第7回
アーティスト・インタビュー vol.6 除村武志(YMCK)
2017.04.13更新
【この連載は…】ゲーム機の内蔵音源チップから誕生した音楽ジャンル「チップチューン(Chiptune)」。その歴史を紐解く待望の書籍『チップチューンのすべて』(2017年5月発売予定)の一部を、全10回にわたってお届けします。
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連載第2回目以降からは、国内のチップチューン・シーンを支えるアーティストの方々へのインタビューを、書籍に先立ち一部公開していきます。チップチューンとの出会いや楽曲の制作秘話などに迫ります。
▼プロフィール
YMCK(ワイ・エム・シー・ケー)
除村武志、栗原みどり、中村智之の3人から成る8bitミュージック・ユニット。2004年に発売したファーストアルバム『ファミリーミュージック』の大ヒットをきっかけに、幅広い世代の支持を受ける。また国内のみならず、フランス、スウェーデン、オランダ、米国、台湾、韓国、タイ等、8カ国以上で国際的なフェスやイベントに出演。映像と完全にリンクしたユニークなライブパフォーマンスは、世界的にも高い評価を獲得している。CDリリース以外にも、楽曲提供、リミックス、映像制作、DJパフォーマンス、ゲームサウンド・プロデュース、音楽制作ソフトウェア用の8bitサウンド・プラグインMagical 8bit PlugやiPhoneアプリYMCK Playerの開発など、国内外において幅広い活動を展開している。
■ジャズへの回帰~YMCKの芽が見えるまで
── YMCKのルーツといえば、ジャズ&ファミコンですよね。
実は中学の後半まで、音楽に興味がなかったんですよ。エレクトーンは小学校の低学年から習っていたけど、まあロクに練習もしなくて。それが、中学2~3年生の頃に松田昌(電子オルガン・鍵盤ハーモニカ奏者)のコンサートをきっかけにビビッときたものがあって、ちゃんと弾いてみよう、曲も作りたいなあなんて思い始めました。
その頃もうなんとなくジャズに惹かれてはいたんだけど、当時は兄が聴いていたインディーズものとか、どちらかというと洋楽メインで聴いていたかな。高校時代になると友人の影響で、メタルにハマりました。歪んだエレキギターの音が好きだったんですよね。大学のときはメタルのコピーバンドで、自分でもギターを弾いて。メタルを掘り下げていくうちに、遡っていろんなものを聴くようになり、やがてチャック・ベリーとかをカッコいいと思うようになっていきました。メタルにも渋いプレイする人がいて、そこから段々ブルースとか泥臭いほうに興味が行って、Dr.Johnとかにも出くわしたりして、そうしてジャズと再会するわけです。いいなあって再確認する。
メタルが下火になってきた頃になると、今度はミスチルやスピッツとか、邦楽にも面白いと思えるものが出てきました。そこから渋谷系に興味が向いて行くんですが、そこにもジャズの影響を受けたバンドが結構あって。「やっぱりジャズいいな」っていう思いが強まって、ジャズに何かを足した音楽を自分でもやりたいなという気持ちが出てきたんです。これがYMCKの芽になったのだと思います。
── 作曲の基礎訓練はエレクトーンの時代からやっていますよね。 パソコンで音楽を作るようになったのはいつ?
YMCKをやるってなったときに、渋々使い始めた感じ(笑)。それまでは打ち込みを使わない音楽ばかりやっていましたからね。
■ファミコンへの憧れ
── 音楽に使うのは遅かったけど、パソコン自体には早くから接していた。
小~中学生の頃は完全にパソコン少年でしたね。ポケコン(シャープPC-1251)から入って、FM-7、FM-77、PC-9801……と。BASICで簡単なゲームを作ったりもして。そこでプログラミングの基礎は身に付けたんだけど、MS-DOSの時代になるとパソコンにプログラミング環境が標準で付いてこなくなって、やらなくなっちゃった。それと中学後半あたりから、オタクっぽいものと距離を置きたい気持ちも出てきたんですね。だんだんパソコンから離れていって、それと入れ替わるようにしてバンドに興味が湧いていったわけです。
その後大学の研究室でUnixを使ったりもしましたが、本格的にプログラミングへと戻ってきたのはiPhoneが出たとき。あの頃Mac OSに開発ツール(Xcode)が付属するようになって「自分で作れる時代が戻ってきた」って思ったんですよ。
── 子供の頃はゲームもやっていた?
ゲーム&ウォッチ時代からパソコン離れするまでの間は、もうひたすらゲームばかりやっていました(笑)。ただ、ファミコンは持ってなかった。当時使っていたのはFM-7で、音源はピュアなPSG。ファミコンに比べて貧弱でした。友達の家でファミコンやると、低音がちゃんと出ているし、音に得も言われぬ柔らかみがあるし、3音以上あったりもするしで、憧れの音になっていくわけですよ。それが心のどこかにずっと残り続けていた。
ジャズ+αで何かやってみようってなったときに、ファミコンの音を思い出したのは、運命的だったかもしれません。ほかにもいくつかプランはあったんですよ。歌モノとか、コミックバンドっぽいのとか。YMCKは、そういうものになっていた可能性もある(笑)。
■YMCK始動
── YMCK結成の経緯は?
YMCKの原型って、実は間に合わせで作ったユニットなんです。あるイベントでドタキャンが出ちゃって、それで当時一緒のバンドでキーボードをやっていた中村(智之)と、なんとなく居合わせたみどり(栗原みどり)と、即席で一回限りのバンドを組んだのが最初です。このときは普通のシンセを使った打ち込みポップで、ボーカルが僕、みどりがコーラス。でも、その声がものすごく良かったので、そのあと本格的に三人でユニットやろうって再始動したときに、ボーカルをやってもらうことに。
── チップチューンにウィスパーボイスっていうのは、誰のアイデア?
狙ってやったわけじゃなくて、試しにちょっと歌ってもらったら、すごくよくて。「これでいこう!」ってすぐに思えたんです。
── 中村さんがVJ担当になったのは?
最初の間に合わせのユニットのとき。当時中村は映像編集の仕事をやっていたから、それで頼みました。YMCK結成当初は別の知り合いにドット絵とかアニメーション映像とかを作ってもらっていて、それで2回くらいライブをした後、中村にやってもらうことにしました。
最初に『Magical 8Bit Tour』の映像を作ってもらったんだったかな。軽い気持ちで頼んだのにすごいクオリティの映像が仕上がってきたので、そこから一気に欠かせないVJ要員になりました。
── そこからはもう彼の映像なしでは成立しなくなった。
そんな感じはありますね。そもそも当時はテクノ系のツマミをいじるライブ・パフォーマンスが嫌いで(笑)。「意味があるのかな?」って強烈に思っていました。バンドだったら激しいパフォーマンスとかコール&レスポンスとか、いろいろ見せ方があるけれど、チップチューンだとそうもいかない。突き詰めて考えていくと、映像っていうのがひとつの答えになった。曲の盛り上がりに合わせて映像を使うことで、音楽の意味を強調する。それならライブをやる必然性もあるだろうと。
■人気急上昇、そして海外進出。
── YMCK結成当初、チップチューンっていうジャンルのことは知らなかったわけですよね。その存在を知ってどう思いました?
ちょっとびっくりしましたね。「こういうのがチップチューンっていうんだ、へえーっ」て感心したりもして。
── そういう世界を知らない状態で、まずCD-Rによるアルバムを作った。
そうですね。それから最初のライブをやって、その映像をネットにあげたりして。
── それを北海道のK→(ヒラオ・ケイイチ)さんが見つけてきて、VORCでニュースにさせてもらって、そこからYMCKの名が国内外へと知れ渡っていく。2004年にはUSAGI-CHANG RECORDSからファーストアルバムのリリースに至っているわけですが。
YMCKを始めてしばらくの間は、エレポップのイベントに出ることが多かったんですよ。「フューチャー・ポップ」みたいなキーワードが話題になっていた時期で、そこに自然に合致していったのかもしれない。その流れでUSAGI-CHANG RECORDSの人たちとイベントで会って、直接「リリースしませんか」とオファーを貰ったんです。
── 同年には海外ライブも実現していますよね。
最初はスウェーデンですね。あそこでの反応はすごかった。しばらくは欧州からのお誘いが多かったんですが、だんだんとアジアが増えていきました。欧州からはチップチューンあるいはジャパン・カルチャーの枠で、アジアからは渋谷系とかkawaii系の枠で捉えてもらえて、なかなか良い立場に立てていたと思います。ライブのほかに、アメリカ、フランス、韓国、タイではアルバムもリリースしてもらえましたね。
……この続きは書籍でお楽しみください。
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