第23回
虛無第二十三
2019.01.07更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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虛無第二十三
23 道とともに生き、徳とともに生きれば言葉はいらない
【現代語訳】
耳をすましても聞こえない「希言」は自然な在り方である(ほとんど無言に近いのが無為自然の「道」の在り方である)。
だから突然の暴風(つむじ風)も朝の間中吹くものではなく、突然の豪雨(にわか雨、スコール)も一日中降るわけではない。そうしているのは誰なのか。それは天地である。天地でさえ長く続けることはできないのだから、人においてはなおさらだ。
したがって「道」に従って行動する者は、「道」と一つになろうとし、徳に従って行動する者は、徳と一つになろうとし、徳を失っている者は、失った徳と一つになろうとする。「道」と一つになろうとする者には、「道」もまた楽しんで(喜んで)その人を受け入れ、徳と一つになろうとする者には、徳のほうでも楽しんでその人を受け入れ、失った徳と一つになろうとする者には、失徳のほうでも楽しんでこれを受け入れるだろう。
誠実さが足りないと、誰も信用しないのである(言葉でしゃべるよりも心の誠実さ、誠実は行動こそが大切である)。
【読み下し文】
希言(きげん)(※)は自然(しぜん)なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終(お)えず、驟雨(しゅうう)は日(ひ)を終(お)えず。孰(たれ)か此(こ)れを為(な)す者(もの)ぞ、天地(てんち)なり。天地(てんち)すら尚(な)お久(ひさ)しきこと能(あた)わず、而(しか)るを況(いわ)んや人(ひと)に於(おい)てをや。
故(ゆえ)に道(みち)に従事(じゅうじ)する者(もの)(※)は、道(みち)に同(どう)じ、徳(とく)なる者(もの)は徳(とく)に同(どう)じ、失(しつ)なる者(もの)は失(しつ)に同(どう)ず。
道(みち)に同(どう)ずる者(もの)には、道(みち)も亦(ま)たこれを得(え)るを楽(たの)しみ、徳(とく)に同(どう)ずる者(もの)には、徳(とく)も亦(ま)たこれを得(う)るを楽(たの)しみ、失(しつ)に同(どう)ずる者(もの)には、失(しつ)も亦(ま)たこれを得(う)るを楽(たの)しむ。
信(しん)足(た)らざれば、焉(ここ)に信(しん)ぜられざること有(あ)り(※)。
- (※)希言……言葉が少ない、無言に近いこと。なお、贊玄第十四で、「これを聴けども聞こえず、名づけて希と曰う」とある。
- (※)道に従事する者……道に従って行動する者。なお、原文の「從事於衟者」と「同於衟」の間に、「衟者」が入る説と入らない説がある。本書では後者を採った。『帛書』にも入っていない。
- (※)信足らざれば、焉に信じぜられざること有り……本章にこの一文があるのは少し唐突とする人も多い。同じ表現が淳風第十七にある。なお、『帛書』にも入っていないが、本書では通説に従って載せて訳している。
【原文】
虛無第二十三
希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尙不能久、而況於人乎。
故從事於衜者、同於衜、德者同於德、失者同於失。
同於道者、衜亦樂得之。同於德者、德亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。
信不足、焉有不信焉。
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