第87回
34〜36話
2020.05.01更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、菜根譚の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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34 質素、素朴でありながらも干からびず潤いのある暮らしが良い
【現代語訳】
落ちついてゆったりとした趣は、味の濃い美酒を飲むような贅沢な暮らしのなかからは得られない。むしろ豆のかゆをすすり、水を飲むような質素、素朴な暮らしのなかから得られる。また、四季の移り変わりを感じる心は、干からびてしまった寂しさだけの暮らしからは生まれない。笛の音色を調べたり、琴の糸を調節したりするような、ありふれて素朴かもしれないが、うるおいのある暮らしから生まれる。こうしたことから、濃厚な味わいは常にすぐ飽きるものであり、淡ぱくで素朴な味わいのほうが、本物であることがわかる。
【読み下し文】
悠長((ゆうちょう))の趣(おもむき)は醲釅(のうげん)(※)に得(え)ずして、菽(まめ)(※)を啜(すす)り水(みず)を飲(の)むに得(う)。惆悵(ちゅうちょう)の懐(おも)い(※)は、枯寂(こじゃく)に生(しょう)ぜずして、竹(たけ)を品(ひん)し糸(いと)を調(しら)ぶるに生(しょう)ず。固(まこと)に知(し)る、濃処(のうしょ)の味(あじ)わいは常(つね)に短(みじか)く、淡中(たんちゅう)の趣(おもむき)は独(ひと)り真(しん)なるを。
(※)醲釅……味の濃い美酒。ぜいたくな暮らしを表している。醲は濃い酒、「釅」は酢の味が濃い酒。「醲」は「じょう」とも読む。
(※)菽……豆。
(※)惆悵の懐い……四季の移り変わりを感じ味わう。
【原文】
悠長之趣、不得於醲釅、而得於啜菽飮水。惆悵之懷、不生於枯寂、而生於品竹調絲。固知、濃處味常短、淡中趣獨眞也。
35 平凡なことを平凡にできればそれが一番良い
【現代語訳】
禅宗は禅の極意について言う。「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠る」と。また、詩をつくる心得は言う。「目の前に写ったこと、感じたことを、普段の言葉で表現すると良い」と。思うに、最もすばらしいものは、最も平凡なもののなかにあり、最も難しいものは、最もやさしいものから出てくる。意識して技巧に走ると、かえって真実から遠くなり、無心であればあるほど真実に近づくのである。
【読み下し文】
禅宗(ぜんしゅう)に曰(いわ)く、「饑(う)え来(き)たりて飯(はん)を喫(きっ)し、倦(う)み来(き)たりて眠(ねむ)る」と。詩旨(しし)に曰(いわ)く、「眼前(がんぜん)の景致(けいち)、口頭(こうとう)の語(ご)」と。蓋(けだ)し極高(きょくこう)は極平(きょくへい)に寓(ぐう)し、至難(しなん)は至易(しい)に出(い)で、有意(ゆうい)の者(もの)は反(かえ)って遠(とお)く、無心(むしん)(※)の者(もの)は自(おの)ずから近(ちか)きなり。
(※)無心……無心でいることは難しいが、ここで『老子』の言葉を参考に挙げる。物事にこだわらない自然な生き方をすすめているところである。「営伯(えいはく)を載(の)せ一(いつ)を抱(いだ)きて、能(よ)く離(はな)るること無(な)からんか。気(き)を専(もっぱ)らにして柔(じゅう)を致(いた)して、よく嬰児(えいじ)ならんか。玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)して、能(よ)く疵(し)無(な)からんか。民(たみ)を愛(あい)し国(くに)を治(おさ)めて、能(よ)く無為(むい)ならんか。天門(てんもん)の開闔(かいこう)して、能(よ)く雌(し)たらんか。明白(めいはく)に四達(したつ)して、能(よ)く無知(むち)ならんか」(能爲第十)。
【原文】
禪宗曰、饑來噄飰倦來眠。詩旨曰、眼歬景致口頭語。蓋極高寓於極平、至難出於至易、有意者反遠、無心者自近也。
36 自然は人生を教えてくれる
【現代語訳】
大河がいつも満々と水をたたえて流れていても、そのあたりでは水の音はしない。このことを理解すれば、騒がしい環境下でも心の静けさを保つ秘訣が得られるだろう。また、山はどんなに高くても、雲の流れをさまたげることはない。このことを理解すれば、自分の存在をありのままにしておきながら、他のことに執着することなく、無心境地に入る妙機(みょうき)を悟ることができるだろう。
【読み下し文】
水(みず)流(なが)れて而(しか)も境(きょう)(※)に声(こえ)なし、喧(けん)に処(しょ)して寂(じゃく)を見(み)るの趣(おもむき)を得(え)ん。山(やま)高(たか)くして而(しか)も雲(くも)碍(さまた)げず、有(ゆう)を出(い)でて無(む)に入(い)る(※)の機(き)を悟(さと)らん。
(※)境……あたり、境域。本項の解釈は、本書の後集63条参照。なお、『論語』で有名な孔子が川の流れを見て言う、いわゆる “川せんじょう上の嘆き”の章がある。「子(し)、川(かわ)の上(ほとり)に在(あ)りて曰(いわ)く、逝(ゆ)く者(もの)は斯(かく)の如(ごと)きかな、昼夜(ちゅうや)を舎(お)かず」(子罕第九)である。この解釈には従来二つの説がある。①は通説で、時が流れ、すべてものが去っていくのは、この川の流れのようだ。昼も夜も休むことがない、というものだ。②は朱子などの説で、この川の流れのように少しも間断なく勉強、努力せよというものである。私は、これに『菜根譚』の本項の説明を応用して、③すべてを飲み込んで(努力し、勉強に励んでも)、音を立てないで流れるこの水のように常に心の静けさを持て(決して目立とうとせずにいる)、という解釈をする説(いわば①、②を合わせたような考え)も成り立つと考えている。
(※)無に入る……無心の境地に入る。
【原文】
水流而境無聲、得處喧見寂之趣。山高而雲不碍、悟出有入無之機。
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