第38回
論德第三十八
2019.01.29更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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論德第三十八
38 本物の徳がある人は、徳を施したことなど意識するものではない
【現代語訳】
本物の上徳を身につけた人は、自分に徳があることなどを意識しない。だからかえって徳がいつでもあるのである(身についている)。これに対し、ニセ者の下徳の人は、自分の徳を意識し、失わないことに励む。だからかえって徳が身につかない。
本物の上徳の人は何事もはたらきかけない(意識もない)。これに対しニセ者の下徳の人は、何かを成し、自分でも何かを成していると意識してしまう(そこに打算、錯覚がある)。
本物の上仁の人は、何かを成すが、そのことを意識しない。上義の人は何かを成し、またそのことを意識している。
上礼の人も何かを成して、それに応えてくれなければ腕まくりして、相手を引き込もうとする。
このように「道」が失われてから徳が生まれ、徳が失われると、仁が生まれた。そして仁が失われると義が生まれ、義が失われて礼が生まれたのである。
そもそも礼というものは、忠信という人の真心が薄くなったから生まれたものであり、人の争乱の始まりである。先を見通す知識は、「道」のあだ花のようなものであり、愚の始まりでもある。
したがって、立派な人は、「道」にのっとってその厚みの上に身を置き、「道」の薄くなっているところには身を置かない。「道」の実質があるところに身を置き、見せかけのあだ花に身を置かない。だから、あちらの薄いところやあだ花を捨てて、こちらの「道」を取るのだ。
【読み下し文】
上徳(じょうとく)は徳(とく)とせず、是(ここ)を以(もっ)て徳(とく)有(あ)り。下徳(かとく)は徳(とく)を失(うしな)わざらんとす、是(ここ)を以(もっ)て徳(とく)無(な)し。
上徳(じょうとく)は無為(むい)にして、而(しか)も以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。下徳(かとく)はこれを為(な)して、而(しか)も以(もっ)て為(な)す有(あ)り(※)。
上仁(じょうじん)はこれを為(な)して、而(しか)も以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。上義(じょうぎ)はこれを為(な)して、而(しか)も以(もっ)て為(な)す有(あ)り。
上礼(じょうれい)はこれを為(な)して、而(しか)もこれに応(おう)ずる莫(な)ければ、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘(あ)げて而(しか)してこれを扔(ひ)く(※)。
故(ゆえ)に道(みち)を失(うしな)いて而(しか)る後(のち)に徳(とく)あり、徳(とく)を失(うしな)いて而(しか)る後(のち)に仁(じん)あり、仁(じん)を失(うしな)いて而(しか)る後(のち)に義(ぎ)あり、義(ぎ)を失(うしな)いて而(しか)る後(のち)に礼(れい)あり。
夫(そ)れ礼(れい)なる者(もの)は、忠信(ちゅうしん)の薄(うす)きにして、而(しか)して乱(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)(※)なる者(もの)は、道(みち)の華(はな)(※)にして、而(しか)して愚(ぐ)の始(はじ)めなり。
是(ここ)を以(もっ)て大丈夫(だいじょうふ)(※)は、其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其(そ)の薄(うす)きに居(お)らず。其(そ)の実(じつ)に処(お)りて、其(そ)の華(はな)に居(お)らず。故(ゆえ)に彼(か)れを去(す)てて此(こ)れを取(と)る。
- (※)下徳はこれを為して、而も以て為す有り……この原文の「下德爲之、而有以爲」はなかったとする説も有力である。『帛書』にもなかった。また、「下德爲之」は「下德無爲」の間違いではないかとする説もある。本書では従来からの通説に従って解釈した。
- (※)臂を攘げて而してこれを扔く……「臂」は腕。「攘」はそでをまくること。「扔」は引き込むこと。
- (※)前識……人より前に識ること。先を見通す知識。悪い予兆を知ること。
- (※)道の華……「道」のあだ花。花が幹から見ると、本質から離れて咲くあだ花にすぎないということ。
- (※)大丈夫……立派な人。
【原文】
論德第三十八
上德不德、是以有德。下德不失德、是以無德。
上德無爲、而無以爲。下德爲之、而有以爲。
上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。
上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。
故失道而後德、失德而後仁、失仁而後義、失義而後禮。
夫禮者、忠信之薄、而亂之首。歬識者、道之崋、而愚之始。
是以大丈夫處其厚、不居其薄、處其實、不居其崋。故去彼取此。
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