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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第9回

われら生身の人間

2019.02.04更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

人生は小さなレッスン

 人生は山あり谷あり。

 良いこともあれば、悪いこともある。

 旅先で思わぬトラブルに巻きこまれる人はおおいだろう。

 そんな時は、「チクショー、なんで私が……」とおのれの不幸を嘆く。

 だが時がたち、ふとした機会にそれを思いだし、そこから大切な教訓がもたらされる。

 そんな経験をしたことはないだろうか。

 人生のあちこちに小さなレッスンが仕組まれていて、心ある者はそこから有益な教訓を引きだすことができる。

 神さまはそんな風に私たちの人生を設計しているのではないだろうか。

 昨年の暮れ、外国人労働者の受け入れ拡大のために入管法が改正され、外国人就労問題がメディアを賑わせていたとき、私は旅先で経験したふたつの出来事を思いだした。

トラブるアビジャン空港

 長蛇の列がつづいている。

 目指すはエールフランスのチェックイン・カウンター。

 かつての植民地宗主国の首都パリとアビジャンを結ぶ航空便はつねに満席状態。アビジャン空港では列に並んでからチェックインするまで1時間、2時間待ちはあたりまえ。忍耐あるのみだ。

 それにしても、今日の混み方は尋常ではない。出発時間が迫っているというのに、まだ大勢が不安そうな面持ちで並んでいるではないか。

 私は妻と幼い娘との3人連れ。少しずつ進み、やっと私たちの番になり、列の先頭からカウンターに進みでようとしたところで、「はい、ここまで!」と出口をふさがれてしまった。

 「もう席がないので、これ以上チェックインすることはできません」

 席がない?

 まだ、50人以上が待っているではないか。

 みな、ちゃんと航空券を買っているはずだ。

 それぞれの航空券には、パスポートとおなじ名前と、今日の日付と、この便名が入っている。

 「これは、ダブルブッキングだな」

 うしろで誰かがつぶやいた。

 ダブルブッキング?

 アフリカのローカル線ならともかく、天下のエールフランス航空が、ダブルブッキングとは。それも1人や2人ではなく50人以上も。

 さて、これはどうしたものか。

 私たちはパリで飛行機を乗り継ぎ、成田まで帰らねばならないのだ。

思わぬ逆襲

 幼い娘の不安そうな顔を見ながら、どうしたものかと思案に暮れていると、列の先頭から空いているカウンターに客をさばく係の男が、いきなり、

 「あー、疲れた、疲れた。ずっと立ちっぱなしで足が痛んできたよ」
と大声で不満を漏らしはじめた。

 見ると、エールフランスの制服を着た正規の職員のようである。

 この事態に対する説明も詫びのことばもなく、まるで人ごとのように涼しい顔をしているこの男の態度にカチンときた私は、思わずこうやりかえした。

 「あんた、それだけの給料をもらって働いているんだろう。仕事をするのがあたりまえじゃないか」

 これでやり込められるかと思いきや、痩せぎすでズルそうな顔をした中年男は、こう切りかえしてきた。

 「おや、おや、おや。私に奴隷のように働けとおっしゃいますか、ご主人様。私には疲れを訴える権利もないのですかな?」

 こんなことを日本で言った日には、即炎上である。給料をもらっている人間が、サービスをおこなわずに、客に文句を言うとは。

 頭にきてさらに言いかえそうとした私は、後ろに並ぶ人々を一瞥して、思わず押し黙ってしまった。私の言動に賛同している雰囲気がまったくないのである。

 さいしょは人種的な問題かと思った。白人が黒人に働けと命令している。

 だが、そうでもないようである。列のなかには、「ちゃんと」したビジネスマン、品の良さそうなご婦人、数名の白人などもおり、私に非難の目が向けられているわけでもない。

 すると、私たちのすぐ後ろに並んでいた、仕立てのいいスーツを着込んだビジネスマン風の男性が、「もう何時間も立ちっぱなしなのかい?」と例の職員に声をかけた。

 「もう5時間近くになるよ」「それは大変だね」……

 航空会社の怠慢で長いあいだ待たされ、飛行機に乗れないというのに、その会社の職員にねぎらいの言葉をかけているではないか。なんたることか。

 他の客の顔のなかにも、不安顔、憤り顔にまじって、「それは大変だったね~」という同情顔がちらほら見える。

 そのとき私は、これが世界観の違いであることに、ようやく気づいたのであった。

 人は「機能」しなければならない。

 社会のなかで機能することを「労働」と呼ぶ。

 そして労働に対する対価が「賃金」である。

 こんなことは、マルクスの『資本論』を読むまでもなく、常識である。

 ということは、「賃金」をもらった人は、その分きっちりと「労働」しなければならない。

 これも常識であると、私は思っていた。

 ところが違った。

 世界はこの常識よりも広かったのである。

座席がない

 パリに長期滞在していた時のこと。

 まだ1歳にもならない娘を連れて、南フランスの港町マルセイユに観光旅行にでかけた。

 TGV(フランスの新幹線)の指定券を購入し、パリの駅で車両に乗りこむ。すると私たちの座席に、すでにだれか座っているではないか。

 幼児の娘に席は必要ないので、私と妻が隣りあった2席を予約した。その窓側に、年配のご婦人が座っていた。

 私はチケットをみせて、そこが自分たちの席であることを説明する。

 彼女もチケットを出して、座席番号を確認する。

 たしかにその席だが、車両番号が違う。

 あー、なるほど。車両を間違えたのか。だが、そんな単純な話ではなかった。

 彼女いわく、「自分の乗るべき車両がない、だから仕方なく、隣の車両のおなじ座席に座っているのだ」そうである。

 車両がない? なにを言っているのか?

 だが見ると、この車両のあちこちで、おなじような光景が展開されている。

 しばらくすると、車両の後方から、制服を着たでっぷりと太ったおじさんが入ってきた。

 車掌である。

 フランスのTGVの車掌は、日本の新幹線の車掌さんのように親切丁寧ではない。チケットの有無をきっちりと確認するため、威厳をもって乗客に対峙する。現在は管理がIT化されているかもしれないが、当時(2000年)は車両の最後尾からチェックをはじめ、通路に立ちはだかる車掌の後方がチェック済み、前方が未チェックというさばき方をしていた。であるから、チケットを持たずに前方のトイレに立った者が帰りに車掌とカチあった場合、後方の家族や友人に自分のチケットを持ってきてもらわないことには、無賃乗車として通せんぼをくらってしまうことになるのだ。

 そんな頼りになる車掌に、みなが詰め寄る。いったい、これはどういうことか。

 すると車掌は、涼しい顔をしながら、こうのたまった。

 「技師たちがうっかり車両の数をまちがえて、1両取りつけ忘れてしまったのだよ」

 なんとまあ、のんきな話である。日本で新幹線の車両が1台足りなかったら、まちがいなくその日のトップニュースとなり、記者会見で謝罪ものである。

 では、私たちはどうしたらいいのか?

 すると、車掌様があらたなる宣託をくだされた。

 「しかたないから、乗客どうしでアレンジしてください。まあ、譲りあいの精神でしょうな」

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことである。

 高い金をだして指定券を買ったら、先方の手違いで席が足りなくて、先方は謝るわけでもなく、自分たちでなんとかしろと言うだけとは。

 私がブチ切れようと思ったら、他の乗客たちはそそくさと話しあいをはじめ、座る者とデッキや通路に立つ者と、収まるべきところに収まっていくではないか。

 しかたなく、私も窓側の座席をご婦人に譲り、通路側に娘を抱えた妻を座らせ、自分は通路に立つことになった。

 アビジャン空港の一件とおなじく、行き場を失った私の怒りは空中分解し、なんとも言えない違和感だけが心に残ったのであった。

機能するヒト

 旅行や出張などで海外に滞在した人であれば、これに類したエピソードに遭遇する機会もおおいことだろう。

 だから、外国は嫌だ、不便だ、無責任だ。

 たしかにその通りである。

 だが、怒りが遠い過去のものとなってしまったいま、このふたつのエピソードは私に大事なことを語りかけてくれているような気がするのである。

 人と労働との関係について。

 「どうして日本人はロボットみたいに働くの?」と妻が言う。

 「ロボットみたいに働いたから、経済発展したんだ」と私が答える。

 そして、窮屈な日本社会に嫌気がさした私は、アフリカに赴き、人々の怠慢さと社会の不便さを嘆く。

 「日本はおもてなしの国だ」と日本人は自慢する。

 その「おもてなし」を完璧にするため、寝る間を惜しんで働きつづける。

 そして、「おもてなし」のサービスが期待したほどではなかったと文句を言い、社会はギスギスしたものとなってゆく。

 日本の電車は世界一時間に正確だと言われる。

 それに慣れきった乗客は、1分でも電車が遅れることに我慢ならなくなる。

 そして、どこかの駅で人身事故が起き、ダイヤが大幅に乱れたりすると、「誰だよ、事故なんて起こしたのは」と呪いの言葉をつぶやくようになる。

 労働とは社会のなかで正確に機能することであり、それができない者は居場所をなくしてゆく。

 だが人類の歴史には、労働と賃金に規定される「労働者」が現れるまえの、長い長い状態があった。もちろん、人は食物をゲットし、安全を得るために働いてきた。だがそれは、現在私たちが馴染んでいる「労働」とはだいぶ異なっていたのではないだろうか。

 ある完成形をゴールとし、そこから逆算して各瞬間にやるべきことをリストアップし、なにがなんでもそれをこなしてゆく。人は、疲れていようが病気であろうが、なんとかそのプロセスに自分を合わせてゆかねばならない。これが私たち日本人の心に内面化された労働観だ。

 だが人間は「生モノ」である。まずはその瞬間における「生きた」状態があり、たとえプロセスが遅れたとしても、その瞬間々々にあわせて社会的な条件をアレンジしてゆくべきである。そういった考え方もある。

 人がシステムのために機能するのか、システムを人のために機能させるのか。

 私たちは前者の考え方に完全に馴らされているが、後者の視点から世界を把握する人々もいる。

辻褄あわせ

 人生とは、辻褄あわせである。

 なんらかのかたちで一貫性を保ち、自分の心を納得させる必要がある。

 アビジャン空港で、私は職員を会社の機構の一部と位置づけ、彼にロボットのように機能することを求めることで、辻褄をあわせようとした。

 それに対し、彼を生身の人間と捉え、疲労をねぎらいながら、別のレベルで辻褄をあわせようとしたおおくの人がいた。

 フランスの列車のなかで、私は怠慢に対する鉄道会社の責任と、サービス不履行に対する金銭的損害を基準に、なんらかの辻褄あわせがおこなわれるべきだと憤りを感じた。

 それに対し、おおくの乗客は、おそらく不満を感じながらも、「人間、こんなミスもあるさ」とばかりに、ときに笑みを漏らしながら、座席の辻褄あわせをしていった。

 これら異なる態度に対する評価はさまざまであろう。

 前者を社会のあるべき姿、後者を単なる怠慢とし、人は勤勉に働くべきであるという人もいよう。

 前者をゆきすぎた機械化、後者を人間の自然な思いやりとし、社会はもっと余裕を持つべきだという人もいよう。

 私も、前者は厳しく、後者は優しいと思う。

 だが同時に、前者は便利で、後者は不便だとも思う。

 労働の一方の極には「ロボット」性があり、もう一方の極には「生身の人間」性がある。そのどこに位置するかは、社会によって異なる。人は生まれ育った社会の労働観を内面化し、それにしたがって辻褄をあわせてゆく。

 日本はロボット性が強力で、社会は便利さに満ちているが、じつは生きづらい社会であることは、私たち日本人が一番よくわかっている。

 フランスは適度なロボット性によってTGVや超高速旅客機コンコルドをつくる一方、ほどよく適当で、社会の機能性を犠牲にしてでも長いバカンスを楽しむことをやめようとしない。

 あまりに「人間的」なアフリカは、地球上でもっとも開発・発展が遅れている。それは、「生身」であることをやめられず、ロボット性を本能的に拒絶する人々が払うべき代償なのかもしれない。

生身の人間がやってくる

 昨年6月、安倍首相は「2025年までに50万人超の外国人労働者の受け入れを目指す」と発表し、12月に入管法の改正が成立した。

 移民であるとかないとか、労働人口が増えるとか減るとか、在留資格「特定技能」の対象であるとかないとか、さまざまな議論が沸騰した。

 だが大切なのは、それだけの生身の人間たちがやってくるということではないだろうか。

 人それぞれ、国それぞれ、社会それぞれの辻褄のあわせ方がある。

 外国人労働者を迎える側と迎えられる側との辻褄のあわせ方は異なる。

 その差のなかでさまざまな問題が生まれ、自己主張の声があがり、想定された辻褄が崩れてゆくかもしれない。

 いやいや、ちゃんと法律に則って選別し、指導し、管理してもらわなければ困る。

 そう思う人はおおいだろう。

 だが、世の中そんなに甘くない。

 この世界はもっとうごめいている。

 きっと、日本のあちこちで思わぬ反撃がくり出されることであろう。

 そして、ある者は法の名のもとに、ある者は社会的良識の名のもとに、ある者は日本の「心」の名のもとに、駆逐されてゆくであろう。

 だが私は、彼らの志を見届ける眼を、彼らの声を聞き届ける耳を持つよう、自分を鍛えてゆこうと思う。

 それこそが、流動しつづける多様性ワールドを生きる人間の持つべき心構えであると、私は信じて疑わない。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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