と言ってはいけない」「自分を『ブス』と言ってはいけない」といった単純な意見を耳にすることがよくある。
 だが、私は事態はもっと複雑だと思うのだ。
 私はよく、「自分は『ブス』だ」と書いたり言ったりしている。そうすると、咎める人がいる。「そんなこと言っちゃ駄目だよ」とアドヴァイスしてくる。だが、そういう「自分のことを『ブス』と言っては絶対に駄目だ」「自分を『ブス』と言う人は自己肯定感が低い」と主張する人は、むしろ外見至上主義者なのではないか。
 ブスは人間の価値を決定する事柄ではない。
 人間は、ブスぐらいでは死なない。
「自分は『ブス』だ」というセリフは、死にたいという意味ではまったくない。少なくとも、私はそういう意味でこのセリフを言ったことがない。
 自虐でも、コンプレックスの吐露でも、他人から言われる前の防衛でもない。
「外見ではなく、他のところに得意分野があります」という主張だ。
 私の場合は、「『ブス』ですが、文章が上手いです」「『ブス』ですが、ちゃんと稼いでいます。かなり納税しています」「『ブス』ですが、仕事が楽しいので、生きる気満々です。社会の隅っこに行く気はないです。堂々とやります」といったことが言いたい。
 そして、今後のコミュニケーションをうまく行かせるために、「他のところで仲良くなれると思うので、外見でつまずかないでください」と伝えたい。

「女性はみんなかわいい」「どんな女性でも自分のかわいさを見つけて、『自分はかわいい』と思った方がいい」という意見も聞くことがあるが、私は首肯できない。
 なぜ、「女性だから」という理由で自分をかわいいと思わないといけないのか。女性だろうが男性だろうがその他であろうが、自分をかわいいと思いたい人は思えばいいし、思いたくない人は思わなくていい。
 もちろん、元の顔の造作にかかわらず、おしゃれや化粧を楽しんだり、努力で外見に魅力を作る人はいる。それは素晴らしい行為だと思う。だが、人生の時間は限られている。「おしゃれも素敵と思うけれど、私の場合は、外見の努力より、◯◯の努力に時間を使いたい」と仕事や勉強や趣味に力を注ぐ人がいたっていい。そして、「努力をしていない人なら、差別を受けても仕方ない」とはならない。努力をするかしないかは本人の自由だし、努力の有無に関わらず差別されない権利がみんなにある。

「『ブス』を自認する人は外見差別を容認している」ともならない。
 どんな人でも、差別を受けるいわれはない。
 容姿が悪いことを隠す必要も、「ブス」と言われがちなことをないことにする必要もない。
「『ブス』だけど、差別は受けたくない」「『ブス』だけど、努力が必要とは思わない」と堂々としていたい。

「ブス」という言葉が差別的になるのは文脈による、と前に書いた。
 自分に対して「ブス」を使う場合も、やっぱり、差別的に使うのは良くないと思う。自己卑下したり、自分の人権を侵害したりしてはいけない。
 でも、差別の意図がなければ、「外見のコミュニケーションは不得意ですが……」と自己紹介することはそんなに変ではない、と私は思うのだ。その後に肯定的な文章を続ける場合はむしろ自己評価が高すぎるくらいになることだってあり得る。
 コミュニケーションを円滑にするために、自分の不得意分野を正直に伝えることは不自然ではない。

 たとえば、英語があまり喋れない人も、「私は英語が喋れます」と言った方がいいだろうか? 「英語が喋れない」という自己申告は、自己肯定感が低いこととイコールにはならない。就職活動の場面でも、「英語は喋れないけれど、仕事への意欲はあります。◯◯は得意です」など、正直にアピールする方が「一緒に仕事したい」と思ってもらえて、採用の可能性が上がるのではないか。嘘をつく必要はないと私は思う。英語ができなくても、コミュニケーションの方法は他にもある。

 それから、障害者差別をなくしたい場合、障害について語らない方がいいだろうか? 物理的なつらさ(「動きにくい」「喋りにくい」など)だけでなく、文化的なつらさ(「じろじろ見られる」「できることがあるのに弱者としてしか見てもらえない」など)があって、まずは文化を変えていきたいと考えたときに、障害がないというていで話をすることが差別をなくすことに繋がるだろうか? それよりも、「私は△△が不得意ですが、少し手助けしていただけたら、ゆっくりならできます。そして、◯◯は得意です。◯◯を活かして、◎◎という仕事をしています」といった話をした方が、コミュニケーションがうまくいきそうな気がする。自分には障害がある、と話すことが、自己肯定感が低い、と受け取られることはまずないだろう。

 それと同じように、「私は外見でのコミュニケーションが苦手ですが、他の方法でのコミュニケーションならうまくできると思います」と伝えたっていいんじゃないか、と私は思うのだ。
 たぶん、世の中には、「私はブスだ」と言ってもいいシーンがある。

 ここで、「じゃあ、自分で『ブス』と言っている人になら、他人もその人を『ブス』と言って構わないんじゃないですか?」と聞く人がいるかもしれない。「『ブス』と言っては絶対にいけないということはないけれども、差別をしてはいけないと思う」と私は答えたい。
 私は、「他人に『ブス』と言ってはいけない」とは思わない。そういう言葉狩りをしても意味がないと思う。
 前回、「『おじさん』という言葉を使うことに慎重になりたい」と書いたが、「『おじさん』という言葉を使わないようにしたい」とは思っていない。「おじさん」という言葉を差別的な文脈で使いたくないだけだ。「おじさん」という概念をなくした方が良い社会になる、とは思わない。「おじさん」という言葉がある社会の中で、大人の男性と仲良くやっていきたい。

 容姿差別というのがどういうことかいまいちピンときていない人もいると思うので基本的なことを書いておくと、「容姿を理由に場所を移動させる」「容姿が関係しないシーンで容姿のことを執拗に言う」「仕事の評価に容姿を絡める」「容姿を理由に進学、就職、昇進をさせない」といったことだ。つまり、美人に対して、美人を理由に席を移動させたり、社会的な場で顔の話ばかりしたり、美人だからと仕事の評価を上げたりすることも差別になる。
 かなり低レベルの話になるが、ごく稀に、「容姿差別をしてはいけないから、『ブス』のことも好きになってあげないとな。でも、オレには容姿の好みがあるんだよなあ」「容姿差別をなくすために、『ブス』のことも、どこかに良さを見つけて褒めてあげないとな。肌がきれい、だとか、持ち物がおしゃれ、だとか」と考える人がいる。
 いや、「ブス」を好きになって欲しいわけじゃないのだ。差別をしないで欲しい、と要求しているだけだ。好いてくれる必要はまったくない。
 人を容姿で好きになるのは差別ではない。好みの外見の人と恋に落ちることが、容姿差別になるわけがない。そして、「ブス」の外見を無理して褒める必要などないというか、社会的なシーンで執拗に容姿を褒めるのはむしろ差別だ。
 私には、容姿差別をしない男性の友人たちがいる。その友人たちの多くに、美人の奥さんやかわいい恋人がいる。恋愛シーンでは、外見の好みがあるのだろう。でも、私と話しているときに、私を下に見ている感じは全然なく、人生の話や仕事の話などをフラットに喋り、対等な立場でこちらの話を聞いてくれ、私の容姿を話題に出すことはまずない。
 仕事のシーンや友情のシーンで、容姿を理由に、席を移動させたり、ランクを付けたり、グループ分けをしたり、悪口を言ったり、評価を変更したりしない、ということを心がけるだけでいいのだ。
 おそらく、差別をしなければ「ブス」という言葉を使っても関係は悪化しない。「ブス」という言葉を使った良いセリフもある気がする。
 つまり、「仲の良い間柄だったら、『ブス』という言葉を使っても許される場合があるだろうが、差別にならないように注意した方がいい」ということだ。まあ、とはいえ、「『ブス』という言葉が差別的にならないように慎重に文脈を作る」というのは、自分に関することならできても、他人に関することだとかなり高度な技が必要になるだろうから、あまり使わない方が無難かもしれない。

 ここで、ちょっと付け加えると、先ほどの話では「社会的なシーンはともかく、恋愛シーンでは容姿がものを言う」ということになってしまうわけだが、恋愛の項目で書いたように、「ブス」だからと言って、恋愛をあきらめる必要はない。親密な相手の容姿には心がくっ付くものだ。仲の良い相手だったら、世間の評価に関係なく、相手の容姿を好きになる。だから、初対面でいきなり恋愛に持っていくのではなくて、まずは仲良くなる、という手がある。時間がかかるし、たくさんの人にモテるということは難しいが、「好きな人と恋愛したい」というだけの希望だったら、この方法で結構うまくいく気がする。
 また、平安時代は目が細くて顔がでかい人の方がモテた、という話もあるし、国によっては、太っている方がモテる、エキゾチックな顔立ちがモテる、といったことも聞くし、時代や場所によって、モテる容姿のスタンダードは変わる。だから、「モテたい」という希望がある場合だったら、自分の時代が来る可能性を期待してもいいし、引っ越しをするという手もある。
 そして、現代は多様性の時代で、人々がいろいろな顔に慣れ始めた。
 昔は、「ブス」は引っ込みがちだった。テレビや雑誌にはきれいな人ばかりが出ていて、「ブス」は「ブスキャラ」一辺倒だった。雑誌のお仕事紹介に出てくる人もきれいだった。でも、もはや、「人前に出るのだからきれいにしなければいけない」「きれいな人しか表舞台に出てはいけない」という価値観は廃れてきた。今は、仕事に誇りを持っていて容姿を気にしていない人が女性誌のインタビューで堂々と話しているのをよく見かける。ノーメイクの職人がかっこよく仕事場訪問を受ける。汗をかきながら肉体労働をしている女性がいきいきと写真に写る。
 容貌障害のある人のインタビューを読んでいると、「人々は、見慣れない顔に最初は違和感を持つが、何度か会ううちに違和感がなくなっていくみたいだ」といった話がよく出てくる。
 現代では、メディアにいろいろな顔の人が登場するようになった。私自身、他人の顔に違和感を持つことが少なくなってきているように思うし、この先はもっと見慣れていくだろう。
 昔の日本では外国人がめずらしくて、人種の違う人を見かけたら顔に違和感を抱いてしまっていたみたいだ。そうすると、恋愛に発展する可能性が減る。でも、今はみんな見慣れているから、最初の出会いからあまりハードルを感じない。そのおかげもあって、国際結婚が増えているのではないか。
 現代人は、様々な顔をメディアを通して見ていて、「多様な顔がある」ということに慣れ始めているから、これからの時代では、「『美人』という一系統の顔のみがモテる」という空気はなくなっていくかもしれない、なんて夢も見たくなる。
 恋愛に容姿が重要だとしても、初対面のときに容姿が高いハードルになって疎外されることが減っていって、個性的な顔でもあまり違和感を持たれずに仲良くなれて、その顔を愛される、ということが、昔よりは多く起こるようになっていく気がする。
 だから、「ブス」が恋愛をしやすい時代がこれからやってくるだろう。

 さて、そういうわけで、「他人に『ブス』と言ってはいけない」「自分を『ブス』と言ってはいけない」ということを私は思っていないくて、言ってもいいけれども差別は駄目だ、と思っている。
「ブス」としては、差別されるのは嫌なのだけれど、「ブス」と言われたことをなかったことにしたくない。そして、容姿というコミュニケーションが存在していることは肯定したい。実際、きれいな人がいるおかげで和む場所や、きれいな人だから成り立つ職業がある。見た目によって交流が進むシーンもある。それなのに、単純に「『ブス』という概念がないことにしよう」と蓋をするのは、違うと思う。「『ブス』はあるけれど、差別はしない」ということは、複雑でちょっと難しいかもしれないが、たぶん、可能だ。
 私はその方向で生きていきたい。

 今回で、この連載はラストになる。
 最後に、強く言いたいのは、自虐でもコンプレックスでもないということだ。
 自虐で笑いを取りたいと思ったり、キャラ作りをしたいと考えたりして「ブス」と書いたのではない。社会がおかしい、と憤って書いた。
 私は、コンプレックスに悩んでいるのではない。罵詈雑言を受けたことで悩んだ。仕事の妨害がつらかった。いじめだと感じた。私が駄目なのではなく、悪口を言う人がおかしいと思った。だから、自分が変わるというよりも、文化を変えたいと考えた。
 文化を変えたいと思っている人は私の他にもいると思うし、きっと変わっていくだろう。

「目次」はこちら

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著者

山崎ナオコーラ

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら執筆した『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)で第41回文藝賞を受賞し、作家活動を始める。2017年、『美しい距離』(文藝春秋)で第23回島清恋愛文学賞受賞。小説に『ニキの屈辱』、『ネンレイズム/開かれた食器棚』(ともに河出書房新社)、『ボーイ ミーツ ガールの極端なもの』(イースト・プレス)、『偽姉妹』(中央公論新社)他多数。エッセイ集に『指先からソーダ』(河出文庫)、『かわいい夫』(夏葉社)、『母ではなくて、親になる』(河出書房新社)など。絵本に『かわいいおとうさん』(絵 ささめやゆき)(こぐま社)がある。モットーは、「フェミニンな男性を肯定したい」。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。

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