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もっと文豪の死に様

第9回

尾崎翠――幸せな鳥取時代に生まれた文学への志(中篇)

2022.05.27更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 前回で尾崎翠の魅力を伝えきれたかというと甚だ心許ない……っていうか、たぶん全然駄目だったと思うけれども、どっちにしたって作品そのものを読まなきゃ魅力なんてわからないわけで、ここはもう開き直って読者の皆様に丸投げしてしまおう。
 尾崎翠、読んで。

 さて、面の皮もぶ厚く平然と努力放棄したまま、今回は彼女の生涯を追っていきたい。
 まずは生まれ年の世相を確認しよう。
 生年は明治29年、西暦にすると1896年なので、ギリギリ19世紀生まれだ。
 同い年の文学者には吉屋信子、宮沢賢治がいる。また他分野では異才の画家・村山槐多や漫才界の革命児エンタツ・アチャコの横山エンタツも同じ年の産だ。
 こうして並べると、世代の特徴が見えてくる。
 そう、戦前モダニズム文化を担った層なのだ。
 ちなみに前年には伊藤野枝、素木しづ、古賀春江、金子光晴が、翌年には野溝七生子、三木清、東郷青児、花菱アチャコ、宇野千代、海野十三が生まれている。昭和前期カルチャーの知識があれば、なるほどね、と納得するラインナップだ。
 では、明治29年はどんな年だったのだろう。
 ウィキ先生に尋ねてみると、米国ではチャールズ・ダウがダウ平均株価を発表しはじめた年であり、またヘンリー・フォードが四輪自動車の試作に成功した年だと教えてくれた。
 株式と自動車。どちらも米国資本主義の象徴である。つまり、20世紀から現代までを支配する社会構造が固まった時期といえる。
 欧州では近代的帝国主義、植民地主義が猖獗を極める中、いわゆる第三世界で独立運動の兆しが見え始めた。
 アジアに目を移すと日清戦争終結の翌年であり、日本が中国に代わり「アジアの大国」として世界的に認知されるようになり始めた、まさにその時期だった。以降の夜郎自大ぶりが結句50年後の大敗戦を呼んだと思うと、21世紀を生きる私なんかはなんともはや、って気分になるわけだが、時代の空気を吸って育った彼らは、高度成長期の若者たちと同じく、根拠のない希望に満ち溢れていた世代だったのかもしれない。
 そして、青春期に入ると大正デモクラシーの洗礼を受けた。けれども、それが徒花に過ぎなかったのを目の当たりにした。
 翠と同い年の人たちは日露戦争が起こった明治37(1904)年にはまだ18歳だった。一方、日中戦争勃発の昭和12(1937)年はすでに40代に入っていたので、大正生まれのように若くしてほぼ強制的に戦地に送られる経験はしていない。
 戦後は、混乱する社会の立て直しを担い、大半は高度成長期を見ながら亡くなっていった、そういう人たちだ。色んな意味で「近代日本」の申し子世代であるのは間違いない。
 そして、女性たちは「女性解放」の第一世代であり、新時代の女の人生を半ば自らの手、半ば外圧で得ていった。
 翠より3才年長の市川房枝は戦前の女性解放運動を先導、戦時中は翼賛体制に協力していながらも、公職追放が解けた後は中央政界で活躍した。吉屋信子や翠の親友(と一方的に思っていた)林芙美子などの女性作家も戦前戦中戦後を貫いて筆をふるっている。
 けれども、翠は「女性が解放された戦後」を享受することなく、故郷での逼塞生活を送った。
 なぜそうしたのだろうか。
 いや、なぜそうなってしまったのだろうか。
 謎を解く鍵を求めて、生涯を振り返ってみよう。

夢見る乙女はボーイッシュ

 翠の出生地は鳥取県の岩井宿。山中にある小さな温泉地だ。伝説では貞観年間、つまり9世紀半ば頃の開湯となっているが、町として成り立ったのは江戸初期の頃らしい。
 創樹社刊行の『尾崎翠全集』によると、父・長太郎は他家から尾崎家の養子になったそうだ。現代の感覚ならば、養子を取るなんて何やら複雑な事情があったのかしら? と勘ぐってしまいそうだが、特になにもない(と思う)。
 昭和の半ばまで、子を養子に出したり貰ったり、は今よりずいぶんとカジュアルに行われていた。血縁云々よりも「家」の存続の方がよほどハイ・プライオリティだったからだ。不妊治療もない時代、子供ができなきゃ貰ってしまえ、が一般的な日本人の感覚だった。「血を分けた我が子」へのこだわりは、今よりよほど小さかったのだ。
 ただし、家の格や縁戚関係は大いに考慮された。長太郎もそこそこ釣り合う家の子、だったのだろう。尾崎家の養父母は長太郎を地元の漢学者に付け、学問を修めさせた。おかげで漢文に通じていたという。ゆえに教師となり、土地の小学校で主席教員になった。
 母・まさは地元の古刹西法寺住職の娘だ。西法寺は現存しており、翠の縁者の方が住職を務めておられる。父母ともに「しっかりした家」の出であり、「物堅い一家」だったことは想像に難くない。
 つまり、翠は地縁血縁がものをいう地方の、足元が確かな中流の家に生まれ育った女性ということができる。これが後半生の文学的逼塞に影響してくると思うのだが、まずは事実のみを記しておこう。
 一家は子だくさんで、翠は三男四女七人兄弟のちょうど真ん中に生まれた。しかも、上は兄ばかり、下は妹ばかり、というちょっと珍しい構成だ。つまり、第四子であると同時に長女でもあったのだ。この位置もまた後半生に影響したと思しいが、再び詳しくはまた後ほど。
 故郷の岩井宿は、両脇にごく低い山――高めの丘陵と呼ぶほうが適当かもしれない――に挟まれ、蒲生川沿いのわずかな平地に広がる静かな町だ。現在も数軒の温泉宿があり、良くいえば古い温泉町の情緒を今によく残しているが、実際のところ、かなり寂れていると表現した方が正しいかもしれない。
 どうやら翠が生まれた頃でさえ状況はあまり変わらなかったようである。

 どちらを向いても見ても、眼に入る物は骨のような山脈ばかりだ。「骨のような」とは、この山脈の秋から冬にかけての感じを言い表すにもっとも適当な言葉だと僕は思う。寂寥の喰い入った――寂寥そのものであるようなこの山脈は、全く巨獣の背骨としか思われない。
 Iはその山脈の中の、他にという感じの深い村だ。
(中略)
 ここには何の刺激も活動もない。ただ動かぬ寂寥があるばかりだ。(「無風帯から」より)

 けれども、翠は決してこの風景が嫌いではなかった。むしろ、もっとも幸福な子供時代はこの岩井の地にこそあった、ようだ。

 人間というものには、年齢上のどの時代にも、昔は好かったなあ、という追憶の溜息が従いてくるようですね。そうお思いになりませんか。追憶の溜息のない時代というものは、精々四つか五つ頃迄ではないでしょうか。私の経験では、五つ六つの頃からもうそれがあったようです。もっともその頃のは無論溜息とまでは行きませんが、まあ記憶を辿るという程度の物が。この芽がだんだん伸びて、何時しか追憶の溜息になるように人間は作られている物ではないでしょうか。
(中略)
 四つか五つの頃迄、私は、生まれ故郷の山の中の小さい温泉場に育ちましたが、それから町に出て、私が小学校へ通った頃には、もう私には、町に住むようになって今の自分より、山の中の温泉場にいた幼い私の方が幸福だったと思う心が生まれていました。それ以来私には行けば行く所に追憶の溜息が従いて来ます。この心持を極く簡単に説明すれば、現実を厭う心の道草と言って好いかもしれません。(「花束」より)

 現実を厭う心の道草、かあ。
 いいフレーズだなあ。
「花束」は28歳、東京で女子大学に入ったものの、中退して鳥取と東京を行き来しながら己の文学を模索していた時期に書かれた、自伝的要素を含む小説だが、ここにあるように、翠は父の転勤に伴って4歳で鳥取市の中心部に転居している。

 父と母と三人の兄と一緒に、一家が町に引こした時、春路は幼い女の子であったと聞いた。その時、四人の兄妹はどんなに児供らしい心の環をつないで此の故郷をはなれたであろう。(「悲しみの頃」より)

 当時の鳥取市は、山陰地方有数の都市だった。元は鳥取城の城下町であったことから、侍気質の都市文化が栄えた。生まれ育ちが鳥取市内、という人の談によると、同じ鳥取でもお殿様のお膝元だった鳥取と商都として発展した米子では、気質からなにからまったく異なるという。で、その方の言に拠ると、人のよい鳥取人は米子人に食い物にされがちだそうな。よそ者にとっては曖昧に笑って見せるしかない話題だが、この手の「地方あるある」は珍しい話でもない。
 我が出身地の大阪にだってある。
 たとえば、がめつさでつとに知られた大阪商人だが、江戸時代から大坂で商売を営んできた家の人に言わせると、全然違うらしい。
 曰く、本当にがめついのは近江商人の末裔である。
 彼等は実にがめつい。なにせ「近江商人が歩いた後は草の一本も残らない」と言われるぐらいだ。一方、ボンボン育ちが多い生粋の大坂商人はむしろ大様で、必要な始末(節約の意味)はするがケチは嫌うお大尽気質である。だから、大阪商人がめつい説は、近江商人のせいで誤解された、いわば風評被害なのである、なんて話を聞かされたものだ。
 いつの時代のどこの土地も、こすっからくて人が悪いのは外部流入者で、善良な地元民は被害者だ、ってことになるものらしい。
 閑話休題。
 とにかく、山中の閑静な町で幼児期を過ごし、おおらかな気質の都市で育った翠は、自然豊かな土地で培ったのびやかな感性とリリシズムを胸に宿しながらも、頭脳明晰かつサバサバした性格の女の子に育った。
 学齢期になるとごく普通に小学校に入り、首席で卒業。そして、13歳で鳥取県立鳥取高等女学校に進んだ。父が教育者だけあって「女に教育は不要」なんて旧弊な考えはない一家だった。小学校を首席で卒業、なんていうと、翠が私淑していた樋口一葉を彷彿させるが、親の質はまったく違ったのだ。
 この点において、翠は実にラッキーだったといってよい。この時代、どれだけの女性が学びの道を親に妨げられたことか。いや、女性に限らず、男性でも進学を諦めなければならないことも多かった。義務教育を受けさせるのすら渋る親がいた時代である。昔は、今以上に「親ガチャ」の落差が激しかったのだ。
 だが、翠の何不自由ない無邪気な子供時代は、思春期の入り口に差し掛かったところで突然の終止符が打たれた。
 高女一年生の12月、父が急死してしまったのだ。宴会の帰り道、飲みすぎたせいで大雪に足を取られ転倒、そのまま帰らぬ人となってしまったらしい。同じ酒好きとして、まったく他人事とは思えない死に様だ。まこと気の毒である。
 なんにせよ、いきなり大黒柱が折れてしまった尾崎家は混乱に陥った。この時、長兄でさえまだ海軍兵学校を出たばかりの見習士官に過ぎず、それ以下は全員学齢という状態だった。
 完全にピンチである。
 しかし、両親がともにしっかりした家の出だったのが幸いした。いわゆる「実家が太い」おかげで、翠は学校を辞めずに済んだのだ。これもまた、幸運というしかない。もちろん、父が健在だった頃と全く同じ生活ができたわけではなかっただろう。家は借家になったし、何かと我慢せざるをえないことも増えたに違いない。だが、教育を最後まで受けることができたのは、やはりラッキーだったというしかないのだ。
 女学校時代の翠は、常にトップクラスの優秀な成績で、学問だけでなく音楽も得意だった。また、兄の影響で哲学書や仏教書なども読む、思慮深いタイプだったという。その一方、武侠小説を好むようなボーイッシュな一面を見せていた。性格もさっぱりしていて、クールだった。けれども、友人が病気になったりすると親身に世話をした。情に厚く、義務に忠実だった。
  こういう複雑な性格が彼女のおもしろいところだ、と私は思っている。というのも、後に書くことになる小説で、自身をモデルの一つにした主人公の性格が、泣きべそだったり、やたらおセンチだったりするのとは大違いだからだ。
 後期諸作品の中心人物となる小野町子は、確実に翠の分身である。
 だが、人物にはズレが見える。
 文芸的植物派少女の権化である小野町子と「生きてゐる私」である尾崎翠。
 家人に名前ではなく「うちの女の子」と呼ばれるほどイデアな女の子の町子と、家族や友人の前ではオンナオンナしたところを見せない翠。
 作中人物と作者にズレがあるのは当然といえば当然なのだが、翠の作品世界を読み解くためには「どうズレているのか」の分析が欠かせない。
 なので、ここは徹底して読み解くつもりだが、ひとまず今のところは「少女時代の尾崎翠は、間違っても高橋真琴のイラストみたいなキラキラ系少女や萌え絵系ぽよよん少女ではなかった」点だけ特記しておきたい。

花の東京で花の女子大生に

 大正3(1914)年、18歳で女学校を卒業した翠。
 物堅い家の女の子にとって、卒業後の進路といえば「お嫁さんにいく」一択である。
 だが、翠にその気はさらさらなかった。
 なぜなら東京の女子大で学びたいという志があったからだ。
 東京へのあこがれは、兄たちの背中を見て育った。三人の兄たちは全員東京の大学に進学していた。
 兄さんたちと同じように、私だって東京で勉強したい。
 向学心と、若年者なら誰でも持つ都会へのあこがれが、彼女の上京志望を強固にしたのだろう。だが、実家で家事手伝いの身分では矢継ぎ早のお見合い攻勢をしのぐのはかなり骨だ。なので、体裁の良い腰掛けを用意する必要があった。
 そして、ちょうどよい椅子を見つけた。
 母方の祖母が住む海辺の町・岩美に、小学校の代用教員(注1)の口があったのだ。コネであることはまず間違いないし、積極的に教員になりたかったわけでもない。だが、避難場所としては最高だった。
 なにせ時代は大正初期である。学校を卒業した女性が「家事手伝い」であってもまったく構わなかった――というよりそれが当たり前だったわけだが(昭和46年生まれである私の同世代でさえ、若い時分はプロフィールが「家事手伝い」の女性はごまんといた)、だからといっていつまでも家にいられるわけではない。早々に結婚しなければならなくなる。実際、縁談はいくらでもあったらしい。それをかわすのに教師という札は有効だった。
 さらに幸運なことに、祖父母がかつて住んでいた僧堂での一人暮らしも許された。
 これはもう願ったり叶ったりだっただろう。
 家族に気兼ねすることなく、好きなだけ本を読み、文章を書くことができるのだから。
 そう、この時期、翠はすでに文学の道に分け入ろうとしていた。いつぐらいから創作を始めていたかは判然としないのだが、教師になったのは7月で、翌月にはもう雑誌「文章世界」(注2)短文欄に「青いくし」と題する散文詩を投稿し、採用されている。習作はもっと早くから始めていたと考えるべきだろう。おそらく、女学校時代からではなかろうか。
「青いくし」は百字余りのごく短い作品で、お隣のお婆さんが刻む胡瓜を髪に挿すくしに見立てて、生活の中から芸術を見出そうとしている。若干文部省推薦作的な匂いが漂うけれども、なんでもない家事のいち場面を観察し、比喩とオノマトペで詩にしているところなど、いかにも翠らしい。
 小野町子が「私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう」と宣言したように、翠もまた詩を自らの表現手段として考えていたのだ。
 ここから大正8(1919)年の4月に日本女子大学に入学するまでの5年間は、たぶん翠の生涯でもっとも輝き、希望に満ちた日々だっただろうと思う。
 教師をしながら詩や文章を書いてはせっせと「文章世界」に作品を送った。特に「文章世界」では何度も投稿作の第一席を取り、吉屋信子とともに「投書欄の才女」として注目を集め始めた。

 私の曙光がかがやき出した。私の心を、そして世のすべてを統一しようとするように。(「あさ」より)

「青いくし」が採用されてから四ヶ月後に再度採用された短文(私は詩だと思うが)「あさ」からの一節だ。
  希望に満ちた、弾むような心が伝わってくるではないか。たかが文芸誌の投稿欄に載ったぐらい、ではあるのだが、片田舎の文学志望者が中央の有名誌に自作が載るのを見て、世界の統一を感じるほど高揚するのも無理はない。
 後年には寡作な作家扱いされるほどのスローペースで作品を発表していた翠だが、この時期には猛烈な勢いで書いていた。
 たぶん、環境がよかったのだ。
 岩美の美しい自然、就中煌めく海はいつだって心を解放してくれる。
 腰掛け先生とはいえ、無邪気な子供たちとの交流に癒やされることもあっただろう。まあ、教え子の追想によると、楽しい授業をしてくれる一方で時にはヒステリー気味に怒りを爆発させる怖い先生でもあったようだが。
 周囲には、学校の先生かつ地域の檀那寺である西法寺ゆかりのお嬢さんである翠を尊重し、大事にしてくれる町の人たちがいた。
 そして、なにより得難い定期収入と自由な時間が手に入った。
 創作に打ち込むには最高の環境を、この時の翠は得ていたのである。
 だが、己が環境の恵まれていることに気づける若者は多くない。
 翠もそうだった。
 周囲に文学を語れる友がいないことは何よりも不満だっただろうし、吉屋信子が作家デビューを果たしたなんてニュースには刺激を受けたことだろう。
 この時期に書いた作品ではたびたび「生きる悲しみ」をテーマにしている。五十路のおばさんである私から見ればなんとも他愛ない悲しみだが、どの年齢でもその年齢なりの悲哀がある。若さゆえ、今の幸せより、まだ見ぬ未来を渇望したところで何の不思議もない。というより、そうあるべきなのだろう。もし翠が鳥取で創作を続けていたら、後期の高みに昇れなかったのは確実だ。青年は荒野を目指すのがやっぱり正しいのである。
 とにかく、翠は一刻も早く大学に行きたかった。
 学びながら、文学の道を歩きたかった。
 華やかで、最先端の文化あふれる東京に出たかった。
 だから、大正7(1917)年1月、文芸誌「新潮」に自作が掲載されたことをきっかけに、上京を決めた。東京帝国大学で農業を学んでいた三番目の兄・史郎の元に身を寄せることを条件に、親の許しも得た。小野町子よろしく、兄の身の回りの世話を見る約束をしたのかもしれない。もちろん、自分の進学と文学修行が主目的だったけれども。
 だが、果たしてこの決断は正しかったのか。言っても詮無いことだが、思わずにはいられない。なぜなら、東京で20年にわたる迷走人生が始まってしまうのだから。

注1:代用教員(だいようきょういん)
戦前の旧制小学校で、教員免許状なしで教鞭をとった教員。十分な数の教員がいなかった時代に取られた経過措置だったが、戦後も昭和30年代までは助教諭と名前を変えて存在していた。正規の教諭の5分の1程度の給与だが、若い女性が就ける数少ないまともな職業だった。
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注2:文章世界(ぶんしょうせかい)
博文館発行の文芸雑誌。明治39(1906)年~大正9(1920)年まで、合計204冊を刊行。編集は田山花袋など自然主義文学の作家が受け持った。当初は作文練習誌だったが、徐々に文芸誌に成長。国木田独歩や島崎藤村などの作品が掲載された。久保田万太郎や内田百閒もここから出ている。
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