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第2回

専業で活動できる作家を目指してほしい

2024.05.15更新

読了時間

一生、絵だけを描くことに専念したいと考えた著者は、専業で絵を描く画家として、画商さんとの契約も、百貨店での個展も、アートフェアでの展示経験もなく、無所属でさまざまな創作活動を展開しています、本書は、創作者が活動するときに直面する「お金」の問題、接客方法など、今まで語られなかった著者の20年分の手の内を、本文から一部ですが特別公開します!
「目次」はこちら

天の章 活動の基礎となる心について

I 専業で活動できる作家を目指してほしい

1  絵で生活できるということ

私は、絵を描いて生活の糧を得ています。また、妻は一時期、絵画教室を開いていた以外、家事中心で特に仕事をしておらず、一人娘は社会人になるまで無事に育ち、独り立ちしました。25歳で買った中古住宅のローンは32歳で終わり、50歳になった今は、夫婦二人で生活をしています。これまでに個展を130回以上重ね、いろいろな方々と出会い、大きな仕事から個々のご依頼までたくさん、絵を描く機会をいただいています。とても恵まれた絵描き人生だと感じています。
しかし、私は公募展で大賞をとったわけでもなく、有名でもなく、画商がついているわけでも、アートフェアに参加しているわけでも、百貨店で個展を開いているわけでもありません。そんな私が絵で生活できている理由は、ただただ人通りのある京都の貸し画廊で個展を重ねたこと、その後、京都・東京・神戸を中心に個展を行う街を増やしていき、50歳の現在までに釧路から福岡までの23の街で個展を行ってきたからだと、考えています。
そして、この活動の源になったのが、学生時代の彫刻の木代喜司先生の言葉です。
木代先生の個展を訪ねた20歳の私は、たくさんの作品が求められている大盛況の会場を見て驚いていました(このころはまだバブル期でした)。そんな中、先生は「福井君、こんなにたくさんの人が求めてくれているけれど、これは私が一人一人と出会って、自分のお客さんをつくってきた結果なんだよ」「君が個展をしても、すぐにたくさんの人が来るなんて考えないでね」という大切な言葉を私にくださって、「自分のお客さんは自分でつくる」ということを教えてくださいました。そして私はそのことを目標にして、個展活動をはじめました。今は、たくさんの出会いにより、多くの人たちに支えられています。
「絵だけでは生活できない」という前提をうのみにして、「絵で生活する」ことを諦めてしまっては、だめなのです。絵を求めたり、作家を支援したいと思う人は必ずおられます。しかし、そのような諦めムードの作家を、心から支えたいと考えません。
「自分のお客さん」を自分でつくることによって、創作活動で生活ができるようになることを信じて、活動することが何よりも大切だと考えています。

2 私の活動の展開の話

私は少年のころ、描き続けることのできるヒモ生活を目指しました

多くの画家と同様に、子どものころから描くことが好きだった私は、中学生のころには「絵を描き続けることのできる生活」をしたいと考えていました。そして、作品を販売することの可能性をまったく考えていなかったので、描き続ける方法をいろいろと考えた結果、「お金持ちの人の『ヒモ』になろう」というアイデアにたどりつきました。
突拍子もないことと感じられるかもしれませんが、当時の私にとっては安易ではあっても、実に真剣な考えでした。とにかく「描き続けることのできる人生」の実現を切望していました。
ただ、そんな人に出会うチャンスも気配も感じることができず、ヒモ計画は実現することはなく、年月が経ちました。
18歳になった私はデザイナーを目指し、京都教育大学でデザインを中心に勉強をしていました(京都市立芸術大学と金沢美術工芸大学も受験したのですが、なぜか不合格でした)。ただ、ふとしたきっかけから土と石で絵を描く活動をはじめることになり、自然の土や砂や石のもつ色が、一般の絵具とまったく異なる美しさをもつことを発見し、魅せられました。

土と石で描く日本画との出会い

京都教育大学は、教員になる人材を育てることを目的としてつくられた大学なので、デザイン以外にも絵画、彫刻など美術の基礎をひと通り学びました。
日本画もその一つとして授業を受けることになったのですが、あらかじめ購入するように言われた基本的な絵具セットがとても高価だったので、反発心もあって身近なもので間に合わそうと考えました。
日本画の岡村倫行先生が「色のつぶをニカワでひっつけるのが日本画です」と言われたので、家にあったゴマ、近所で集めた砂利や小石、石膏のかけらや校庭の土などをビンに詰めて持って行きました。
そんなことをゆるしてくれた先生の寛大さに、今も感謝しています。
結果として、ゴマはニカワに浮くだけで使いものになりませんでしたが、ほかのものは絵具にすることができ、課題の自画像を描ききりました。

このようなことがきっかけとなって、私は土と砂で絵を描きはじめ、その後も描き続けるようになるのですが、日本画の専攻でなかったため、描き方や表現方法は、自分なりに工夫していきました。


自然の土や砂や石を乳鉢で粉にします

社会勉強のためのサラリーマン――活動の基礎づくり

卒業後の進路としては、企業で働くことを目指しました。日本の社会のシステムを学びたくて、3年以上は続けようと決心していました。また同時に、30歳までにはサラリーマン生活を終わりにして、絵を描き続ける生活にトライしようと考えていました。
入社2年目に結婚し、3年目に中古住宅を購入するためにローンを組み、5年目には一人娘を授かりました。30歳からの収入は、きっと少ないと予想されたため、生活を切り詰め、住宅ローンを早く返すことができるように奮闘していました。
また、仕事以外の時間に絵を描き続け、作品をつくりため、1年半に一度のペースで京都で個展を開いていました。兼業で描く活動の限界もこのころ感じました。

専業で描く生活への移行

30歳になった私は、予定通り退職し、何の根拠もないまま専業で活動する生活へのトライをはじめました。このころは自宅で絵画教室も行いつつ、時々依頼されたデザイン業務もこなし、ギリギリながら生活を支えていました。
また個展を開く街を増やすように努め、数年後には京都・神戸・銀座・鏡石・大阪・町田というように、六つの街で展示ができるようになっていました。
そして絵だけで生活できる水準になったのは、35歳のころでした。
会社を辞めることについて、妻は「何とかなるに違いない」という非常に大らかな考えをもっていて、反対もなくスムーズに移行できたのはとても恵まれたことであり、力づけられもしました。

私は、このようにして、「絵を描き続けることのできる生活」を手に入れるために、かなり計画的に基盤づくりをして、専業へのトライをしました。

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著者

福井 安紀

画家・絵師。1970年京都府生まれ。サラリーマンを経たのち、30歳から絵だけで生活する道へ進む。土と石の自家製絵具で制作を続け、2013年、42歳で髙砂神社能舞台の鏡板の松を制作する機会をいただく。45歳のときに、江戸時代の絵師にあこがれ、安価に、すばやくふすま絵を描く「ふすま絵プロジェクト」を立ち上げる。各地の住宅、店舗、ホテル、寺院などでふすま絵、壁画、天井画などさまざまな種類の絵を描き続けている。2023年までに個展150回以上、多数のふすま絵制作など画家活動の限界に挑んでいる。

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