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第119回

289〜290話

2021.09.10更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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7‐1 天子・諸侯は賢者を呼びつけることはしない

【現代語訳】
万章が問うた。「失礼ながらあえて聞きたいのですが、先生が諸侯に面会されないのは、どういうわけですか」。孟子が答えた。「国の都に住んでいる者を市井の臣といい、郊外の田舎に住んでいる者を草莾の臣という。どちらも庶人で、まだ仕えていない者だ。庶人は、礼物を奉って臣下にならない以上は、進んで諸侯に面会しないのが礼である」。万章は続けて聞いた。「庶人は、君がこれを召して労役を課すれば、ただちに出かけて行って労役に服します。しかし、君が庶人に会いたいと召されても、出かけずに面会しないというのはどういうわけですか」。孟子は答えた。「労役に出るのは義であるが、面会するために出かけて行くのは不義だからである。それなのに、君がその人と会いたいと思うのは何のためだろうか」。万章は言った。「それはその人が物知りのためです。また、その人が賢者だからです」。孟子は言った。「その人が物知りだからというなら、その人を師として学ぼうというのであろうが、そうであれば天子でさえ師を呼びつけたりはしない。ましてや諸侯がそういうことをしてはいけない。私は賢者に会いたいと言って、賢者を呼びつけた(無礼となる)話を聞いたことがない」。

【読み下し文】
万章(ばんしょう)曰(いわ)く、敢(あえ)て問(と)う、諸侯(しょこう)に見(まみ)えざるは、何(なん)の義(ぎ)ぞや。孟子(もうし)曰(いわ)く、国(くに)に在(あ)るを市井(しせい)の臣(しん)と曰(い)い、野(や)に在(あ)るを草莾(そうもう)(※)の臣(しん)と曰(い)う。皆(みな)庶人(しょじん)を謂(い)う。庶人(しょじん)は質(し)を伝(つた)えて(※)臣(しん)と為(な)らざれば、敢(あえ)て諸侯(しょこう)に見(まみ)えざるは、礼(れい)なり。万章(ばんしょう)曰(いわ)く、庶人(しょじん)は之(これ)を召(め)して役(えき)せしむれば、則(すなわ)ち往(ゆ)きて役(えき)す。君(きみ)之(これ)を見(み)んと欲(ほっ)して之(これ)を召(め)せば、則(すなわ)ち往(ゆ)きて之(これ)に見(まみ)えざるは、何(なん)ぞや。曰(いわ)く、往(ゆ)きて役(えき)するは義(ぎ)なり。往(ゆ)きて見(まみ)ゆるは不義(ふぎ)なり。且(か)つ君(きみ)の之(これ)を見(み)んと欲(ほっ)するは、何(なん)の為(ため)ぞや。曰(いわ)く、其(そ)の多聞(たぶん)なるが為(ため)なり。其(そ)の賢(けん)なるが為(ため)なり。曰(いわ)く、其(そ)の多聞(たぶん)なるが為(ため)ならば、則(すなわ)ち天子(てんし)すら師(し)を召(め)さず。而(しか)るを況(いわ)んや諸侯(しょこう)をや。其(そ)の賢(けん)なるが為(ため)ならば、則(すなわ)ち吾(わ)れ未(いま)だ賢(けん)を見(み)んと欲(ほっ)して之(これ)を召(め)すを聞(き)かざるなり(※)。

(※)草莾……郊外の田舎。莾は雑草を意味する。野外のことである。日本でも現在もよく使われる。意味は「草の生い茂った所、民間、在野」などである(『広辞苑』岩波書店)。なお、吉田松陰が好んで用いた言葉「草莾崛起」がよく知られている。例えば、「義(ぎ)卿(けい)義(ぎ)を知(し)る、時(とき)を待(ま)つの人(ひと)に非(あら)ず。草莾崛起(そうもうくっき)、豈(あ)に他人(たにん)の力(ちから)を假(か)らんや」(「野村和作への手紙」)などである。義卿とは松陰のことである。国や幕府、藩上層部、役人などではなく、一般庶民の力で世を直していこうという呼びかけであった。
(※)質を伝えて……礼物を奉って。献上の物を奉って。
(※)召すを聞かざるなり……呼びつけた話を聞いたことがない。本項では、孟子の自負と気概を示しているようだ。

【原文】
萬章曰、敢問不見諸侯、何義也、孟子曰、在國曰市井之臣、在野曰草莾之臣、皆謂庶人、庶人不傳質爲臣、不敢見於諸侯、禮也、萬章曰、庶人召之役、則往役、君欲見之召之、則不往見之、何也、曰、往役、義也、往見、不義也、且君之欲見之也、何爲也哉、曰、爲其多聞也、爲其賢也、曰、爲其多聞也、則天子不召師、而況諸侯乎、爲其賢也、則吾未聞欲見賢而召之也。

7‐2 君は徳の面で賢者に師事する

【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「昔、(魯の)繆公は、たびたび子思に会われた。繆公は、『昔、千乗の大国の君でありながら、一介の士を友としたということがあるが、それをどう思うか』と言われたという。すると、子思は、面白くない様子で、次のように言った。『古人の言葉があります。それは賢者ならば士にも師事するということは申していますが、どうして士を友とするなどと申していましょうか』と。子思が面白くなく思ったのは、『地位からいえば繆公は君で、私は臣である。どうして(臣の身でありながら)君を友などと思いましょうか。しかし、徳の面で言うと、繆公は私に師事すべき者となります。どうして(師である)私と友だちになることができましょうか』ということだったのだろう。このように千乗の君は、賢者と友にはなれないのである。ましてやこれを呼びつけることなどできないのだ」。

【読み下し文】
繆公(ぼくこう)、亟〻(しばしば)子思(しし)を見(み)る。曰(いわ)く、古(いにしえ)、千乗(せんじょう)の国(くに)、以(もっ)て士(し)を友(とも)とすること、何如(いかん)、と。子思(しし)悦(よろこ)ばずして曰(いわ)く、古(いにしえ)の人(ひと)言(い)える有(あ)り。之(これ)に事(つか)うと云(い)うと曰(い)わんか。豈(あに)之(これ)を友(とも)とすと云(い)うと曰(い)わんや、と。子思(しし)の悦(よろこ)ばざるは、豈(あに)曰(い)わずや、位(くらい)を以(もっ)てすれば則(すなわ)ち子(し)は君(きみ)なり。我(われ)は臣(しん)なり。何(なん)ぞ敢(あえ)て君(きみ)と友(とも)たらん。徳(とく)を以(もっ)てすれば則(すなわ)ち子(し)は我(われ)に事(つか)うる者(もの)なり。奚(なん)ぞ以(もっ)て我(われ)と友(とも)たるべけんや、と。千乗(せんじょう)の君(きみ)、之(これ)と友(とも)たらんことを求(もと)むるも、得(う)べからざるなり。而(しか)るを況(いわ)んや召(め)すべけんや。

【原文】
繆公、亟見於子思、曰、古、千乘之國、以友士、何如、子思不悦、曰、古之人有言、曰事之云乎、豈曰友之云乎、子思之不悦也、豈不曰、以位則子君也、我臣也、何敢與君友也、以德、則子事我者也、奚可以與我友、千乘之君、求與之友、而不可得也、而況可召與。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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