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「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに なぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三 音声配信中

第18回

【老衰死・平穏死の本】誰のための医療なのか、何のための医療なのか

2018.03.22更新

読了時間

まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
「目次」はこちら

本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。

■誰のための医療なのか、何のための医療なのか

 かつては、「方法があるならばやらなければいけない」と意気揚々と言っていた私も、多くの患者さんの生と死に直面して、次第に医療の意味をいろいろ考えるようになっていきました。

 医者は、つねに最善の医療を目指そうとします。その「最善」とは、医者の立場から客観的に見て、現時点の技術でいちばん効果的だと考えられる治療法です。

 エビデンスに基づいて患者さんに勧めます。

 では、患者さんにとって最善の医療とは何でしょうか。医療を受ける人がどういう生き方をしたいのかで違ってきます。これは主観的なものですから、医者の勧めたい医療と、患者さんの受けたい医療が食い違うこともあります。

 また患者さん本人が受けたい医療と、家族が受けさせたい医療とが食い違うことがあります。

 人々の生き方が多様化しているいま、どの道を選ぶべきであるということは、単に科学的なエビデンスでは測れないところがあります。とくに、医者はその人の身体を診ているだけで、その人の生活を知っているわけではありません。

 そういう意味で医療の選択は、難しくなっている面があります。

 それは、終末期を迎えた高齢者医療に対する考え方ではなおさらそうであって、「こうあるべき」とは決められないものです。人によって異なって当然です。

 さらに、科学がどんなに進歩しているといっても万能ではありません。科学の限界を知ったうえで、治療法を選択しなければなりません。科学に期待を寄せるのはいいですが、科学を過信して万能なように思ってしまうのは危険です。

 老化は治せないということです。人間が医療としてできることは、せいぜい部品の修繕程度のことなのです。老いることがないようにするとか、死なないようにするとか、自然のメカニズムに抵触するようなことはできないのです。

 それを人間の考える科学の力で、医学で、自然の摂理を征服しようなどとするところには根本的な誤りがあるのです。

 人間は部品修理で済む機械ではありません。

 現代の医療では人工血管、人工臓器、組織再生など部品修復技術が次々と開発されるようになっていますが、その修復をその人の人生のどの時点で行うか、その人の生き方を踏まえてどう適応するか、そこは十分に考慮されなければならないと思います。画一的に決められるべきではありません。

■死の淵に追い込まれた人に何ができたのか

 高校時代の同級生の一人が、脳腫瘍になりました。パソコンが思うように扱えなくなり「おかしい」と思ったのがきっかけで、相談を受けた私は、脳外科医を紹介しました。

 手術を受け、いったんは快方に向かうかと思われたのですが、その後再発し、自分の病気のことを正確に理解できないままに、不安と苦悩のうちに亡くなりました。七三歳でした。

 私は責任を感じました。苦悩していたであろう彼の最期を支えることができなかったことに、忸怩たる思いがありました。

 彼の追悼の会ということで、東京近辺に住んでいる者たちが集まりました。おのずと、これから迫りつつある老いについて、さらにその先にある死の恐怖について、話題になりました。

「おまえはその道のプロだろう」といろいろ質問されたのですが、私はそのとき、的確なことが答えられませんでした。

 それが心に引っかかり、数日考えてから、私にいろいろ聞いてきた一人にこんな手紙を書きました。

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 貴兄が死について深く考えておられることを知り、先日きちんとお話できなかったので、少し付け加えます。

 考えてみますと、私は長年外科医として、患者さんの病と対峙してきましたが、その際死の淵に追い込まれた方の気持ちをどれだけ支えることができたか、あらためて忸怩たる思いがあります。

 病気を治すことしか考えず、いのちを救えたのだから手術後の身体的な不都合が少々あってもよいだろうと、ある意味では大変思い上がったところがありました。

 私には患者さんは生きていればよい、生きていくうえに少々不自由があっても、生きているのだからよいではないかと、人の気持ちへの配慮が欠けていました。

 病と闘い、生き抜いてこられた方、今は高齢になられて特別養護老人ホームに来られた方をお世話してみますと、そこにあるのは厳しい老いの現実であります。

 そして自分自身も遠からず終焉を迎えるであろうと思うと、死を直視せざるをえません。

 私が携わってきた外科的治療というと、何か科学の最先端にあって、自然の流れを変える画期的手段のように思われがちですが、実際に病を治しているのは自然の仕組みであって、外科医のしていることは、身体の仕組みのある部分を少し変えているだけのことかもしれません。言うなれば部品修理です。

 すべてのことは自然の仕組みの中でのことであって、われわれはその中で右往左往しているに過ぎず、それこそ「仏の手の上で騒動していただけの孫悟空」と同じかもしれません。

 認知症の方と日々付き合っていますと、もはや独自の主観的世界にどっぷりと浸かるようになっておられる方は、ある意味で幸せなのです。よけいなことに悩み苦しまなくてもいいのですから。

 なまじ自分が置かれている現状を理解でき、客観的な判断力が残っている方は、やりきれないのではないかと思います。やりがいのない日々の中で、不自由になっていく自分の身体の惨めさに心を苛まれ、死にたくても死ねない、絶望の縁に佇んでおられるように思えてなりません。

 正直申してこれこそ生き地獄、元気になる可能性があるならよいでしょうが、人に胃ろうを造設して、無理矢理いのちを永らえさせるのは拷問としか思えません。

 ご家族にしてみれば、親が、妻が、夫が、どんな形でも一日でも長く生きていてほしいと思うのは人情だとは思います。しかし、誰の人生なのでしょうか。

 こうしてみてくると、人生の苦難を乗り越える道は、心のもち方でしかなく、それは自分で納得する生き方を通すことでしか得られないように思います。

 精いっぱい生きてきたという自負、結局のところ自分なりの開き直りでしかないというのが現時点での私の結論です。

 しかし、これは正直なところ願望であり、これからの残った人生の中で最期までこの気持ちを維持できるかどうか、いまの私にはまったく自信がありません。

 心の道は険しく、その幕の引き方のむずかしさ、大切さを痛感する日々です。

  平成二一年三月二六日

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 手紙を書いたのは、芦花ホームの医師になって三年目のときでした。

 私のこの手紙に対して、ほどなく彼から返事が来ました。

 彼は尊厳死協会に入会し、リビングウィルを認

 したためて娘さんに託したそうです。その上で書いてくれました。これからは患者の死生観を汲んで医療の意味を考える医者が求められる、と。

 あれから七年の歳月が過ぎました。

 今我々は同級生の訃報に次々触れる歳になりました。

 彼の書いたリビングウィルは、今でもしっかり娘さんのところにあるそうです。

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著者

石飛 幸三

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。 1935年広島県生まれ。61年慶應義塾大学医学部卒業。同大学外科学教室に入局後、ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院にて血管外科医として勤務する一方、慶應義塾大学医学部兼任講師として血管外傷を講義。東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年12月より現職。著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)、『「平穏死」という選択』『こうして死ねたら悔いはない』(ともに幻冬舎ルネッサンス)、『家族と迎える「平穏死」 「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』(廣済堂出版)などがある。

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