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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第11回

ストリートの再教育課程(前編)

2019.03.04更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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受験戦争の彼岸

 受験の季節が終わろうとしている。

 1月半ばのセンター試験を皮切りに、2月から3月初頭まで、各大学での入試が目白押し。

 それはおおくの若者にとって、18年間の人生の集大成。
 蒼白い顔をして、鉛筆をもって答案用紙に向かい、60分間に賭ける。

 たった1点の差で合否が別れることもある。

 偏差値の差が、その後の人生の差を決定してしまう。

 近視眼的となった受験生の心は、狭き門を通過するためにデフォルメされてゆく。

 こうした受験戦争を生き残った者が、その後、パワーエリートとなって社会を支配してゆく。

 それゆえ社会は、善かれ悪しかれ「受験マインド」に縛られたフォルムを形成し、受験そのものが目的化し、出身大学が最大の社会的属性となる。

 しかし、これは人間の在り方の特殊な一例に過ぎない。

 たまたまこのシステムの内部で生まれ育った私たちは、これがすべてだと思っているが、じつはそうではない。

 人の生はもっと幅広く、じっさいに地球はさまざまな生き方で満ち溢れている。

 手遅れにならないうちに、自分の狭量な受験マインドをぶち壊し、広い世界とつながらねばならない。

 そのために必要なのは、思索ではなく体験である。

道端の師匠たち

 東京の有名私立大学に入学し、大学院に進学し、アビジャンの日本大使館に専門調査員として勤務するという、まさに受験ワールドの恩恵を受けまくっていた私であるが、神はそんな私をお見捨てにはならなかった。

 ジャッキー・チェンの古いカンフー映画で、道端のみすぼらしい酔っぱらいの老人が実は偉い師であった、などという現実離れした話がでてくるが、あれは嘘ではない。

 専門調査員時代、私はアビジャンの中心街にある高層マンションに住んでいた。

 下町にアパートを借りたいと申しでたが、安全管理上の理由から却下されたので、大使館員御用達の物件のなかから、もっとも築年数が古く、セキュリティが甘そうなマンションの一室に居を定めた。

 部屋から大使館までは歩いて5分。

 仕事は新米、この街では新参者。まわりの風景など見ている余裕はない。

 だが、大使館に勤める大学院生、アフリカで働く日本人、という環境に慣れるにつれ、すこしずつ見えなかったものが見えてくるようになる。

 すると、私の短い通勤路にいる人々を風景ではなく実在の人間として認識するようになり、そのなかに大勢の少年たちがいるのに気がついた。

 その一部は靴磨きをしていたが、その他はなにをしているのか見当がつかなかった。

 勘のいい少年たちは、私が彼らを気にしはじめた頃、私に声をかけるようになってきた。

 挨拶が二言、三言の会話となり、やがて彼らの横に座って話しこむようになると、通勤時間は5分から30分へと延び、私は遅刻の常習者となった。

 こうして私はアビジャンのストリート文化を発見し、道端の師匠たちと出会ったのである。

 大使館に勤めていた2年のあいだ、勤務時間後の夕方以降、あるいは週末に彼らストリート・ボーイたちとの親交を温め、ストリート文化とダイレクトにつながるレゲエやラップのミュージシャンたちとの交流を広げていった私は、帰国後に講談社の主催する奨学金に応募した。

 テーマはもはや「キンシャサのリンガラ音楽」ではなく、「アビジャンのストリート文化と音楽」。見事審査に合格し、ふたたびアビジャンへの2年間の切符を手にしたのであった。
 しかも今度はフィールドワーク。24時間、365日、完全に自分だけの時間である。

ストリートの学校

 2年間、文化人類学の視点から彼らを調査し、帰国後にその成果を研究会で発表し、学術論文として執筆し、本として出版し、大学の授業で解説してきた。

 彼らはなぜストリート・ボーイとなったのか、その家庭環境、経済状況……
 彼らはどんな社会的属性を持っているのか、その民族、居住地域……
 彼らはどんな経済活動をおこなっているのか……
 彼らは犯罪と結びついているのか……
 彼らはなにを食べているのか……
 彼らはどんな音楽が好きか……
 彼らはどんなダンスが好きか……

 彼らを調査し、データをフィールドノートに記入し、分析し、考察し、ストリート文化の様態を文化人類学的に記述してゆく(詳細は、拙著『ストリートの歌:現代アフリカの若者文化』参照)。

 これが私の仕事であった。

 だが、世界とは巨大な学校である。

 人生とは長大な教育課程である。

 調査をする過程で、私は彼らに心身ともに最大限に接近する必要があった。

 たんに話を聞くだけではなく、彼らに共鳴し、その文脈を理解し、その言葉の奥底にまでたどり着く必要があった。

 結果として、「データをとりたい」という下心を抱きつつも、彼らにたいして最大限に自己を開くことになった。それに対し、彼らのおおくはオープン・マインドで接してくれた。

 一方に、博士課程の大学院生がいる。もう一方に、小中学校を中退した若者たちがいる。

 前者は20代半ばの学者の卵。後者は10代前半から30歳過ぎまでのはみだし者。

 前者が後者を調査し、学術的成果をあげてゆくプロセスの裏側で、前者の受験マインドが後者のストリート・マインドによってぶち壊され、組み替えられてゆくというプロセスが進行していた。

 アビジャンのストリートは文化人類学のフィールドであると同時に、私にとって人生最大の再教育課程の場であった。

最初の一歩

 「ストリート」とはなにか?

 それは、社会から爪弾きにされた者たちの集う場。

 社会とはある種の設計図にしたがって組みたてられた構築物である。

 それを構成する大きな柱のひとつが学校、もうひとつが家庭である。

 アビジャンのストリート・ボーイたちは、なんらかの事情(貧困、親の怠慢、離婚、自身の素行の悪さなど)で小中学校を退学し、ろくでなしの穀潰しとして家庭からも疎んじられ、ストリートに自分の居場所を求める。

 交通空間として建設された「道路」が、彼らによって生活の場、経済活動の場、文化創造の場として乗っとられ、コミュニケーション空間となったものが「ストリート」である。

 それまで「ちゃんとした」家庭で育ち、「ちゃんとした」学校教育を受けてきた「設計図内」の住人である私と彼らの距離を縮めたのは、私の好奇心の強さと、彼らの心の広さと、いっしょに過ごした時間の密度の高さであった。

 私はすこしずつストリートのしきたりを身につけ、ストリート・マインドに染まっていった。

 あれはまだ大使館時代、私が彼らと仲良くなりはじめた頃のこと。

 あるストリート・ボーイが、自分の家に遊びにこいという。それはちょっと眼光の鋭い、リーダー気質の若者であった。

 わたしは一瞬躊躇した。たしかに道端で談笑する仲ではあるが、無防備についていって、ほんとうに大丈夫だろうか? 悪い仲間が出てきて、身ぐるみ剥がされたりしないだろうか?

 だが、案ずるより産むが易し。ある土曜日、中心街で待ちあわせ、彼の住処に向かった。

 そこは貧しい者たちの住むゲットーの奥。私たちは一軒の掘っ立て小屋のまえで立ちどまる。大丈夫だろうか? 悪い仲間は隠れていないか?

 彼が扉を開けた瞬間、中から飛びだしてきたのは、なんと一匹の子犬であった。

 まだほんの小さな雑種の子犬が、彼に飛びついて甘えている。

 その栗毛の子犬に頬ずりしながら、「ヨチヨチ、寂しかったかい」などと甘い声をだす強面のストリート・ボーイ。

 その光景を見ながら、私は心のなかの壁が氷解してゆくのを感じた。

 私は、疑いを持った自分を恥じた。
 やましいのは相手の素行ではなく、私自身の心であった。

 このとき、アビジャンのストリート・ボーイとは、壁の向こうに住む別種の生き物ではなく、自分とおなじ人間であるという基本的視座を、頭ではなく、心で感じとり、自分のマインドに植えつけることができた。

 第一課程、終了である。

 

ことばを武器として

 人はことばを操作してコミュニケーションをとる動物である。

 心で通じあえることもあるし、身振りや眼差しに真意を読みとることもあるだろうが、ことばに意味をのせてやりとりしなければ、複雑な社会を生きてゆくことはできない。

 アビジャンのストリート・ボーイたちは独自のスラングを持つ。

 公用語のフランス語を大幅に崩し、そこにアフリカ諸語、英語、日本語、さらに出所不明の表現を混ぜて、一般人には理解不能なことばを創りあげている。ここでの日本語とは、空手由来の表現である。

 アフリカでは70年代のブルース・リー、80年代のジャッキー・チェンをはじめ、チャック・ノリス、ジャン=クロード・ヴァン・ダム、スティーヴン・セガールといった白人俳優の作品も含め、格闘技映画が大人気で、一括して「カラテ映画」と呼ばれている。

 こうした映画に触発されたストリート・ボーイたちは、カラテの真似ごとをしながら身体を鍛え、金のある者は実際に道場に通い、「気合い」「道場」「後ろ回し蹴り」などのボキャブラリーをスラングに取りいれる。こうして、カラテ文化がストリートに根づいていったのである。

 さて、ストリート学校に入学した私は、このスラングをマスターしなければならない。
 「学校」といっても、教科書があるわけでも、カリキュラムがあるわけでもない。ただただ実践あるのみ。

 さきほどの強面ストリート・ボーイとその友人たちが、私にストリートのマナーを教えてくれる教師であると同時に私の使いっ走りであり、さらに災難から守ってくれるボディーガードとなってくれていた。

 私は来る日も来る日も彼らからスラングを教わり、あたらしい表現をストリートで実践していった。

 最初、私のつたないスラングは、彼らの爆笑を誘った。

 だが、すこしずつ発音も良くなり、自然なリズム感も身につけ、普通に会話できるようになっていく。

 やがて、私の方から攻撃的な表現で相手をディスったり、黙らせたり、あるいはユーモアのある表現で笑いを誘ったり、喧嘩を円満に解決したりと、自由自在にスラングを操るようになっていった。

 私自身がスラングで思考するようになり、私のことばを聞いてみなが、私をストリート<内>の人間だと認識してくれるようになったとき、第二課程が修了していた。

ストリートのボス

 ストリートは対面的ネットワークの世界である。

 顔の見える関係の積み重ねが財産となり、その広がりが強みとなる。

 アビジャンのストリートには顔役がおり、ボスがいる。彼らと知りあうことで、私が把握できるアビジャンのストリート空間はいっきに広がる。

 当時、アビジャンでもっとも重要かつ有名なボスがいた。

 その名はジョン・ポロロ。
 札付きのワルであるが、それだけでなく、独自のストリート・ダンスを編みだすファッション・リーダー的存在でもあり、その言動が他のストリート・ボーイに与える影響には計り知れないものがあった。

 当然、私は彼と知りあいになりたいと思ったのであるが、問題があった。

 彼はほんとうに凶悪な人間で、噂ではすでに3人殺しているということであった。そして当時、直近の殺人事件のために刑務所に服役中で、いつ出てくるか分からないとのことであった。

 どうしたものか。

 アビジャンのストリート・ボーイたちがあんなに恐れ、かつあこがれているボスに会わないなどということは、文化人類学者としても、またストリート学校の生徒としても、ありえないことである。

 まずは正式な手続きで面会を申しこんだが、親族以外は面会できないと却下された。

 しかたないので、ジョン・ポロロの弟分といっしょに面会の日に刑務所に赴き、様子をうかがった。

 大勢の面会人が入口で待っている。

 私たちは看守のひとりを買収し、「スズキという日本人が兄貴に会いたがっている」と弟分がしたためたメモをジョンに渡してもらう。

 戻ってきた看守は、「面会場で待ってる」というジョンの返事を伝えてきた。

 私たちは、ふたたび看守に袖の下を渡すと、他の面会人たちが入場する瞬間を待って、どさくさに紛れて面会場に入っていった。

 そこは鉄格子で囲まれた広場のような場所であった。

 椅子やテーブルがあるわけではない。一方から囚人が入り、反対側から面会人が入り、互いを見つけると、その辺に座りこみ、あるいは立ったままで、話しこむ。数十組がいっせいに話すので、大声をあげなければ相手の声が聴きとれない。

 彼は、そこにいた。

 ガッシリした大男をイメージしていたが、中肉中背といった感じである。おそらく刑務所内ではじゅうぶんな筋トレができないのだろう。

 血色も良く、愛想も良い。おそらく刑務所内の序列のなかでは最高位に位置しているので、じゅうぶんに食べ、清潔に暮らしているのだろう。

 とんだ珍客の訪問を、心から喜んでいるようであった。

 あまりの騒音で、ゆっくりと会話することはできなかったが、私は噂のジョン・ポロロの存在を肉眼で確認し、彼は私を友好関係にある客人として認識してくれた。

 刑務所にまで赴き、アビジャンのストリート最高峰とされるボスにお目通りを願うという儀式を経て、ここに、私の第三課程は修了したのであった。

 こうして、アビジャンのストリートと対峙する心構えを整え(第一課程)、ストリート・ボーイたちと自由にコミュニケーションをとる能力を身につけ(第二課程)、ストリート・ネットワークの頂点に位置するボスからの承認を得ることができた(第三課程)。

 では、アビジャンのストリートで、私はいったいなにを学んだのか。

 それについては、次回、くわしく紹介したい。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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