Facebook
Twitter
RSS

第79回

186〜188話

2021.07.14更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
「目次」はこちら

10‐1 自暴自棄になってはいけない


【現代語訳】
孟子は言った。「自分をそこないだめにしている者とは、ともに語り合うことはできない。自分を棄て、あきらめてしまっている者とは、一緒に仕事はできない。口を開ければ、礼儀、道徳を無価値だということを、自暴という。礼儀、道徳は認めるものの、自分とは無縁のほど遠いところにあるものとすることを、自棄という。仁は人にとって最も安らかでいられる場所であり、義は人の正しい道である。この安らかな場所を捨て、正しい道を捨てるのは悲しくて情けないことである」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、自(みずか)ら暴(そこな)う者(もの)(※)は、与(とも)に言(い)う有(あ)るべからざるなり。自(みずか)ら棄(す)つる者(もの)(※)は、与(とも)に為(な)す有(あ)るべからざるなり。言(げん)、礼義(れいぎ)を非(そし)る、之(これ)を自暴(じぼう)と謂(い)う。吾(わ)が身(み)、仁(じん)に居(お)り義(ぎ)に由(よ)ること能(あた)わざる、之(これ)を自棄(じき)と謂(い)う。仁(じん)は人(ひと)の安宅(あんたく)なり。義(ぎ)は人(ひと)の正路(せいろ)なり。安宅(あんたく)(※)を曠(むな)しく(※)して居(お)らず。正路(せいろ)(※)を舎(す)てて由(よ)らず。哀(かな)しいかな。

(※)自ら暴う者……自分をそこない、だめにしている者。孟子の説明によると「口を開ければ、礼儀、道徳を無価値だと言う」ことである。次の「自ら棄つる者」と併せて「自暴自棄」という言葉は、本章の『孟子』を語源とする。
(※)自ら棄つる者……自分を棄て諦めている者。孟子の説明によると「礼儀、道徳は認めるものの、自分とは無縁のほど遠いところにあるものとすること」である。
(※)安宅……安らかでいられる場所。告子(上)第十一章では「仁は人の心なり。義は人の路なり」と言っている。
(※)曠しく……捨て。空しくして。「曠」は空と同じ意味。
(※)正路……人の正しい道。

【原文】
孟子曰、自暴者、不可與有言也、自棄者、不可與有爲也、言、非禮義、謂之自暴也、吾身、不能居仁由義、謂之自棄也、仁人之安宅也、義人之正路也、曠安宅而弗居、舍正路而不由、哀哉。

 

11‐1 道は近くにあり。事は易きにあり


【現代語訳】
孟子は言った。「人の行うべき道は、近くにあるものだ。それなのに、わざわざ遠い所に求めようとする。人の為すべき仕事は、容易である。それなのにわざわざ難しいことを求めようとする。世の人々が、自分の親を親として親しみ大事にし、自分のまわりにいる長者を長者として尊敬し、大事にすれば、天下は平らかに治まっていくものだ」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、道(みち)は爾(ちか)き(※)に在(あ)り。而(しか)るに諸(これ)を遠(とお)きに求(もと)む。事(こと)は易(やす)きに在(あ)り。而(しか)るに諸(これ)を難(かた)きに求(もと)む。人人(ひとびと)其(そ)の親(しん)を親(しん)とし、其(そ)の長(ちょう)(※)を長(ちょう)とせば、天下(てんか)平(たい)らかなり。

(※)爾き……近く。なお、『論語』でも本章に近いことを言っているところがある。「子(し)曰(いわ)く、仁(じん)、遠(とお)からんや。我(われ)仁(じん)を欲(ほっ)すれば、斯(ここ)に仁(じん)至(いた)る」(述而第七)。
(※)其の長……自分のまわりにいる長者。長者とは、年上の人、年寄り、目の上などの意味。

【原文】
孟子曰、衜在爾而求諸遠、事在易而求諸難、人人親其親、長其長、而天下平。

 

12‐1 至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり


【現代語訳】
孟子は言った。「臣下でありながら、上たる君主から信任を得られないようであれば、とうてい民の上に立ってうまく治めることはできないだろう。君主に信任されるためには道がある。それは、友人、仲間に信用されないと、君主に信用されないということである。友人、仲間に信用されるには道がある。それは、自分の親に仕えて喜ばれるようになっていないと、友人、仲間に信用されないということである。親に喜ばれるには道がある。それは、我が身を反省して、誠でないと親は喜ばないということである。我が身を誠にするには道がある。それは善を明らかにすることで、これをしないと我が身はまことにならない。こういうわけであるから誠は、すべての根源であり天の道なのである。誠であろうとすることは、人の道である。至誠にして動かないものは、未だこの世にはないのだ。また、誠がなくてよく動くものも、この世には未だないのである」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、下位(かい)に居(い)て上(かみ)に獲(え)られざれば、民(たみ)得(え)て治(おさ)むべからざるなり。上(かみ)に獲(え)らるるに道(みち)有(あ)り。友(とも)に信(しん)ぜられざれば、上(かみ)に獲(え)られず。友(とも)に信(しん)ぜらるるに道(みち)有(あ)り。親(おや)に事(つか)えて悦(よろこ)ばれざれば、友(とも)に信(しん)ぜられず。親(おや)に悦(よろこ)ばるるに道(みち)有(あ)り。身(み)に反(はん)して誠(まこと)(※)ならざれば、親(おや)に悦(よろこ)ばれず。身(み)を誠(まこと)にするに道(みち)有(あ)り。善(ぜん)に明(あきら)かならざれば、其(そ)の身(み)を誠(まこと)にせず。是(こ)の故(ゆえ)に誠(まこと)は、天(てん)の道(みち)なり。誠(まこと)を思(おも)うは、人(ひと)の道(みち)なり。至誠(しせい)(※)にして動(うご)かざる者(もの)は、未(いま)だ之(これ)有(あ)らざるなり。誠(まこと)ならずして、未(いま)だ能(よ)く動(うご)かす者(もの)は有(あ)らざるなり。

(※)誠……まこと。偽りのないこと。誠実。なお、この「誠」を本章は、すべての根源であり、天の道であり、誠であろうとするのは人の道であると論じる。『中庸』にも、この「誠」についてのほぼ似た文章があるが、孟子の影響であろう。『中庸』は、孟子の先師にあたる子思(孔子の孫)の作ともいわれてきたが、ここは、明らかに孟子の後に書き加えられたものであると思われる。名詞としての「誠」は孟子が初めて用いている。『論語』では、副詞として(季氏第十六)、そして感嘆の言葉として(子路第十三)二ヵ所でのみ用いられている。『論語』では「忠」と「信」の字が、この意味での「まこと」を意味している。吉田松陰は「至誠」以下の孟子の言葉を愛し、よく用いている。死刑を命じられることになる江戸行きの際、松下村塾の塾生たちに「至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり」で書き出した文を与えている。そして、「願(ねが)わくは身(み)を以(もっ)て之(これ)を験(けん)せん」とした。事実は、周知のごとく死刑に処せられることになるが、この死が塾生たちを維新に向かわせることになった。松陰の純粋な心と、孟子の松陰たちへの影響力は時代を動かすものがあったといえよう。
(※)至誠……至上完全な誠。このうえない、自分の最高の誠。

【原文】
孟子曰、居下位而不獲於上、民不可得而治也、獲於上有道、不信於友、弗獲於上矣、信於友有道、事親弗悦、弗信於友矣、悦親有道、反身不誠、不悦於親矣、誠見有道、不明乎善、不誠其身矣、是故誠者、天之道也、思誠者、人之道也、至誠而不動者、未之有也、不誠、未有能動者也。

「目次」はこちら

シェア

Share

感想を書く感想を書く

※コメントは承認制となっておりますので、反映されるまでに時間がかかります。

著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

矢印