第104回
85〜87話
2020.05.29更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、菜根譚の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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85 悟りの境地への至り方
【現代語訳】
人の心には、真実の境地(悟りの境地)というものがある。この境地に至れば、琴や笛などの楽器によらなくても心が安らかになり、香やお茶がなくても清らかな良い気分になれる。この境地に至るには、心から雑念を払って清らかにし、物や地位にとらわれることをなくし、自分の肉体さえもその存在を忘れるくらいにならなければならない。そうすることで初めてこの境地に入って、自由に遊び楽しむことができるようになる。
【読み下し文】
人心(じんしん)に個(こ)の真境(しんきょう)(※) 有(あ)り、糸(いと)に非(あら)ず竹(たけ)に非(あら)ず(※)して、自(おの)ずから恬愉(てんゆ)(※)し、煙(えん)ならず茗(めい)ならずして、自(おの)ずから清芬(せいふん)(※)あり。須(すべか)らく念浄(ねんきよ)く境(きょう)空(むな)しくして、慮(りょ)忘(わす)れ形(かたち)釈(と)く(※)べし。纔(わず)かに以(もっ)て其(そ)の中(なか)に游衍(ゆうえん)(※)するを得(え)ん。
(※)真境……真実の境地。悟りの境地。
(※)糸に非ず竹に非ず……琴や笛などの楽器によらなくても。
「糸」は琴、「竹」は笛。
(※)恬愉……心が安らかになる。
(※)清芬……清らかな良い気分。清らかなにおい。
(※)形釈く……肉体の存在を忘れる。悟りの境地にまで至らないまでも、理想の隠士生活については、本書の後集134条参照。
(※)游衍……自由に遊び楽しむ。
【原文】
人心有個眞境、非絲非竹、而自恬愉、不𤇆不茗、而自淸芬。須念淨境空、慮忘形釋、纔得以游衍其中。
86 現実の世界のなかから真実は見出される
【現代語訳】
金は鉱石を製錬することで取り出される。玉も原石を磨き加工することによって得られる。この世の真実も幻のような現実の生活によらないと求められない。酒を飲みながら道を悟ることもあるし、花見をするなかで理想のような仙郷に出会うこともある。こうした雅やかなことも、世俗の現実世界から離れることはできないのである。
【読み下し文】
金(きん)は鉱(こう)より出(い)で、玉(ぎょく)は石(いし)より生(しょう)ず。幻(げん)に非(あら)ざれば、以(もっ)て真(しん)を求(もと)むること無(な)し。道(みち)を酒中(しゅちゅう)に得(え)(※)、仙(せん)に花裡(かり)に遇(あ)う(※)。雅(が)なりと雖(いえど)も、俗(ぞく)を離(はな)るること能(あた)わず。
(※)道を酒中に得……酒を飲みながら道を悟る。いわゆる竹林の七賢人のことを念頭に置いていると見られる。竹林の七賢人とは西晋時代に、世を避けて竹林に会し清談することを楽しんだ隠士たち七人をいう。七賢人については、本書の後集134条参照。隠士たちの思想は『老子』の影響が強かったとされる。
(※)仙に花裡に遇う……陶淵明(とうえんめい)の『桃花(とうか)源記(げんき)』を指していると解される。陶淵明は東晋の詩人で陶潜(せん)とも呼ばれる。ある意味、洪自誠の生き方の先輩のような人生を送った元役人で田舎に隠棲した詩人である。
【原文】
金自鑛出、玉從石生。非幻、無以求眞。衜得酒中、仙遇芲裡。雖雅、不能離俗。
87 万物は一体である
【現代語訳】
天地のなかのあらゆるもの、人間関係におけるすべての感情、世間で起きるすべての出来事は、普通の私たちの世俗的な目で見れば、いろいろと入り乱れながらも、それぞれ異なって見える。しかし、万物を一体とする道眼から見てみると、すべてのものは常にあるもので、永遠に変わるものではない。だから、どうして分けて考えたり、取捨選択する必要があろうか。
【読み下し文】
天地(てんち)中(ちゅう)の万物(ばんぶつ)、人倫(じんりん)中(ちゅう)の万情(ばんじょう)、世界中(せかいじゅう)の万事(ばんじ)は、俗眼(ぞくがん)(※)を以(もっ)て観(み)れば、紛紛(ふんぷん)として各〻(おのおの)異(こと)なるも、道眼(どうがん)(※)を以(もっ)て観(み)れば、種種(しゅしゅ)是(こ)れ常(じょう)なり。何(なん)ぞ分別(ぶんべつ)煩(わずら)わさん、何(なん)ぞ取捨(しゅしゃ)を用(もち)いん。
(※)俗眼……世俗的な目。見方。万物を一体とせず相対的に見る目。
(※)道眼……万物を一体と見る目。後集85条にあった「悟りの境地」に達した者の目とする見解が多いようである。私は本文の文章全体からは、仏教的な解釈よりも『老子』や『荘子』、すなわち著者たる洪自誠の老荘思想的なところが、色濃く出ているように思う。「天地中の万物」や「道眼」という言葉がそれを示唆している。なお、『荘子』の「万物斉同説」も本項の立場に近い。『老子』は、「道(みち)は一(いつ)を生(しょう)じ、一(いつ)は二(に)を生(しょう)じ、二(に)は三(さん)を生(しょう)じ、三(さん)は万物(ばんぶつ)を生(しょう)ず」(道化第四十二)、そして「天下(てんか)に始(はじ)め有(あ)り、以(もっ)て天下(てんか)の母(はは)と為(な)す。既(すで)に其(そ)の母(はは)を得(え)て、以(もっ)て其(そ)の子(こ)を知(し)る」(歸元第五十二)などと述べる。後者を現代訳すると「天下の万物にはそれを生み出した根源たる始めがあり、それが天下の母である。その母、つまり『道』を把握したなら、その子たる『万物』のことわかる」となる(拙著『全文完全対照版 老子コンプリート』参照)。また、「万物」ついては、本書の前集128条も参照。
【原文】
天地中萬物、人倫中萬情、世界中萬事、以俗眼觀、紛紛各異、以衜眼觀、種種是常。何煩分別。何用取捨。
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