第1回
體道第一
2018.12.04更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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體道第一
1 本当の道は固定したものではない
【現代語訳】
これが本当の道であると人に示す道というのは、絶対不変の固定した道(常の道)ではない。これが本当の名であると人に示す名は、絶対不変の固定した名(不変の名)ではない。
天地が生成され始めるとき名はまだない。そして万物が現れ、名が有るようになる。それが万物の母である。
だから、人はいつも無欲であれば、その道の微妙な奥深い様子がわかり、いつも欲でいっぱいだと、ただ万物の活動する結果だけが見えるにすぎない。
この二つのもの(無と有)は、もともと同じであるが、名がある世界では違った名で呼ばれている。そのもともと同じ根源のところを玄(奥深い微妙なはたらき)と名づけ、さらに深淵の深淵のところを「衆妙の門」(あらゆる微妙なものの始源)という。
【読み下し文】
道(みち)の道(みち)とすべきは、常(つね)の道(みち)に非(あら)ず(※)。名(な)(※)の名(な)とすべきは、常(つね)の名(な)に非(あら)ず。
名(な)無(な)きは天地(てんち)の始(はじ)め、名(な)有(あ)るは万物(ばんぶつ)の母(はは)なり。故(ゆえ)に常(つね)に無(む)欲(よく)にして以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み)、常(つね)に有欲(ゆうよく)にして以(もっ)て其(そ)の徼(きょう)(※)を観(み)る。
此(こ)の両者(りょうしゃ)は、同(おな)じきに出(い)でて而(しか)も名(な)を異(こと)にす。同(おな)じきをこれを玄(げん)(※)と謂(い)い、玄(げん)の又(ま)た玄(げん)は衆妙(しゅうみょう)の門(もん)なり。
- (※)道の道とすべきは、常の道に非ず……最初の道は、いわゆる道理としての「道」である。次の「道」についてはこれを動詞の「道(い)う」とする説もあるが、前の道と同じに解したい(通説)。「常の道に非ず」というのは、孔子を教祖とするいわゆる儒家の批判である。老子は後でも述べるように孔子より後世の人だと思われる。その老子の考える道は、孔子たちがこれが正しい道と名づけて目指した仁などの道とは違い、名づけることのできない宇宙の根源を指している。なお、體道第一が「道」で始まるので以下爲政第三十七までの上篇を「道経(どうきょう)」、論德第三十八以下の下篇を「徳経(とくきょう)」と称するのが一般となっている。また、一九七三年に湖南省長沙市馬王堆(ばおうたい)で発見された帛書(はくしょ)(布に書かれた老子の書物。以下、『帛書』と呼ぶ)では、上篇と下篇との順序が入れ替わっている。
- (※)名……名とは名称。言語、概念を意味する。名や言葉をとても重要とするのが孔子ではあるが(たとえば子路第十三参照)、老子においては、名とか言葉は宇宙の根源、すなわち「道」の後に生まれる実体に名づけられ、使われる第二義的なものである。あくまでも「道」を重視し、名や言葉に対する不信は、これも儒家の批判ととれる。
- (※)徼……帰結や端の意味。ここでは万物の活動の結果をいう。
- (※)玄……もともと色を染め重ねてできた赤黒い色のこと。ここから「奥深い微妙なはたらき」を意味するようになった。
【原文】
體道第一
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名、天地之始。有名、萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
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