Facebook
Twitter
RSS
もっと文豪の死に様

第14回

三島由紀夫――不可思議の人(第1回)

2022.10.14更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
「目次」はこちら

三島由紀夫(みしま・ゆきお)
小説家・劇作家。大正14(1925)年、東京生まれ。昭和45(1971)年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で立てこもり事件を起こし、その場で切腹して自死。享年45。代表作に『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』『豊饒の海』など。

 今回は日本文学史上最大級のスターを取り上げることにした。
 誰あろう三島由紀夫である。
 キラッキラッした経歴の持ち主で、若いうちから才能を評価され、商業的な成功も収め、文壇の牽引役およびマスコミの寵児としてマルチに活躍した。さらに日本を飛び越えて、世界的な名声まで得た。こんな派手派手しい人はそうそういない。現代の作家で比肩しうるのは村上春樹氏ぐらいだろうか。しかし、村上氏には戦前上流階級臭はないので、やはり三島は肩を並べる者なしの、ユニークな人なのだ。
 だが、それだけではさすがに文学アイコンとして無双にはならなかっただろう。
 彼を没後50年以上経っても忘れられない作家に仕立て上げたのは、間違いなくその死に様である。
 1970年11月25日、昭和史に刻まれる騒動が勃発した。
 三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、自衛隊トップを人質にした上で自衛隊員にクーデターの決起を促したのだ。
 彼は、天皇を中心とする国家体制の復活を訴え、実力行使に出た。
 だが、企てはものの小一時間で頓挫し、三島は失意のうちに割腹自殺を遂げた。
 このセンセーショナルな死に様は、彼を記憶にも記録にも残る人間にした。
 最期については、事件勃発当時から現在まで一貫して毀誉褒貶著しく、かつ人々に変わらぬ好奇心と疑問を与え続けている。かく言う私も、若い頃から彼の死に様には一方ならぬ興味を持ち続けてきた。
 なぜかというと、どうにもこうにも理解しかねるからである。
 考えれば考えるほど、混乱するのだ。
 なんであんな犬死を? と。
 まあ、犬死なんて失礼な! と憤慨するファンもいようが、三島の死に様を「犬死」と表現した最初の人物は誰あろう三島自身である。もちろん、死後にいたこの口を通じて自らの死を評したわけではない。生前すでに「我が死はそうなる」と予測していたのだ。
 たとえ無駄であっても、行動せねばならぬ時がある。
 うん。
 まあ、いわゆるひとつの「美学」ではある。俗流美学だが。要するにちょっとヤクザ映画っぽい。
 少なくとも、ある時期までの三島は高踏的世界にいた。それがなぜチープといえばチープな美学にはまっちゃったんだろう。
 いや、晩年の行動を「チープ」と感じてしまうのは、私の感性および知識の問題かもしれない。そこには何か凡人には計り知れない高みがあるかもしれないじゃないか、などと考え、三島が変容していった時代の作品を中心に読んでみたのだが……。
 やっぱり理解できない。
 文章は理路整然としているし、表現も適切であり、現状分析は鋭く、通底する悲憤慷慨も十分首肯できる。
 ところが、だ。
 事が「日本の伝統」や「天皇」に至ると途端に感情的になり、理も屈もへったくれもなくなる。言葉を尽くしているのに、何も伝わってこない。
 端的に言うと「何言ってんだ、この人」で終わってしまうのである。
 右翼思想だからとか、アナクロニズムだからとか、そういう問題ではない。
 とにかく、それまで流暢な日本語を話していたくせに、突然ガーガーピーピー宇宙人語を喋りだした人を前にしたような気分に陥るのだ。
 同じように理解に苦しんでいるのは私だけではない。同時代から今に至るまで、様々な人が「よくわからない主張」と感じているし、「よくわからない三島の死」に対して解釈を加えようともがいてきた。おそらく、作品論ではなく、人物論がここまで多い作家は他にいないだろう。
 結局、みんな気になるのだ。
 なんであんな死に方をしたの? と。
 そこで、今回は、死に様とともに、「三島の死」がいかように語られたか、そして時代の経過によって評価の何が変わり、何が変わっていないのかというようなところを見ていきたい。
 新自由主義全盛の時代に、自覚的な犬死を遂げた人物を見直すのは意味あることだろう。
 そして、最終的には「なんであんな死に方をしたの?」について、私なりの結論を出したいと思っているのだが……。いきなりの弱音で申し訳ないが、これに関しては無理なんじゃないかなあってのが、正直なところだったりする。
 だって、本当にさっぱりわからないんですもの。

年表で見るミシマ

 さて、今回は珍しく、最初に年表形式で人生を見ておきたいと思う。彼のパーソナルヒストリーとともに、時代の節目となった事件を併記した。これで彼の「昭和の申し子」っぷりが一目瞭然になると思う。
 生まれこそギリギリ大正だが、大正は15年までなので必然的に三島の年齢は昭和の年数とイコールになる。よって、年齢の表記は省略した。

大正14(1925) 東京市四谷区永住町(現・新宿区四谷四丁目)にて出生
昭和6(1931) 4月 学習院初等科入学
  9月 満洲事変
昭和11(1936) 12月 二・二六事件
昭和12(1937) 4月 学習院中等科入学
  7月 盧溝橋事件発生、日中戦争勃発
昭和17(1942) 4月 学習院高等科文科乙類入学
  前年の真珠湾攻撃から始まった戦争を維持する翼賛体制が固まる
昭和19(1944) 4月 学習院高等科を主席で卒業、10月 東京帝国大学法学部法律学科入学。初の小説集『花ざかりの森』を出版
  7月 サイパン陥落、本土空襲が始まる
昭和20(1945) 2月 成人したので召集令状が届き入隊検査を受けるが乙種合格となり入隊せず
  8月 日本敗戦、米軍の占領下におかれ、財閥解体などが始まる
昭和21(1946) 川端康成と初面会を果たし、推薦を得て「煙草」で文壇デビュー
  5月 極東裁判始まる
11月 日本国憲法制定
昭和22(1947) 東京帝国大学卒業、高等文官試験行政科合格、12月大蔵省銀行局国民貯蓄科にて官僚生活スタート
  農地改革など占領軍による社会改造が本格化、第一次ベビーブーム始まる
昭和23(1948) 7月 三笠宮妃の父である高木正得元子爵が経済苦で自殺
  9月 文筆活動に専念するため大蔵省を退職
  全学連結成
昭和24(1949) 2月 俳優座創作劇研究会が戯曲「火宅」を上演、7月『仮面の告白』を出版し高く評価される
  東京や大阪など証券取引所が再開、経済活動が本格化し始める
湯川秀樹、ノーベル物理学賞を受賞
昭和25(1950) 6月 朝鮮戦争勃発、日本は戦争特需で景気が急上昇する
7月 京都・金閣寺が放火により消失
昭和26(1951) 12月 朝日新聞特別通信員として世界一周旅行に出る
  8月 日米安全保障条約調印
昭和27(1952) 4月 サンフランシスコ講和条約発行、日本の主権が回復
  5月 帰国
昭和28(1953) 新潮社より三島由紀夫作品集刊行開始
  奄美群島、日本に返還(沖縄返還は1972年)
昭和29(1954) 『潮騒』で第一回新潮社文学賞を受賞
昭和30(1955) 「白蟻の巣」で第二回岸田演劇賞を受賞
  ベトナム戦争勃発
昭和32(1957) 1月 『金閣寺』で第八回読売文学賞を受賞、11月 新潮社より三島由紀夫作品選集全19巻刊行開始
昭和33(1958) 6月 杉山瑤子と結婚、8月 『金閣寺』を大映が映画化、『仮面の告白』英訳が出版、10月 自ら演出を担当するバーレスク「不道徳教育講座」が上演
昭和34(1959) 1月 映画『不道徳教育講座』上映、この頃から剣道の稽古を始める、5月 長女誕生、松竹新喜劇「不道徳教育講座」上演
  第一次安保闘争勃発
昭和36(1960) 1月 「憂国」発表、3月 主演映画『からっ風野郎』公開、「宴のあと」裁判始まる
昭和37(1962) 1月 戯曲「十日の菊」で第十三回読売文学賞を受賞、3月『三島由紀夫戯曲全集』刊行、5月長男誕生
昭和38(1963) 3月 写真集『薔薇刑』(細江英公作品集)発売、11月 思想上のぶつかり合いから文学座を脱退
昭和39(1964) 2月 新潮社より『三島由紀夫短編全集』、7月 集英社より『三島由紀夫自選集』を出版。9月 「宴のあと」裁判で敗訴
昭和40(1965) 1月 「絹と明察」で第六回毎日芸術賞受賞、4月 「憂国」を自分主演で映画化、8月 『豊穣の海』第一部「春の雪」開始、10月 ノーベル文学賞候補になる
昭和41(1966) 1月 戯曲「サド侯爵夫人」が文部省第二十回芸術祭賞を受賞、6月 『英霊の聲』出版、「宴のあと」裁判和解成立
昭和42(1967) 2月 『豊穣の海』第二部「奔馬」開始、4月 自衛隊に体験入隊、10月再びノーベル文学賞候補に、12月 『三島由紀夫長篇全集Ⅰ』刊行
昭和43(1968) 2月 学生30名とともに自衛隊に体験入隊、その学生たちを率いて「楯の会」設立、3月 『三島由紀夫長篇全集Ⅱ』刊行、7月 『文化防衛論』刊行、8月 自衛隊体験入隊、9月 『豊穣の海』第三部「暁の寺」開始
  小笠原諸島、日本に返還
学生運動が激化していく
昭和44(1969) 4月 『文化防衛論』刊行、5月 東大駒場教養学部で全共闘学生討論集会に参加
昭和45(1970) 第二次安保闘争
  3月 講談社より『三島由紀夫文学論集』刊行、空手初段合格、7月 『豊穣の海』第四部「天人五衰」開始、11月 東武池袋東武百貨店で「三島由紀夫」展開催、11月25日 市ヶ谷自衛隊本部で切腹して自死
昭和46(1971) 1月 新潮社より『三島由紀夫十代作品集』刊行、東京築地本願寺で葬儀が挙行され8000人の一般参列者が参加、葬儀委員長は川端康成

 いかがだろう。
 大変立派な経歴である。
 血筋は確か、学歴も貴族学校と本邦最高学府。就職は天下の大蔵省。
 文句のつけようがない。
 しかも、だ。誰もが羨むキャリアを夢のためにポポンと捨てて文筆業に華麗に転身、一年も経たないうちに確かな評価を獲得、商業ベースにもばっちり乗ってベストセラー連発。毎年なにかしらの受賞や全集発売など作家としての大イベントが発生している。実に濃い人生だ。私の百回分はある。スターのスターたる所以だろう。
 ところで、三島由紀夫という名はペンネームである。戸籍名は平岡公威(きみたけ)。
 富士に降り積む純白の雪を遠望するような優婉な筆名と、戦国武将並みに勇ましい本名のギャップはいかにも象徴的である、といろんな人が言ったり書いたりしているが、私もやっぱりそう思う。
 本名の名付け親は父・梓だ。

 倅は大正十四年一月十四日の晩、四谷永住町の自宅で生まれました。
 公威という名前は僕の父の恩人で当時造船界の大御所であった先生のお名前を頂戴したものです。(平岡梓『倅・三島由紀夫』)

 父・梓は高級官僚で、三島誕生時には農商務省で事務官をしていた。
 江戸時代、平岡家は地主の百姓だった。よって身分は平民である。だが、明治に梓の父・定太郎(つまり三島の祖父)が県知事や樺太長官に就任するなど、官僚として大変な立身出世を果たしている。正三位勲三等を贈られ、実業界にも顔が効く人物だった。つまり、三島が生まれた頃の平岡家は裕福な上流下層、あるいは中流上層レベルの家だったのだ。
 そんな家の息子なので、もし本人が卒のない秀才タイプだったらエリート中のエリートコース・大蔵省主計局にでも入って、スーパー官僚になっていたかもしれない。ところがどうやら性格に少々癖のあるタイプだったらしく、高等文官試験をトップ合格したにもかかわらず、官僚としては傍流となる農商務省に配属されてしまった。なんでも、面接官に嫌われたとかなんとか。好感度の高いエピソードである。三島の芝居がかった大仰さや場を支配したがる癖は父譲りらしい。
 母・倭文重(しずえ)は江戸以来の漢学者一家のお嬢様で、三島の文学や芸術への才能を涵養した立役者だと言われている。自ら表に出るタイプではなかったが、教養も文才もあり、個性的というかめんどくさい人間が揃っている平岡家をサバイブしていくだけの胆力もあった。
 こんな環境だったら、公威ぼっちゃんもさぞ大事にされ、スクスクと育ったことだろうと思いきや、そうはならなかったのが運命というものなのだろうか。
 生まれてすぐ、ラスボス級のめんどくさい人が人生に立ちはだかったのだ。
 祖母・なつである。一般的に、三島の性癖を歪めてしまった戦犯と目されている人物だ。
 なつは常陸宍戸藩主・松平頼位の孫にあたる士族の娘だった。松平家といえば徳川に連なる江戸時代の名門なわけで、おかげでたいへんプライドが高く育った彼女は、百姓出の平岡家を軽んじ、一族内で浮きまくり、その反動か孫に異常な愛情を注ぐことになるわけだが、そのあたりは追々。
 いずれにせよ、父が息子の出生の語り始めに置いた一文からも、当時の平岡家の立ち位置や家風がうかがえる。
 子の名を名士から取った。それが価値として重きをなす家だった、ということである。
 名は親から子への最初の贈り物などと言われるが、それゆえ親の人となりや家庭環境が透けて見える。ちなみに引用部分の次の文章では三島の弟や自身の名前も名士からもらったんだよ、と自慢気に続けている。こう言ってはなんだが、いささか官僚的俗臭が鼻につく。だが、それを隠そうともしない天衣無縫に、淳良な人柄が感じられる。私はこのお父さんがなんだかとっても好きだ。
 とにかく、三島は良家の子として生まれた。
 幼少時代は金のレールの上に乗せられた。
 長じては敷かれたレールから外れ、自ら野を開墾して道を拓くことを選ぶが、その野は決して荒野ではなかった。本人に十分な才があったのは間違いないが、最初から良き先達がいたし、道も悪路ではなかった。人より手掛かり足掛かりに恵まれていたことは否定できない事実だろう。
 それでも、四半世紀ほどの作家人生で膨大な数の作品を遺したのは、やはり凡人でない証拠だ。しかも、演出家や俳優として仕事をし、いわゆるタレント作家のはしりにもなっている。よほどバイタリティあふれる超人だったのだろうとしか思えないが、少なくとも成人するまでは病弱で線の細い子供だった。20代もほっそりとした文学青年として過ごした。晩年のようなマッチョになるのは、30代半ばからのことである。
 というわけで、次回はひ弱な公威ちゃんが、三島由紀夫というペルソナを得て、“近代ゴリラ”になっていく過程を見ていきたい。

「目次」はこちら

シェア

Share

感想を書く感想を書く

※コメントは承認制となっておりますので、反映されるまでに時間がかかります。

矢印