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第4回

キリマンジャロへの挑戦

2022.03.24更新

読了時間

進学、就職、生き方……。人生は岐路の連続。アルピニストの野口健さんと娘・絵子さんの対話を通じて、「自分の道」を見つけるとはどういうことなのか、を考えていく本が3月3日に刊行。本文から一部を特別公開します!
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キリマンジャロへの挑戦

 2019年7月、僕らはアフリカ大陸最高峰キリマンジャロに挑戦することにした。
前哨戦として、まずメルー山(4562メートル)に登った。この山頂から見るキリマンジャロはとても美しい。それを絵子にも見せたかったから。

絵子 きれいだったね。一面の雲海の上に、朝日を浴びるキリマンジャロが見えた。「ああ、いよいよあのキリマンジャロに登るんだ」とワクワクしてきた。

 キリマンジャロの登山ゲートを入ってから、7日間かけて歩く。毎日5時間ぐらい歩いて、ゆっくり高度を上げていく。最終キャンプのバラフ・キャンプまでは天候もよかったし、まあ順調だったよね。
やはりこの登山のハイライトはアタック日。最終キャンプを深夜零時に出発して真っ暗な中を登り、朝に登頂、そして下山を始めて夕方ぐらいまでひたすら歩くことになる。アタック日は非常にハードだ。

絵子 バラフ・キャンプを出発するとき、空は快晴、満天の星空だった。風もなくて、「天気にも恵まれたね」ってふたりで話していた。

 そうだったね。キリマンジャロは観光登山者の多い山。真っ暗闇の中をヘッドランプの光が並んで登っていく。夏の富士山の感じに近いよね。
5000メートルを超えたあたりからだんだん霧が出てきた。

絵子 メルー山でも霧の中に入ったけれど、やがて抜けたから、このときもそのうち抜けるかと思ったけれど、全然抜けない。空を見ると、星がひとつも見えなくなっていた。
午前4時くらいかな、上のほうからゴォーッという激しい風の音が聞こえてきて、いつの間にか吹雪の中にいた。まわりが見えない中で、人の悲鳴が聞こえてきた。

 登山の訓練や経験を積んでいない登山者は、天候の急変に怯えてパニックになってしまいやすい。そういう人たちがあわてふためいて悲鳴を上げていた。
全身が凍てつく寒さだった。僕は最悪の状況も想定して、ザックの中に予備のダウンジャケットとダウンパンツを3、4枚入れていたから、ガタガタ震えているガイドにダウンジャケットを着せ、絵子にもダウンウェアの上下を渡した。

絵子 私は、下はダウンパンツ、上はダウンジャケットを何層も着込んで、雪だるまみたいになっていた。

 まわりから、急速に登山者が減っていた。みんなあの悪天候で登頂をあきらめて、引き返していったんだよね。

行くか、あきらめるか

 僕らも正念場だった。絵子自身どの程度覚えているかわからないけれど、山頂まであと1時間くらいというあたりで、しゃべりかけても反応が鈍くなっていたんだよ。かなり睡魔が来ているな、と思った。
すでに5、6時間登っていて疲れもある、酸欠の影響もある、そのうえ強烈な寒さだ。顔に打ちつける吹雪で、髪の毛も、まつげも凍りついていた。ダウンを重ね着していても低体温症になっている可能性がある。
風をよけるために、岩陰で絵子を休ませ、体をさすったりした。
そこから山頂までは、噴火口の外輪部を歩くので風がダイレクトに吹きつける。本人のモチベーションがないと耐え抜けない。僕はそう説明して「引き返すこともひとつの選択肢だ。行くか、あきらめるか。やるか、やらないか。絵子はどうしたい?」と聞いた。

絵子 私、そんなに朦朧としていたの? 自分ではあのときの記憶はしっかり残っているの。岩陰に隠れて座り込み、ズボンとダウンパンツの間に腕を入れて手を温めていた。お父さんとガイドさんが話しているのも聞こえていて、お父さんの問いかけに、自分では即座に「やる!」と返事をしたつもりだった。だけど実際には、即答になっていなかったんだ。寒さや睡魔で意識が落ちていたんだね。

 そうだよ。キリマンジャロは、ギルマンズポイント(5685メートル)というところまで登っていれば、登頂証明書を出してもらえる。僕らはすでにそのポイントを越していたから、あそこから下りたとしても、「キリマンジャロに登頂しました」と言うことができる。
しかし、本人の気持ちとして、「それでよし」と思えるかどうかだよね。

絵子 私は登頂証明書が欲しいわけじゃない。「自分はキリマンジャロの頂上に立った」という紛れもない事実が欲しかった。あそこであきらめるのは絶対にイヤだった。

 僕は内心、葛藤していたよ。この状態で絵子を登らせることは、「してはいけない無理」に踏み込むことになるんじゃないかって。
だけど、17歳で初めてこのキリマンジャロに登った自分と、目の前の絵子とがオーバーラップしてきた。もしここで引き返す選択をしたら、絵子は心が折れるだろうと思った。だから、「なんのために僕がいるんだ。僕が絵子を守り、登らせてやろう、そして無事に一緒に帰るんだ」と心を決めて、絵子とガイドに「よし、行こう!」と言った。

絵子 お父さんと一緒じゃなかったら、むずかしかったよね。私はひたすら、「私にはお父さんがついている、だから登れる、やり抜ける!」って思っていた。

5895メートル、キリマンジャロ登頂!

 突風が吹きつけてくる。ザイルはないので、体が風にあおられて噴火口に落ちそうになる。僕とガイドとふたりで絵子の体を支えながら、一歩一歩進んだ。

絵子 途中から、少しだけ太陽が見えてきて視界が明るくなってきたけれど、それでも見えるのはまわりの真っ白な世界と、歩いている道の3メートル先ぐらいまで。あそこは本当に怖かったね。風で吹き飛ばされないよう、足を滑らせないよう、お父さんとガイドさんにしがみつくような感じで歩いた。
午前6時半、標高5895メートル、キリマンジャロの頂上、ウフルピークに着いた。視界が悪くてまわりの様子がわからなくて、目の前にいきなり山頂を示すポールが見えたときは、「えっ、着いたの?」っていう感じだった。

 声を上げて泣いていたね。

絵子 だって、うれしくて、うれしくて……。長い間夢見てきた頂上が、いきなり目の前にあったから。小学生のころから登りたかった山だし、最後のところであんな吹雪になったから、感動が大きくてこみ上げてきたの。泣きながら、思わずお父さんに抱きついちゃったね。普段あんなこと絶対にしないのに。
だけど、そういうお父さんだって泣いていたよ。

 いろいろな想いが重なって感慨深かったんだよ。思えば、絵子が「キリマンジャロに登りたい」と言いだしてから、本当にいろいろあった。このキリマンジャロまでの歩みが、映画のシーンのように次々と脳裏をかけめぐった。さらに、僕自身が高校時代に登頂したときのことも思い出したりして、感無量になった。

絵子 輝く朝日も、壮大な景色も、抜けるような青空も何もない登頂。ずっとイメージしてきたキリマンジャロ登頂の瞬間とはまったく違っていた。ただただ真っ白な世界。私はブログに「キリマンジャロは奇想天外」と書いた。

 僕は過去に2回キリマンジャロに登っていたけれど、2回とも晴天だった。あんなのは初めてだったよ。

絵子 頂上にいたのは5分くらいだったかな。せっかくがんばって登ってきた山だから気持ち的にはもっといたかったけど、それ以上に寒さのほうが……。

 あのままじっとしていると危ないからね。

絵子 お父さんがリュックの中からたくさんダウンジャケットやダウンパンツを出して着せてくれたときは、「さすがだな」って思った。どんなことが起きても対応できるように準備しなさいと教えられていたけれど、いろいろな想定をすることの大切さを痛感しました。

 こっちは20年以上も山に登っているんですから(笑)。

絵子 尊敬します、感謝しています(笑)。

 何かが足りなかったらアウトだったかもしれないね。たとえば防寒用のダウンジャケットの予備をあれだけ持っていなかったら、低体温症で危なかっただろうから、確実にあきらめていただろう。でも、それ以上に、登頂したいという本人の気持ちが途切れなかったというのが大きいよ。
ガイドも、こんな吹雪は初めて経験したと言っていたくらいだから、あの悪天候はかなりレアだったんだよ。そのレアな経験ができたことで、絵子はひとまわり大きくなれたと思う。あの吹雪に感謝したほうがいい。景色に感動する以上のものを得たんじゃないかな。

絵子 朝日の景色は見ることができなかったけれど、下山の途中で霧が晴れて、今まで見えなかった雄大な山の景色がパーッと目の前に広がったときは感動的だった。

 あれはきれいだったね。あれは登頂した後のご褒美だった。

絵子 もう一回、行かないとね。ちゃんと山頂からのいい景色も見てみたいから。

 ……もう一度行くの?

絵子 だってあの短い滞在時間で、私、自分のカメラで写真を撮ることもできなかったんだもの。今度はいい景色を見て、写真も撮りたい。

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著者

野口絵子/野口健

【野口絵子】 2004年生まれ。父、野口健とともに幼いころより登山を始める。14歳でネパール・カラパタール峰(5,545m)に登頂。その後、東南アジア最高峰キナバル(4,095m)や、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5,895m)などに登頂。『日立 世界ふしぎ発見!』のミステリーハンターを務める。2022年現在、ニュージーランドに留学中。 【野口健】 アルピニスト。1973年、アメリカ・ボストン生まれ。亜細亜大学卒業。99年、エベレスト(ネパール側)の登頂に成功し、7大陸最高峰最年少登頂記録を25歳で樹立。以降、エベレストや富士山に散乱するゴミ問題に着目して清掃登山を開始。野口健環境学校など子どもたちへの環境教育や、ネパール大震災、熊本大震災の支援をきっかけに災害支援活動などにも取り組む。

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