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ユマニチュードへの道 イヴ・ジネストのユマニチュード集中講義 イヴ・ジネスト 本田美和子 装丁画:坂口恭平「小島の田んぼ道」(『Pastel』左右社刊より)

第11回

「人間の尊厳」とは何でしょうか?

2023.01.17更新

読了時間

フランスで生まれたケア技法「ユマニチュード」。ケアする人とケアされる人の絆に着目したこのケアは日本の病院や介護施設でも広まりつつありますが、現在では大学の医学部や看護学部などでもカリキュラムとして取り入れられてきています。本書は、実際に大学で行われたイヴ・ジネスト氏による講義をもとに制作。学生たちとジネスト氏との濃密な対話の中に、哲学と実践をつなぐ道、ユマニチュード習得への道が示されます。
「目次」はこちら

歴史的宗教的文脈での「尊厳」

「尊厳」を口にする人はたくさんいますが、「尊厳とは何か」を正しく知っている人は、じつはあまり多くないのではないかと思います。
 尊厳という概念は、その国の文化に大きく依存しています。日本人が思う尊厳と、イタリア人が考える尊厳はおそらく違うでしょう。
 古典的には、尊厳には3つのとらえ方がありました。まずひとつめは、古代ローマ時代に使われた「ディグニタス(dignitas)」という言葉に起源をもつ名誉や地位に基づく「力」という意味合いです。歴史的には、権力者や地位の高い人、つまり王様や貴族など、そういう人たちの持つ力が尊厳であると位置づけられてきました。
 2つめは宗教的な意味合いです。聖書に「さあ、人を造ろう。我々のかたちとして、我々に似せて……」(創世記1章26 節)とあるように、人は神の分身として造られたのだから、他の動物とは違う、という考えに基づきます。神の似姿として造られた人間には、神性もまた少なからず備わっているはずだという文脈で尊厳がとらえられてきました。
 3つめは、みなさんもご存じのイマヌエル・カント(1724‒1804)という哲学者による考え方です。人間の尊厳の根拠はどこにあるのだろうかと考えたカントは、その根拠を「人格」に求めます。人間が尊いのは、動物とは違う人間性ゆえであると考えたのです。
 その後、4つめの考え方が生まれます。第二次世界対戦でのナチス・ドイツによるホロコーストの反省を受け、「すべての人間は生まれながらにして、誰からも奪われることない権利を有する」という世界人権宣言が1948年に定められました。誰もが生まれながらに持っていて、誰からも奪われることのないもの― それこそが人間の尊厳であると定義されたのです。

尊厳とは主観的なもの

 ここで、ミシェル・ド・モンテーニュ(1533‒1592)というフランスの哲学者の話をしたいと思います。
 モンテーニュは「尊厳というものは存在しない」と語った人です。動物と人間の違いにこそ尊厳が見出せると考えたカントと違って、モンテーニュは「すべての生き物は等価である」と考えました。
 私自身は今、このモンテーニュの考え方に共感しています。つまり尊厳とは、客観的に存在するか否かを問う対象ではなく、もっと主観的なものであるというのが、私の考えです。
 人はそれぞれに、自分には尊厳があると‟感じて”いるのだと思います。相手の行為が自分を傷つけるものであるのか、それとも自分を尊重してくれている行為なのかを感じとる。尊厳は人がおのおの持つ主観的な感覚として存在するのではないでしょうか。
 人間の絆を大切にするケアとは、ケアを受ける人とケアをする人がそれぞれ尊厳の感覚を維持しつづけることです。
 みなさんがいま病院や介護施設に行って、そこでケアを受けている方々の尊厳が尊重されていると感じられますか?

―あまり感じないです……。

 私も残念ながら感じられません。医師や看護師の患者への振る舞いは、「私は大切に扱われている」と感じさせてくれるものとは、ほど遠いからです。
 私がケアをするときにはいつも、相手の方に「私がやっていることは大丈夫ですか?」
「受け入れられますか?」と聞きます。どうしてだと思いますか?

―相手が本当は嫌がっているかもしれないから?

 そう。先ほどお話ししたように、患者さんと私は違う存在です。だから私がいくら相手によかれと思うことであっても、相手がそれを好ましくないと感じるなら、それは相手の尊厳を傷つけていることになってしまいます。
 だからこそコミュニケーションが重要。これは私たちが相手に伝えるだけでなく、私たちが相手からの情報を受けとれているかどうか、つまり双方向的なものでなければなりません。相手が「どう感じているか」を受けとることなしに、相手の尊厳を守ることはできないのです。

自分らしさという「十全性」が保たれていること

 身体的にも心理的にも人間らしく扱われていて、自分らしくいられる。つまり人間であることの「十全性」が守られているとき、そこに尊厳が生まれます。反対に、他者がその人の「十全性」を毀損することで、その人の尊厳を奪うことも可能です。
 心や身体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。動かないように命じられたり、拘束されたり、寝たきりを強いられたりすれば、尊厳の感覚は失われてしまいます。
 病院や施設に入る人たちは、本来持っていた十全性がすでに一部失われた脆弱な状態です。ケアする人との関係によっては、さらに弱い立場に置かれます。
 たとえば、「身体を清潔にするのでベッドでじっとしてください」や、「転ぶと危険なので、拘束します」というケアは、現状ではよく目にしますが、これは相手の尊厳は守られていると言えるでしょうか?

―守られていないと思います。

 そうです。私たちがこれまで当然と思ってきたケアのあり方が、ケアを受ける人の尊厳を傷つけている可能性があるのです。
 人の尊厳とは、身体と精神、その両方の十全性が満たされてはじめて保たれます。身体に関しては、「病気を治すために」医学的なアプローチをしますね。しかし、そこで同時に精神的な十全性― つまり「自分らしさが尊重されてここにいる」という感覚を患者さんがもつことができなければ、私たちが相手の尊厳を尊重している状況だとは言えないのです。
 私の考える尊厳とは、そんなに難しいものではありません。みなさんが患者として病院に行き、身体の状態はよくなったけれど、何かとても嫌な気持ちになって帰ってきたのなら、あなたの十全性は保たれていないということです。
 身体も心も、どちらもないがしろにしない。患者さんから「よい時間をすごせた」という反応を感じられたのなら、みなさんはそのとき、相手の十全性を維持するケアができたと考えていいのです。

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著者

イヴ・ジネスト/本田美和子

【イヴ・ジネスト】ジネストーマレスコッティ研究所長。フランスのトゥールーズ大学卒業(体育学)。1979年にフランス国民教育・高等教育・研究省から病院職員教育担当者として派遣され、病院職員の腰痛対策に取り組んだことを契機に、看護・介護の分野に関わることとなった。【本田美和子(ほんだ・みわこ)】日本ユマニチュード学会代表理事。独立行政法人国立病院機構 東京医療センター 総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年、筑波大学医学専門学群卒業。亀田総合病院、米国コーネル大学老年医学科などを経て、2011年より日本でのユマニチュードの導入、実践、教育、研究に携わり、普及活動を牽引する。

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