第76回
後集1〜3話
2020.04.15更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、菜根譚の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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後集
1 田舎暮らしを自慢するのは、まだ俗気があるからだ
【現代語訳】
都会の生活を離れて田舎暮らしを始めた者が、ことさらに田舎暮らしの楽しみを口にするのは、まだ田舎暮らしの本当の良さをわかっていないのである。また、ことさら名誉や利益の話を嫌い、そのことを口にするのは、まだそのことを忘れられないからだ。
【読み下し文】
山林(さんりん)の楽(たの)しみ(※)を談(だん)ずる者(もの)は、未(いま)だ必(かなら)ずしも真(しん)には山林(さんりん)の趣(おもむき)を得(え)ず。名利(めいり)の談(だん)(※)を厭(いと)う者(もの)は、未(いま)だ必(かなら)ずしも尽(ことごと)くは名利(めいり)の情(じょう)を忘(わす)れず。
(※)山林の楽しみ……仕事を引退などして都会の生活を離れ、田舎暮らしを楽しむこと。
(※)名利の談……名誉や利益についての欲話、または批判の話。
【原文】
談山林之樂者、未必眞得山林之趣。厭名利之談者、未必盡忘名利之情。
2 多彩な能力を誇るよりも、無能でも自分の本性を失わない
【現代語訳】
魚釣りは風流で楽しい趣味である。しかし、よく考えてみると、そこには生殺与奪の権力が隠れている。囲碁は知的で上品な趣味である。これもよく考えてみると、戦う心を楽しんでいるところがある。こうしてみると、一番清くかつ心も喜ぶことは何かをやることより、やることを減らし楽な気分でいることではないか。多くの自分の能力を誇ることより、自分は何の能力も持っていないけれども、自分の本性を失わないほうが良い。
【読み下し文】
水(みず)に釣(つ)るは逸事(いつじ)(※)なり。なお生殺(せいさつ)の柄(へい)(※)を持(も)つ。奕棋(えきき)(※)は清戯(せいぎ)(※)なり。且(か)つ戦争(せんそう)の心(こころ)を動(うご)かす。見(み)るべし。事(こと)を喜(この)むは事(こと)を省(はぶ)くの適(てき)と為(な)す(※)に如(し)かず、多能(たのう)は無能(むのう)の真(しん)を全(まった)くする(※)に若(し)かざるを。
(※)逸事……浮世離れした。風流な楽しみ。
(※)生殺の柄……生かすも殺すもできる権力。
(※)奕棋……囲碁。
(※)清戯……上品な趣味。上品な遊戯。
(※)適と為す……楽な気分。心にかなっている。なお、福沢諭吉や大村益次郎を生んだ緒方洪庵の適々斎塾はよく知られている。
(※)無能の真を全くする……何の能力も持っていないけれども、自分の本性を失わないようにする。『老子』には「学(がく)を為(な)せば日(ひ)に益(ま)し、道(みち)を為(な)せば日(ひ)に損(そん)す。之(これ)を損(そん)し又(また)損(そん)し、以(もっ)て無為(むい)に至(いた)る。無為(むい)にして而(しか)も為(な)さざる無(な)し」(忘知第四十八)とあり、本項の参考になる思想である。なお、本項の解釈は、本書の後集20条および31条参照。多能であることが良いとはいえないとする次の孔子の言葉がある。「吾(われ)少(わか)くして賤(いや)し。故(ゆえ)に鄙事(ひじ)に多能(たのう)なり。君子(くんし)は多(おお)からんや。多(おお)からざるなり」(『論語』子罕第九)。これは、ある人が孔子は聖人だから多能なのかと弟子の子貢に尋ねたのを聞いた孔子が言ったものである。孔子は幼いころから若いころまでずっと貧乏で、下積みの生活をしていたから多能なのであって、君子は多能でなくていいことを述べている。どちらかというと、多能でないほうが人間の本性に合うと思っているふしがある。とすると本項と考えが似ていることになる。これに対し、福沢諭吉は『学問のすゝめ』のなかで多能をすすめている。ただ、『菜根譚』が言いたいのは、多能でもいいが(多能でなくてもいい)、それは自慢したり、見せびらかしたりするのではないということである。そして、素の自分を見つめ、自分の本性を見出し、尊重し、無理することなく、人生を楽しめばいいと言いたいのである。本項の考え方については、本書の後集118条も参照。
【原文】
釣水逸事也。尙持生殺之柄。奕棋淸戲也。且動戰爭之心。可見。喜事不如省事之爲適、多能不若無能之全眞。
3 人生は見かけで判断してはいけない
【現代語訳】
うぐいすが鳴き、花が咲き乱れ、山も谷もあでやかで美しいのが春の姿である。しかし、この姿は天地のまぼろしの美しさであり、真実の姿ではない。晩秋になれば谷川の水はなくなり、山の木々の葉も落ち、石や崖もむき出して枯れた姿になる。こうしてやっと天地の本当の姿が見えてくるのだ。
【読み下し文】
鶯花(おうか)(※)茂(しげ)くして山(やま)濃(こま)やかに谷(たに)艶(えん)なるは、総(すべ)て是(こ)れ乾坤(けんこん)の幻境(げんきょう)(※)なり。水木(すいぼく)落(お)ちて石瘦(いしや)せ崕(がけ)枯(か)れて、纔(わず)かに天地(てんち)の真吾(しんご)(※)を見(み)る。
(※)鶯花……うぐいすが鳴き、花が咲き乱れる。
(※)乾坤の幻境……天地のまぼろしの姿。
(※)真吾……本当の我が姿。本項は、人の人生も見かけでは本当のことがわからない。見かけが良いようでも真実は違うかもしれない、ということを示唆しているものと解される。また別のある説は、人は老境に至って初めて真実の自分がわかるものだ、とする(確かに定年になって退職した後のことを考えると、そうかもしれない)。
【原文】
鶯芲茂而山濃谷艷、總是乾坤之幻境。水木落而石瘦崕枯、纔見天地之眞吾。
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