第14回
「ALSと診断します」
2018.07.17更新
【 この連載は… 】 「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」という難病をご存知ですか? 意識や五感は正常のまま身体が動かなくなり、やがて呼吸困難を引き起こす指定難病です。2014年の「アイスバケツ・チャレンジ」というパフォーマンスで目にした方も多いでしょう。あれから約4年経過した現在、まだ具体的な解決法はありません。本連載では、27歳でALSを発症した武藤将胤さんの「限界を作らない生き方」を紹介します。日々、身体が動かなくなる制約を受け入れ、前に進み続ける武藤さん。この困難とどう向き合っていくのか、こうご期待!
「目次」はこちら
「ALSと診断します」
その日、仙台の東北大学病院には、父が同行してくれた。
僕が小学校に入る前に、母が再婚した相手が今の父。父と僕は血がつながっていない。しかし、すごくかわいがってもらったし、とても厳しくもされてきた。中学、高校の頃、大事な保護者面談のときは、猛烈に忙しいはずの父が必ず都合をつけて来てくれた。
このときも、母が同行すると言ったのを、父が「いや、俺が一緒に行く」と言って付き添ってくれた。ALSと言われたときの、母のショックの大きさを思いやったのかもしれない。
先生は、すでにお届けしてあった検査データを入念に見てくださっていた。
これまでの経緯や症状の一連を伝えると、その日その場で、
「諸々の状況から考えて、これはたぶんALSですね」
と言われた。
「もちろん、ALSではないという可能性も捨てきれないですが、そうでなかったら、それはそれで『違っていましたね』と私が詫びればいいことです。お話を聞いていると、たぶんALSです。ALSであるならば、今すぐ始めたほうがいいことがあります。それを始めるためにも、僕はALSと診断します」
頭の中が真っ白になった。
自分がALSである可能性が高いことは、わかっているつもりだった。それを特定してもらいたいと思って仙台まで出かけたはずだった。
しかし、実際に面と向かって病名を告げられたときの衝撃は、思っていた以上のものだった。
先生は、丁寧に細かな説明をいろいろしてくださった。だが、ちっとも頭に入ってこない。
それでも診察室にいる間は、なんとか感情を保てていた。
診察室を出て、父が会計処理に行ってくれている間、待合室でひとりになった瞬間、堰を切ったように嗚咽がこぼれてきた。
いつの間に戻ってきたのか、父が何も言わずに背中に手を当て、さすってくれていた。お互いに言葉が見つからない状況の中で、父の手の感触だけが温かく伝わってきた。
帰路
帰りの新幹線に乗った頃、ようやく頭が何かを考えられるようになった。
しかし、同じことが頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
僕は死ぬのか。
もう、何もかもあきらめなくてはいけないのか。人生ここで終了?
なぜ僕なのか。
なぜ今、なぜこの年齢で?
今の生活はどうなっていくのか、将来は、夢は、人生は……、とめどなく思いが拡がっていく。
そうかと思うと、やけに落ち着いて受けとめているところもあった。
あの親父が、言葉をかけてこない。普段の父は結果第一主義の人だから、いつものペースならば、「この結果を受けとめてどうすべきだ」とアドバイスを投げかけてくれる。だが、じっと黙っている。だから、父にしてもかなりショックだったんだろうな。
そう考えると、やはり今日は母と来なくて正解だった。自分のことで、泣かせたくなかったからな。
ここで自分がふさぎ込んでいたら、家族はどうしたらいいかわからないだろうから、明るく毅然としていなきゃいけないな。不思議と、そんなことを考える冷静さもあった。
ああ、彼女になんて伝えよう。
その頃、やがて妻となってくれる木綿子と付き合っていた。内心プロポーズを考えていた時だった。
とても心配してくれていた。どう伝えたら、彼女のショックを和らげることができるんだろう。
僕は、ひたすらいろいろなことを考え続けた。
病名を宣告されたことは、ものすごい衝撃だった。
どん底に突き落とされたような感覚だった。
だが、帰りの新幹線に乗った約2時間が僕にとってはとても大切な時間になった。
自分の置かれた状況がはっきりわかったことで、何と闘えばいいのかが見えた。病名がはっきりするまでの1年以上、もやもやとした暗がりの中で、自分が何と向き合い、何をどう考えたらいいのかが見えずに、身動きがとれない状態が続いていた。それはとても苦しかった。
宣告されたことで、自分がどこに向かっていったらいいのか、一筋の道が見えてきたような気になっていた。
それは学生時代からのビジョンに原点回帰することで確信に変わった。
「社会を明るくするアイディアを形に」
その意志を強くもって、学生時代からがむしゃらに行動し続けてきた。
だったら、今僕が進むべき道。
それは、「ALSをはじめ、さまざまなハンディキャップを背負った仲間の未来、社会を明るくするアイディアを形に」
それが必死に出した答えだった。
きっとあの宣告は、僕にとって前に向かうためのエンジンになったのだと思う。
もうすぐ東京駅に着くというとき、僕は隣の座席に座っている父に言った。
「これから、この病気、ALSの啓発活動をやろうと思う。それが僕という人間の生きている意味になるような気がする」
具体的に何かを考えていたわけではない。ただ、最初に父に宣言したかった。
「そうか。応援する」
父は、短くそう答えてくれた。
あの日は僕の、二度目の誕生日のようなものだ。
「WITH ALS」のウェブのトップページには、日にちと時間のカウントがある。僕がALSを宣告されたその日から今日までの日数と時間を示している。
あの日以来、僕はその日数、その時間を、ALSと共に生きている。その日数、その時間を確かに歩んでいる。
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