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もっと文豪の死に様

第15回

三島由紀夫――「暗い一生の運命は決まってしまった」(第2回)

2023.04.21更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 まずは前回の更新から随分時間が経ってしまったことをお詫びしたい。
 この間数ヶ月、何をやっていたかというと、ほとんどの時間を「太陽と鉄」の再読に費やしていた。
 「太陽と鉄」は昭和40年(1965)11月から昭和43年6月まで『批評』誌で連載された三島のエッセイ――というか、決意表明のような文章だ。自分がなぜ“なよやかな文弱”から“アナクロ近代ゴリラ”に軸足を移していったか、言を尽くして説明している。これを何度も何度も、しつこいほど読み返していたのだ。
 実は、連載を開始した当初、ある程度「三島の死」について、自分なりの結論は出ていた、はずだった。よって勇躍書き始めたわけだけれど、自分の中に“結論”に対して異議を唱える声がずっとあったのだ。とはいえ、最初は無視できる程度だった。しかし日ごと大きくなり、次の更新日を前にする頃には結構なノイジー・パーティに育っていたのである。
 このまま進めたら碌なことにならない。自分の中の違和感を無視した文章は、十中八九失敗する。小さな声を聴かないと大きなところで大失敗してしまうのが世の常。お上なら聴く聴く詐欺がまかり通るが、パーソナルなところで自分に詐欺を働いたって意味がない。そんなわけで白紙に戻し、一から考えなおすことにした。
「太陽と鉄」をわかるまで読む。わからないなら、わかるまで読む。三島のような天才ならともかく、凡才にはこの手しかなかった。この文章に三島の最期を理解するためのエッセンスが詰まっているのは、ちょっと目を通しただけでもわかる。ただし、言いたいことがわかりやすく書かれているわけではない。あなた、完全に読者を選ぶつもりで書いたでしょこれ、ってやつだ。いや、選ぶつもり、は違うかな。「エースをねらえ」でお蝶夫人がひろみに「きなさい 死にものぐるいで」と告げたように、三島も読者に「俺を知りたければきなさい、死にものぐるいで」と差し出したテキストなのだと思う。
 孤高扱いされる三島だが、本当は誰よりも共感者や理解者を求めた人だったように感じられてならない。彼は決して他者を無視してわが道を行く人ではなかった。彼が求めたのは、マジョリティの中心で群衆に囲まれながら優れた存在と認められることではなかったのか。
 こう書くとなんだか俗っぽいが、三島には高踏的なところと俗なところ、どちらもある。そうでなければ国民的作家にはなれない。
 少なくとも彼は孤独が嫌い、いやむしろ孤独が致死性の毒になるタイプだったのだろう。それは三島が己を「パーフェクト・マン」に仕立て上げようとする過程で最大の障害になった。

生まれながらのマイノリティ

 では、なぜそのような気質になったのか。
 これはやはり、生育環境に起因するのだろう。気質は持って生まれた部分と生育環境による部分と両方あるが、彼の場合は後者が強いように思われる。
 幼少期の三島が跡取り息子を溺愛した祖母・なつによってほぼ隔離状態で育てられた、というのはよく知られた事実だ。本人が自伝的小説『仮面の告白』に書いているし、その記述が文学的誇張ばかりでもないのは父の著書『倅・三島由紀夫』で確認できる。

 父母は二階に住んでいた。二階で赤ん坊を育てるのは危険だという口実の下に、生れて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた。(『仮面の告白』より)

……私たちは二階の方に住んでおりましたが、母は公威を自分の枕元よりはなさず、常に懐中時計を持っておりまして、四時間ごとに正確にベルを二階に鳴らして参りました。公威の授乳は四時間おきでなければならず、またその飲む間の時間もきめてあったのです。私はその時刻が近づいてきますと、もうオッパイが張って来てとても苦しくなり、公威はさぞやお腹が空いているだろうと、この時は公威を抱いて思う存分飲ませてやりたい気持でいくどか泣いたことがありました。公威の方も一刻も早く私のふところへと同じ思いでしたろう。かくて生まれ落ちるとすぐに産みの親の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命は決まってしまったと思いました。(『倅・三島由紀夫』より)

 淡々とした本人の記述に比べ、親の著書での述懐が多分にウェットなのは、この部分の語り手が父でなく母だからだ。生んだばかりの我が子を奪い取られて恨みに思わない母はいないし、ひとつ屋根の下で暮らしている我が子と自由に会えないのはどう考えても異常だ。それでなくても産後の精神的に不安定な時期、母が涙に暮れたのもむべなるかな、である。
 だが、「これで公威の暗い一生の運命は決まってしまった」はさすがに言い過ぎ、という気がしないでもない。あの最期を経た結果、母として我が子の運命を後づけ解釈した可能性は十分にあるだろう。
 けれども、もし出産当時の彼女が本当に「これで公威の暗い一生の運命は決まってしまった」と考えたのだとしたら、三島は母からも人生への呪いをかけられたことになる。不安定な精神状態からの発想だとしても、我が子の未来を「暗い」と定めてしまう母の思いが子に影響しないわけがない。もちろん、母の溢れんばかりの愛は真実だし、我が子の幸福を誰よりも望むのも母だ。だが、母の愛も無垢不浄ではない。時としてエゴに満ちている。
 祖母の異常な独占欲と母の絶望からの呪い。
 重すぎる。
 一方、三島の書いた「生れて四十九日目に母と別れた」というのが正しい記述なのかも微妙だ。私は、この「四十九日目」という日数に関しては小説的脚色だったのではないかと思う。日本人なら「四十九日」と聞けば誰もが忌明けを思い浮かべるからだ。
 仏教における四十九日は遺族には忌中最終日だが、死者にとっては転生先が決まる“最後の審判”の日である。生前の行いによって、六道――地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上のどこに生まれ変わるのか、閻魔から申し渡される。
 三島はこの日づけを使うことで、自分が生後すぐまっとうな人界から放逐された、と言いたかったのではないか。がっつり管見の私の目には届いていないだけで、たぶんこんな指摘はこれまでいくらでもされてきているのだろう。
 母親から引き離され、乳も満足に飲ませてもらえない乳飲み子。通常生後100日ぐらいまでは2~3時間おきに、飲みたがるだけ与えた方がいいとされるのだから、4時間置きでは到底足りない。腹が空いても食べ物が来るのを待つしかない。まるっきり餓鬼だ。自分を巡って争う嫁と姑は修羅だろう。そして絶えず痛みを訴える老女は地獄の住人そのものだ。こんな環境で育つ子供がいったい幾人いることか。この時点で、三島はマイノリティの道を歩むことが決定づけられたようなものだった。

 つらつら自分の幼時を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は言うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた。(「太陽と鉄」より)

過敏の子

 結局、三島が人間界――父母の元に帰れたのは12歳、中学生になってからだった。これで心身に影響がなかったら嘘である。
 癇性な祖母の病室で、選ばれた女の子と静かに遊ぶことしか許されなかった幼子・公威は、病弱で、年齢不相応に物静かな、聞き分けの良い、感情を抑える術を知る子供になった。
 子供は環境に順応する。だが、ストレスを感じないわけではない。
 三島の場合、ストレス反応は身体症状と感情抑制として現れた。

……公威は五歳のときのお正月に、はじめて自家中毒という病気にかかり、もう駄目だという危篤の状態になりました。親戚も多数集まりました。私はお棺に入れてやる着物や玩具を持って来てソッと裾のところに取揃えました。(『倅・三島由紀夫』より)

 母が我が子の生を諦めるほどの病状だったが、なんとか回復した。しかし、全復ではなかった。

 その病気――自家中毒――は私の痼疾になった。月に一回、あるいは軽いあるいは重いそれが私を訪れた。何度となく危機が見舞った。私に向かって近づいてくる病気の跫音で、それが死と近しい病気であるか、それとも死と疎遠な病気であるかを、私の意識は聴きわけるようになった。(『仮面の告白』より)

 自家中毒は幼児から10歳ぐらいまでの児童に見られる病気で、自律神経の失調により頭痛や腹痛、食欲不振などが出て、時には激しく嘔吐を繰り返す。重症だと5歳の三島のように命の危機にもつながる。
 はっきりした病因はわかっていないが、発症トリガーの一つはストレスと見られている。三島の場合は間違いなくこれだろう。ちょっとしたことですぐヒステリーを起こす年寄りと二人、小さな部屋に閉じ込められて、物音ひとつたてられぬ静穏を強いられる生活なんて大人でも無理だ。まして、幼子に多大なストレスを与えないはずがない。けれども大人と違って、抗う方法を知らない以上、順応するしか生きる術はなかった。その結果、鋭敏な神経が対人面で特に研ぎ澄まされ、人の顔色を読む子になっていた。

 僕は倅が母のひざもとで、女の子のように育っていくのがとてもたえられず、何度母と喧嘩をして倅を無理やり外に連れ出したか判りませんが、ある日、新宿に連れて行きましたとき、ちょうど蒸気機関車が通るのを見て、さっそくそばに行きました。(中略)僕は、しめたぞ、恐れず動ぜずのスパルタ教育絶好のチャンスだとばかり倅を抱き上あげ、ソフトで顔面をかばってやりながら機関車に近づき、「こわいか、大丈夫だよ、泣いたら弱虫でドブに捨ててしまうよ」と言いながら、倅の顔色をうかがいました。ところが案に相違して、全然反応がない。(『倅・三島由紀夫』より)

 スパルタ教育と称して、わざと恐ろしい目にあわせる。いかにも未熟な父親のやりそうなことだ。泣くか笑うか、どちらかで我が子の性根を図るつもりだったのだろうが、結果は「無表情」だった。何度やっても同じだったという。
 父はそうなる理由がまったく理解できなかったようだが、想像に難くはない。三島は自分を守るため、無反応を身に着けていたのだ。癇癪を起こして喚いたり泣き叫んだりできない(その役割は祖母が独占していた)環境で、大人並みに感情を殺すことができる子供になっていた。
 おそらく、恐怖は感じていただろう。そうでなければ、父の気持ちを慮ってキャッキャと笑うなりベソをかくなりしていたに違いない。けれど、この時は恐ろしさのあまり父への忖度はふっとび、かといって習い性で泣くこともできず、結果として無表情になった。精神的に強かったからではない。むしろむき出しの神経を守るためにそうせざるを得なかっただけだ。
 “大人しく聡明な坊っちゃん”は生来の気質ばかりではなく、盆栽のように最初からその方向に矯められたがゆえの結果だった。
 子供らしくない坊っちゃんは、鋭敏な神経と大人びた観察眼と病弱な体を引っ提げて小学校に入学。勉強はよくできるが、目立たないいじめられっ子というポジションにおさまった。やがて思春期に文学という花園を発見し、そこで生きることを夢見ながらも、軍国少年として漠然とした死の予兆を抱えたまま敗戦の荒野を見ることになった。
 こんな前半生が、成人後の三島に見られる演劇的性格を生んだ。そして、あの最期を選ばせた遠因になった。次回はその過程をもう少しくわしく見ていきたい。

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