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チップチューンのすべて All About Chiptune ゲーム機から生まれた新しい音楽 hally

第8回

アーティスト・インタビュー vol.7 USK

2017.04.20更新

読了時間

【この連載は…】ゲーム機の内蔵音源チップから誕生した音楽ジャンル「チップチューン(Chiptune)」。その歴史を紐解く待望の書籍『チップチューンのすべて』(2017年5月発売予定)の一部を、全10回にわたってお届けします。
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連載第2回目以降からは、国内のチップチューン・シーンを支えるアーティストの方々へのインタビューを、書籍に先立ち一部公開していきます。チップチューンとの出会いや楽曲の制作秘話などに迫ります。


USK__01

▼プロフィール


USK(ユーエスケー)


8bit Music作曲家。京都、西院を拠点とし、サウンド改造したゲームボーイを超オーバースペック且つ超精密にプログラミング。20年前のゲーム機とは思えないハードディスコサウンドとライブパフォーマンスが評価され、2006年Blip Festival(ニューヨーク)出演以降、海外からも多数の招待を受ける。

 2008年にはShanshui Recordsよりフルアルバム『Dot Matrix Melodiator』をリリース。 他、Fuckoka Recordsより『I AM A FUCKOKA RAVER EP』(2010)、『music is my girlfriend』 (2007)、 8bit peoplesより『pico pico disco』(2006)をリリース、ソロ以外ではSulumiとのスプリットアルバム『As Vivid As Lips』(2007)他、さまざまなコンピレーションに参加。 

chipdisko.bandcamp.com



■テクノの目覚め


── USKと言えばゲームボーイにおけるアグレッシヴなダンス・サウンドの開拓者。だけどルーツが意外と分からない。「1998年にベースを弾きだす」……?


あの頃はロックが好きで、黒夢とかハイスタンダード(Hi-STANDARD)とか、洋楽だったらフジロック(FUJI ROCK FESTIVAL)に出ているようなアーティストとかを「かっこいい」と思ってた。ベースっていうのは、やっぱギターは音も雰囲気もベタすぎて、恥ずかしかったから。裏方とか立役者みたいに言われているベースのほうが、かっこよく思えた。


── それから数年後にはテクノに目覚めている。


2000年に「Fruity Loops 2」を使い始めて、それに入ってたデモがテクノとかばかりだったので、そこから必然的に興味をもつようになった感じ。あと、従兄弟やネットの知り合いが、テクノをめっちゃ推してきたからっていうのもある。


── 以降は打ち込みに没頭して、2002年にはクラブでライブとDJを始めているね。


福岡の大学に通うようになってからだね。それまでは宮崎のド田舎に住んでいて、市内まで電車で2時間かかるし、クラブなんてどこにあるかも分からなかった。大学ではテクノ部に入って、そこで当時4回生だったMARU(MARU303)さんに出会った。


── で、MARUさんとユニットを結成すると。最初はMARUさんがブレイクビーツとかエレクトロ、USKくんがテクノ。そこからだんだんハードテクノやハードミニマルが主軸になっていく。


当時聴いていたのはドイツ周辺のものが中心だったな。シュランツがブームになる手前のハードテクノ。シュランツは面白いと思えなかったので、そこで興味も止まった感じ。



■辻テクノ始動


── テクノに飽きはじめてきたところで、ゲームボーイやチップチューンのことを知ると。


MARUさんはその4年くらい前からひとりでチップチューンをやっていた。まだ4つ打ちとかじゃなくて、普通のピコピコしたやつだったんだけど、ある時コボックス(Covox、スウェーデンのゲームボーイ・ミュージシャン。欧米チップチューン勢で初めて来日を果たした)の動画をネットで観たんだよね。キックが入っていて、フロアごと響かせている。そういうのを聴いたのは初めてだったから「こんなキックが出るならクラブ・ミュージックみたいじゃん。これなら自分でもやってみたい」って思うようになった。

 そうしてMARUさんから「USKにはこれが向いている」って「LSDj」のことを教えてもらって、自分でも作り始めた。だいたい何か言い始めるのはMARUさんなんだよ。「辻テクノ」もそう。「ゲームボーイを使って路上ライブしたい」って言い出して。ただMARUさんはアイデアマンなんだけど、なかなか実行に移さないんだよ。実際に行動に移すのは俺だった。


── 「辻テクノ」の第1回目が2005年。最初はどんなメンバーでやっていたの?


俺、MARUさん、BSK(撲殺少女工房)、苦楽さん、天さん。路上ライブってやっぱり反逆的な感じがあるから、群れた方がいいなと思った。音源をCDに焼いて、路上で配って布教したりもしてたね。「布教」とか言い出したのは俺だったかな。1回目は博多のキャナルシティの広場でやったんだよね。家よりもでかい音を出せて楽しかったけど、ギャラリーはほとんどいなかったなあ。


── でも何度か続けるうちに、ネット上でも知られる存在になっていった。僕もchesterfieldさんのところで知って、VORCで紹介させてもらった。


VORCに載ったことで、続けていくモチベーションはかなり高まったと思う。知らない人に自分のことを書いてもらうような経験もなかったし、嬉しかったよね。それまでも曲を掘るために見ていたサイトだったし。



■海外進出とライブでの高評価


── 2006年頃から積極的に海外へとアプローチするようになったよね。世界各地でライブをやったり、逆に海外アーティスト来日の受け皿になったり。海外勢はどういう印象だった?


イっちゃってる奴はイきまくっているし、オタクっぽい奴はとことんオタクっぽかった。ポップじゃないものの「ポップじゃなさ」がすごかった。ジック(X|k)とかやばかったし、いまでもたまに聴くよ。


── 海外のコネクションを強めていくなかで、ついには8bitpeoplesからの日本人初リリースへと至る。


8bitpeoplesのIRCチャンネルにほぼ常駐していたんだよね。その頃は大学にほとんど行ってなくて、昼間からログインしているんだけど、そうするとちょうど海外勢の活動時間帯と重なる。曲をアップしたら結構反応も良くて、楽しかったよね。そんなことをしながら、ある程度の曲数が揃ったところで「出さないか」って声がかかった。


── 「ライブで一番盛り上がるアーティストのひとり」っていう評価が早くからあったけど、当時は曲作りとライブ、どちらに主眼を置いていた?


曲作りのほう。ライブは好きだったけど、それは単純にでかい音が出せるから。自分の家では出せない音で、自分の曲を聴けるというのが楽しくて。あと、ハメを外しても許される気持ちになれるのと、場を支配しているような快感があるところも楽しかった。


── ライブにおける転機はやはり2006年の第1回Blip Festival出演だったんじゃないかなと。あのあたりから過激なステージ・アクトで「クレイジーだ」と言われたりするようになった。でもあくまで自然体だったんだよね。


そうだね。別にクレイジーさを狙ったわけでもなく。でも、当初は照れ隠しもあったよね。「ゲームボーイでやっている」ってことに対して、ある種の気恥ずかしさがあったから。それに最初はまだ客のほうを見るのが怖かった。MARUさんとPortalenzを結成した時は、パンク的にやっていこうと決めて、「とにかく首を振っとこう」とか言いながら臨んでたな。


── それがだんだん板に付いてきた。当時、ライブ中にゲームボーイをぶっ壊したりもしたよね。あれは、見ていて相当センセーショナルだった。


自分の曲がムカついて殴っていたんだよね。「全然よくねぇ、こんなんじゃねぇ」みたいな。だから演技とかじゃなくて素なんだけど、でも破壊衝動みたいなものを出してしまったのは、いま考えるとみっともなかったと思うよ。もっとラブ&ピースでよかった。


── 2007年になると北京ツアーからヨーロッパ・ツアーへと、ライブで大忙しだった。翌年にも中国ツアー。あれだけ海外に招聘された日本のチップチューン・アーティストは、いまに至るまで他にいないと思う。海外を一通り巡ってみて、どうだった?


北に行けば行くほどダンスの感じが薄くなっていくというか、盛り上がりの質が違ってくる。オランダとかイギリスは踊りまくり。ノルウェーはまだダンス寄りだったけど、スウェーデンは客数多いのにダンスをしに来ている感じじゃなかった。(当時の)日本っぽかったね。

 オランダではブレイクコアのパーティに混ざってやったので、そっちの客が多くてかなりカオスな感じだった。当時のチップチューンはブレイクコアとかハードコアと精神性を共有しているところもあって、パンキッシュな感じが音楽に出ている人も多かったと思う。既存の音楽で鬱屈としたものを抱えた人たちが入ってくるジャンルという側面もあったかもしれない。


── この頃に音楽スタイルもかなり固まってくる。ダンサブルでありながらメロディがかなり強く、そして圧倒的に隙がない。あのスタイルにはどうやって至ったの? 


踊れる音っていう部分では、ビート自体は結構感覚的に打っていたんだけど、音色作りのテクニックは研究してた。音楽性については、トランス的なコード進行とベースが好きだったので、それを基本に。単音で聴いたらただピポピポ鳴っているだけでも、そこにマイナー進行のベースが入ると、急にそれっぽくなるのが面白くて。隙がないように聴こえるのは、「音抜けの良い音程をリズミカルに使う」っていうやり方していたからだと思う。それが結果的にメロディになっていくだけであって、メロディを強調する意識は全くなかった。正確にいうと、BPMの速いハードコアな曲ではちょっと意識していたけど、BPM140くらいの普通の曲では全く意識しなかった。


……この続きは書籍でお楽しみください。


USK__03USK『Music is My Girlfriend』(2007)

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著者

田中治久 (hally)

ゲーム音楽史/ゲーム史研究家。90年代より国内初のネットレーベル「カミシモレコーズ」を主宰し、自身もチップアーティストとして楽曲制作やライブ活動を行う。2000年代には個人サイト「VORC」を始動、チップチューンやゲーム音楽についての執筆をはじめ、国内における第一人者として知られる。2012年からは新サイト「チップユニオン」の創設に協力するなど、新世代のリスナーにむけてチップチューンや8bitカルチャーの魅力を発信しつづけている。

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