第69回
玄用第六十九
2019.03.14更新
日本人の精神世界に多大な影響を与えた東洋哲学の古典『老子』。万物の根源「道」を知れば「幸せ」が見えてくる。現代の感覚で読める超訳と、原文・読み下し文を対照させたオールインワン。
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玄用第六十九
69 戦いを悲しむほうが勝つ
【現代語訳】
戦争をするときにおいて次のような言葉がある。「こちらから攻撃するより、迎え撃つような形を取り、こちらは少しも進もうとはせず、むしろ一尺でも退くのがよい」と。
これを、行こうにも行く「道」がなく、腕まくりできないのに腕を上げ、ひきずり込もうとしても敵はなく、取ろうとしても武器はなし、というのである。
禍いが生ずることについては、敵を侮ることより大きなことはない。敵を侮れば、私の宝(三宝)をほとんど失うことになるだろう。だから兵を挙げてお互いが戦争するときは、戦いを悲しむ(三宝が有る)ほうが勝つのである。
【読み下し文】
兵(へい)を用(もち)うるに言(げん)有(あ)り。吾(わ)れ敢(あ)えて主(しゅ)と為(な)らずして客(かく)と為(な)り(※)、敢(あ)えて寸(すん)を進(すす)まずして尺(しゃく)を退(しりぞ)けと。
是(こ)れを、行(ゆ)くに行(みち)無(な)く、臂(ひじ)無(な)きに攘(あ)げ、扔(ひ)くに敵(てき)無(な)く、執(と)るに兵(へい)無(な)し(※)、と謂(い)う。
禍(わざわ)いは敵(てき)を軽(かろ)んずるより大(だい)なるは莫(な)し。敵(てき)を軽(かろ)んずれば(※)、幾(ほと)んど吾(わ)が宝(たから)を喪(うしな)わん。故(ゆえ)に兵(へい)を抗(あ)げて相(あい)加(くわ)うる(※)に、哀(かな)しむ者(もの)勝(か)つ(※)。
- (※)主と為らずして客と為り……ここでは「主」が攻撃側で「客」が迎え撃つ側(受動的、守勢側)。なお、『孫子』の九地篇では、「客」が他国への侵入者、「主人」が自国内で侵入してくる軍を迎撃する軍を指す(拙著『全文完全対照版 孫子コンプリート』参照)。
- (※)執るに兵無し……ここでの「兵」とは「武器」のこと。なお、この句と前の「扔無敵」の順序が逆とする説もある。『帛書』も逆である。
- (※)敵を軽んずれば……敵を侮ればの意味。なお、『孫子』の行軍篇では、「敵を昜(あなど)る者は、必ず擒(とりこ)にせらる」とある。必ず大きな失敗をするということである。このようにいわゆる兵法書は、老子と共通するところが多く、老子は中国の各兵法書にも影響を与えているという説もある。
- (※)相加うる……互いに敵対する。戦争をするの意味。なお、「加」は「如」の誤字であるとする説もある。その立場からは「相い如(し)けば」などと読み、「お互いに戦力が等しいときには」などと解釈することになる。
- (※)哀しむ者勝つ……「哀」は「襄(すなわち譲)」の間違いとする説もある。この立場からは、「譲歩する者が勝つ」ということになる。ただ、老子の考え方からは、戦争の悲惨さを自覚し、戦う場合もやむをえない場合に限り、戦争を悲しみ、できるだけ犠牲を避ける人こそ「道」に近く、だから戦争を悲しむほうが勝つということになるのではないかと思われる(偃武第三十一参照)。
【原文】
玄用第六十九
用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。
是謂行無行、攘無臂、扔無敵、執無兵。
禍莫大於輕敵、輕敵、幾喪吾寶。故抗兵相加、哀者勝矣。
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