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それはきっと必要ない 曇った思考がクリアになる”絞り込む”技術 印南敦

第39回

幸せアピールは必要ない

2018.08.08更新

読了時間

めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。
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SNSがライフスタイルに浸透してから、もうずいぶん時間が経ちます。現実問題として賛否両論あるようですが、個人的にはそれらを否定する気はありません。

それどころか、僕なりに活用しまくってますしね。

具体的にいえば、自分が書いた記事がウェブにアップされたら、Facebook、Twitter、LINEでそのことを告知しています(もちろんリンクを貼って)。

近所の「やしろ食堂」というお店の日替わり定食の手書き看板がおもしろいので、なるべく毎日、それを写真に撮ってFacebook、Twitter、LINEに載せています(生産性皆無の習慣)。

さすがに食堂の看板は不向きでしょうが、ちょっといい写真(インスタ映えする写真)が撮れたら、Instagramにも投稿しています。

そんな程度ではあるのですが、それでもたまに「そういうものかぁ、なるほどなぁ」と思うことがあります。

早い話が、おもに告知とお笑いネタ程度にしか使っていないにもかかわらず、ときどき「充実してますねー」とか、「おしゃれな生活してますねー」みたいなことを言われたりするんですよ。それがおもしろいなあと。

ただそれ、絶対に勘違いだから。

「やしろ食堂」の日替わり看板撮って喜んでる男が、どうしておしゃれなのかって話。

ただ、そうはいいつつ、わかる気もするのです。「イメージ」って、おそらくそういうものだからです。

隣の芝生が青く見えるのと同じで、SNSというメディアに載った画像って、どことなくおしゃれに見えたりするものだということ(しつこいようだが、「やしろ食堂」の日替わり看板を除く)。

たとえば僕はInstagramに、玄関に飾ってある植物の写真を投稿することがあります。で、そういうものをアップすると、優雅な生活をしているように見えるらしいんですよね。

妻が生けたものを勝手に写しているだけの話で、たしかに妻のセンスは僕も認めているのですけれど、少なくともそれは僕の「おしゃれな生活」を映し出したものではないわけです。

でも、SNSというメディアを通過した時点で、実際の生活には美しいフィルターがかかってしまうものだということ。

そう考えると、「インスタ映え」に躍起になっている人たちの気持ちもわからないではありません。きれいな写真が撮れればうれしいし、SNSで発信して多くの人に見てもらいたいという思いも理解はできるから。

もちろんそれは、僕自身についても言えるはずです。「目立ちたい!」みたいなことを過度に意識することこそないけれど、それでも「この写真を見てほしい」みたいな思いは多少あるから。だからこそ、投稿するのです。

程度の差こそあれ、人間誰しも自己顕示欲は持っていますからね。ただ、その一方、物事はときに「行き過ぎてしまう」こともあります。

SNSへの投稿の原点は、「自分の好きなものやかわいいものを、自分の好きな人たちに伝えたい」ということだと思います。もちろん、いまもそれは変わっていないでしょう。

が、次第にそれがエスカレートしていき、「インスタ映えのいいもの」や「幸せそうに見える日常」をアピールすることが「目的化」してしまっているという現実もあるのではないかと感じるのです。

たとえば少し前、食べかけのまま捨てられたソフトクリームがたくさん捨てられているゴミ箱の写真がネット上で公開されて問題になりました。

「かわいいソフトクリーム」をSNSにアップするためだけに買った人たちが、撮影後にはそれを捨ててしまっていたということ。端的にいえばそのソフトクリームは、「おしゃれな日常」を演出するためのツールとして消費されたわけです。

それは極端な例ではありますが、しかし「幸せアピール」がエスカレートすると、当然そういうことになるだろうなとも思います。

でも「幸せアピール」というものは、それが目的化すればするほど、どんどんリアルな日常からかけ離れていくのではないでしょうか?

「けどさー、別に人に迷惑かけけるわけじゃないんだからいーじゃん」という意見が聞こえてきそうで、たしかにそれはおっしゃるとおり。こちらとしては、反論の余地もありません。

とはいえ本音を言ってしまえば、非常にお節介なことではあるのですけれど、「そんな日常を、ときどき空しく感じたりはしませんか?」と聞いてみたくもなってしまうのです。

繰り返しになりますが、僕は決して「自分の好きなものやかわいいものを、自分の好きな人たちに伝えたい」という気持ちや行為そのものを否定したいわけではありません。

本当にそれは楽しいことなのでしょうし、とてもわかります。僕だって、「やしろ食堂」の日替わり看板をアップするのが楽しいし(一緒にするなと言われそうですが)。

ただし、「自分の好きなものやかわいいものを、自分の好きな人たちに伝えたい」という思いは、自分でも気づかないうちに「こんなに素敵な日常を過ごしているんだということをアピールしたい」という方向に歪んでしまいがちでもあると思うのです。

それがエスカレートしていくとピントがズレていっても不思議はなく、その一例が「食べ残したソフトクリーム」。

それは虚しいことではありませんか?
ときどき、ふと我に返ったとき、寂しい気分になったりはしませんか?

まったく余計なお世話ですが、それでも僕はそう思えてならないのです。
SNSへのアップがエスカレートしすぎると、どんどん「リアルな自分」からかけ離れていくような気がするから。

「リアルな自分」からかけ離れていくと、やがて「自分とは違う自分」がひとり歩きをしはじめ、「本当の自分」は置いていかれることになります。だから、虚しさや寂しさを感じることになるわけです。

でも、それって本末転倒じゃないでしょうか?

「そんなこと言っても、テレビだって必ずしも真実を映し出してるわけじゃないじゃん」という意見もあるでしょう。たしかにそのとおりで、テレビ(特に民放)には態度を改めてほしいと僕も思います。

しかし、それとこれとは話が別でもあります。よくも悪くもテレビはビジネスですが、SNSでの「幸せアピール」は、自分の日常のなかにあるものだからです。

自分の日常のなかにあるものである以上、本来の目的は、自分や自分の友だちが楽しくなったり、幸せな気分になったりすることであるはずです。でも、その行為がエスカレートし、「日常」が「虚構」に近づいていけばいくほど、本来の「楽しさ」から遠ざかっていくはずです。

誰だってみんな、幸せがいいに決まっています。でも、「幸せアピール」は、放っておくと本当の幸せを置き去りにしていくのではないでしょうか?

どうも、そんな気がしてならないのです。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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