第94回
55〜57話
2020.05.15更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、菜根譚の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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55 自然にかえるのが理想の姿である
【現代語訳】
花は鉢に植えると、遂には生気が失われていく。鳥はかごに入れて飼うと、だんだん天然の趣が失われていく。やはり、山間の花や鳥が、自然のなかでまじり合って美しい様相を成し、のびのびと自由に飛びまわっているのが、心楽しそうであることには及ばない。
【読み下し文】
花(はな)、盆内(ぼんない)に居(お)れば、終(つい)に生機(せいき)に乏(とぼ)しく、鳥(とり)、籠中(ろうちゅう)に入(い)れば、便(すなわ)ち天趣(てんしゅ)を減(げん)ず。若(し)かず、山間(さんかん)の花鳥(かちょう)の、錯(まじ)り集(あつ)まって文(ぶん)(※)を成(な)し、翺翔自若(こうしょうじじゃく)(※)、自(おの)ずから是(こ)れ悠然(ゆうぜん)として会心(かいしん)(※)なるには。
(※)文……ここでは、美しい様相をなすの意。なお、『論語』で「文」とは、勉強や教養、礼学を指す(学而第一など)。また、本や古典も意味することがある(雍也第六、述而第七など)。「文章」については、本書の前集57条および102条、147条参照。
(※)翺翔自若……自由に飛びまわる。
(※)会心……心楽しい。心にかなう。
【原文】
芲居盆內、終乏生機、鳥入籠中、便減天趣。不若、山閒芲鳥、錯集成文、翺翔自若、自是悠然會心。
56 仮の自分は、真の自分ではない
【現代語訳】
世の人は、ただ「我」という字を真実なものと考えすぎて、自分にとらわれすぎている。だから自分の好みや欲望そして苦悩が多くなる。前人は言っている。「また、我のあることを知っていないと、どうして物が貴いことを知ることができようか」。さらにまた言っている。「この身は仮の我であり、真の我ではない。このことを知っていれば、欲望や苦悩で苦しめられることはない」。まさに真理を見抜いている言葉である。
【読み下し文】
世人(せじん)は只(た)だ我(われ)(※)の字(じ)を認(みと)め得(う)ること太(はなは)だ真(しん)なるに縁(よ)るが故(ゆえ)に、種種(しゅじゅ)の嗜好(しこう)、種種(しゅじゅ)の煩悩(ぼんのう)多(おお)し。前人(ぜんじん)(※) 云(い)う、「復(ま)た我(われ)有(あ)るを知(し)らざれば、安(いずく)んぞ物(もの)の貴(とうと)しと為(な)すを知(し)らん」。又(また)云(い)う、「身(み)は是(こ)れ我(われ)ならざるを知(し)らば、煩悩(ぼんのう)更(さら)に何(なん)ぞ侵(おか)さん」。真(まこと)に破的(はてき)の言(げん)(※)なり。
(※)我……自己。自分の存在をさすが、仏教はこれを否定し、「無我」を説く。
(※)前人……陶淵明(陶潜)のこと。
(※)破的の言……(真理を)見抜いている言葉。なお、本項の理解を助ける佐藤一斎の『言志四録』の言葉があるので紹介しておく。一つは「本然(ほんぜん)の真己(しんこ)有(あ)り。躯殻(くかく)の仮己(かこ)有(あ)り。須(すべか)らく自(みずか)ら認(みと)め得(え)んことを要(よう)すべし」である。もう一つは「真(しん)の己(おのれ)を以(もっ)て仮(かり)の己(おの)れに克(か)つは、天理(てんり)なり。身(み)の我(われ)を以(もっ)て心(こころ)の我(われ)を害(がい)するは、人欲(じんよく)なり」である。ちなみに後者を現代訳してみるとこうなる。「人にはこうあるべしという真の自分と、私欲に惑わされた仮の自分がある。真の自分が仮の自分に克つのは天の道理によるものである。これに反して、身体的な欲望が精神的に正しく生きようとする心の我を害していくのは私欲である」。本項の解釈については、本書の前集73条も参照。
【原文】
世人只緣認得我字太眞故、多種種嗜好、種種煩惱。歬人云、不復知有我、安知物爲貴。又云、知身不是我、煩惱更何侵。眞破的之言也。
57 視点を変えて自分を見つめ直す
【現代語訳】
老年になった気持ちになって、若いときのことを見ることができれば、大して意味のない競争や闘争の心は消える。また、落ちぶれて弱っているときの気持ちになって、調子に乗った羽振りの良いときのことを見られれば、無駄に派手な生活をしたいと思う心は消える。
【読み下し文】
老(ろう)より少(しょう)(※)を視(み)れば、以(もっ)て奔地角逐(ほんちかくちく)(※)の心(こころ)を消(け)すべし。瘁(すい)(※)より栄(えい)を視(み)れば、以(もっ)て粉花蘼麗(ふんかびれい)(※)の念(ねん)を絶(た)つべし。
(※)少……若い。なお、『論語』で孔子は次のように述べる。「君子(くんし)に三戒(さんかい)有(あ)り。少(わか)き時(とき)は血気(けっき)未(いま)だ定(さだ)まらず、これを戒(いまし)むる、色(いろ)に在(あ)り。其(そ)の壮(そう)に及(およ)んでは、血気(けっき)方(まさ)に剛(ごう)なり、これを戒(いまし)むる、闘(とう)に在(あ)り、其(そ)の老(お)いたるに及(およ)んでは、血気(けっき)既(すで)に衰(おとろ)う、これを戒(いまし)むること得(う)るに在(あ)り」(季氏第十六)。『論語』で「少」とは十代、二十代、「壮」とは三十代、四十代であろう。本項で述べる「少」は、内容からして「壮」の時代も含まれるものだと解される。「少」は、血気が盛んあるいは剛であって、「奔地角逐」となりがちとなる。本項の解釈については、本書の前集26条、109条も参照。
(※)奔地角逐……大して意味のない競争や闘争に明け暮れる。駆けまわり、追い払う。
(※)瘁……落ちぶれて弱っている。
(※)紛華靡麗……無駄に派手な生活。華々しく派手なこと。
【原文】
自老視少、可以消奔馳角逐之心。自瘁視榮、可以絶紛華靡麗之念。
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