第14回
贊玄第十四
2018.12.21更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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贊玄第十四
14 古くから万物の始源(「道」)が今も私たちを支えている
【現代語訳】
目をこらしても見えない。それを「夷」という。耳をすましても聞こえない。それを「希」という。手でさぐっても捕らえられない。それを「微」という。これら三つのものは、つきとめようとしてもそれはできない。いわゆる「道」というものは、三つのものが一つのものに混じり合ってできているのだ。
この一つに混じり合ったものの上は明るいわけではなく、それの下は暗いわけではない。果てしなく続き名づけようもなく、結局は万物が名づけられる前の根源的な無の世界(「道」)に戻っていく。これを「無状の状」(姿のない姿)、「無物の象」(形のない形)、「惚恍」(おぼろげなもの)という。前から迎えてもその頭は見えず、後からついていっても、その後ろ姿は見えない。
古い昔からの道をしっかりと守って、それによって現在のことをとりしきれば、古くからの始まりを知ることができる。これを「道紀」(「道」の法則)という。
【読み下し文】
これを視(み)れども見(み)えず、名(な)づけて夷(い)(※)と曰(い)う。これを聴(き)けども聞(き)こえず、名(な)づけて希(き)(※)と曰(い)う。これを搏(とら)えんとすれども得(え)ず、名(な)づけて微(び)(※)と曰(い)う。此(こ)の三者(さんしゃ)は致詰(ちきつ)(※)すべからず、故(もと)より混(こん)じて一(いつ)と為(な)る。
其(そ)の上(かみ)は皦(あきら)かならず、其(そ)の下(した)は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)(※)として名(な)づくべからず、無物(むぶつ)に復帰(ふっき)す。是(こ)れを無状(むじょう)の状(じょう)、無物(むぶつ)の象(しょう)と謂(い)う。是(こ)れを惚恍(こつこう)と謂(い)う。これを迎(むか)うれども其(そ)の首(こうべ)を見(み)ず、これに随(したが)うとも其(そ)の後(しりえ)を見(み)ず。
古(いにしえ)の道(みち)を執(と)りて(※)、以(もっ)て今(いま)の有(ゆう)を御(ぎょ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知(し)る。是(これ)を道紀(どうき)と謂(い)う。
- (※)「夷」「希」「微」……三つは同韻で発声が近く、意味もほとんど共通している。いずれも根源的な道のありさまをいい、道は視覚、聴覚、触覚では捉えられないものであるとする。「道」はそれらを超えた混沌とした一つのものであるとしている。
- (※)致詰……究明する。
- (※)縄縄……果てしなく広く、活動が続くさま。これをはっきりしないさまと解する説もある。
- (※)古の道を執りて……『帛書』では「古之道」が「今の道」となっている。そうすると「現在の道をしっかりと守って」と訳することになる。しかし、「古之道」のほうが老子の思想に合うように思える。
【原文】
贊玄第十四
視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰、故混而爲一。
其上不皦、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無狀之狀、無物之象。是謂惚恍。迎之不見其首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、能知古始、是謂道紀。
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