第49回
任德第四十九
2019.02.14更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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任德第四十九
49 「道」と一体となると、人はすべて受け入れられる
【現代語訳】
「道」と一体となっている聖人の心は、一定して変わらないものではなく(いわゆる無心である)、一般の人々を自分の心としている。人々が善であるという人は私も善いと思うし、不善の人であるという人も私は善いとする。こうしてすべての人が善となっていく(これは聖人の徳が本当の善だからである)。人々が誠実だという人は私も誠実だと思うし、不誠実な人であるという人も誠実であると思う。こうしてすべての人が誠実となっていく(これは聖人の徳が本当の信だからである)。
聖人が天下にのぞむときは、心を何かにとらわれることなく、天下のためだけを考え心を無にして行う。人々は皆耳を傾け、目を注ぐけれども、聖人はこの人々を赤ん坊のようにしてしまうのである。
【読み下し文】
聖人(せいじん)は常(つね)の心(こころ)無(な)く(※)、百姓(ひゃくせい)の心(こころ)を以(もっ)て心(こころ)と為(な)す。善(ぜん)なる者(もの)は吾(わ)れこれを善(よ)しとし、不善(ふぜん)なる者(もの)も(※) 吾(わ)れ亦(ま)たこれを善(よ)しとす。徳(とく)(※)は善(ぜん)なり。信(しん)なる者(もの)は吾(わ)れこれを信(しん)じ、不信(ふしん)なる者(もの)も吾(わ)れ亦(また)これを信(しん)ず。徳(とく)は信(しん)なり。
聖人(せいじん)の天下(てんか)に在(あ)るや、歙歙(きゅうきゅう)として(※)、天下(てんか)の為(ため)に其(そ)の心(こころ)を渾(こん)ず(※)。百姓(ひゃくせい)は皆(みな)其(そ)の耳目(じもく)を注(そそ)ぐも、聖人(せいじん)は皆(みな)これを孩(がい)にす(※)。
- (※)聖人は常の心無く……一定不変の心は持たないこと。いわゆる無心になること。なお、この原文を「聖人は常に無心にして(聖人常無心)」とする説もある(『帛書』参照)。
- (※)不善なる者も……巧用第二十七、爲道第六十二参照。親鸞の「悪人正機説」を連想してしまう。もちろん老子は仏教の思想とは違うものの、「道」はすべてのものや人の根源であり、すべてのものを生かすいう意味で共通している。
- (※)徳……徳は得に通じる。本章の徳は「道」と一体となっている聖人のあり方を意味している。
- (※)歙歙として……心を何かにとらわれることなく。「歙」は自分の意欲をしまい込む、何かを取り込むなどの意味。
- (※)心を渾ず……心を無にしてしまう。「渾」は混沌の意味。
- (※)孩にす……赤ん坊のようにしてしまう。「孩」とは赤ん坊の笑い声のこと。異俗第二十参照。
【原文】
任德第四十九
聖人無常心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、德善。信者吾信之、不信者吾亦信之、德信。
聖人在天下歙歙、爲天下渾其心。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。
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