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もっと文豪の死に様

第1回

中島敦――天下の甘えん坊将軍、死して文豪となる(前篇)

2022.01.14更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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中島敦(なかじま・あつし)
小説家。明治42(1909)年、東京生まれ。昭和17(1942)年、横浜の病院で病死。享年33。代表作に「山月記」「光と風と夢」「李陵」など。

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
「如何にも自分は隴西の李徴である」

 このフレーズに見覚えがある人は多いのではないだろか。
 いわゆる“漢文調”の硬い文章だが、語感やリズムがよいので馴染みやすい。さらに、固有名詞を入れ替えればなんにでも使える。そこがウケて、ネット大喜利用センテンスの元ネタになっている。
 とはいえ、元ネタとなるにはネット外での知名度が必要だが、その点、このフレーズは申し分ない。昭和から令和にかけて、絶えることなく教科書に採用され続けている作品の一節だからだ。
 作品名は?
 そう、「山月記」。
 再びかなりの人が「知ってる!」と思ったことだろう。
 では、作者は?
 中島敦だ。現国の時間に授業を聞かず、国語便覧ばかり読んでいた人(私の同類)ならば「七三分け丸メガネ」のポートレートまで思い出したかもしれない。いや、今どきは白髪黒メッシュ頭の青年が頭に浮かぶ人の方が多いのか? あるいは和洋折衷の衣装にもふもふ虎襟巻き姿……。
 なんにせよ、夏目漱石や森鴎外とまではいかないが、知名度の高い「文豪」であるのは間違いない。
 だが、彼を文豪カテゴリーに入れるのに抵抗を示す向きもある。作品数において、文豪と呼ぶにふさわしいほどの量を残していないからだ。
 確かに、中島敦が「プロの作家」として活動したのは死ぬ前のわずか一年弱。遺した作品も文庫数冊に収まる程度の量だ。文豪と呼ぶなら質量ともに際立っていなければならないとするならば、量の面で見劣りする感は否めない。
 だが、大多数は「中島敦だったら文豪でいいんじゃない?」と思うはずだ。なんなれば、彼の作品は没後たった5年で教科書に載り、以来ほぼ絶えることなく採用され続けているからだ。
「教科書に載っている文学者なら文豪でしょ」
 世の感覚はそんなところである。
 しかし、実際には、中島作品が教科書に採用されたのは、かなり異例の事態といってよい。1947年当時の中島敦は知る人ぞ知る存在であり、文学的な評価が固まっていたわけではないからだ。にもかかわらず、敦の作品はいち早く教科書入りし、時の淘汰に勝ち続け、結果として「文豪」ポジションを確立した。
 なぜそんなことが起こったのか。
「文豪の死に方 リターンズ」の記念すべき第一回目で、その謎を探っていきたい。

喘息で絶たれた命

 日本近代文学史上、死後に再発見された夭折の天才は幾人かいる。時代の寵児ともてはやされた大ベストセラー作家に至っては、山ほどいる。
 それでも、死後20年もすれば大抵は忘れられてしまい、本も手に入りづらくなる。
 たとえば、直木三十五。彼なんかは十分流行作家に数えていい。だが、今現在、彼の本を書店で見かけることはほぼない。2017年に『南国太平記』が角川文庫で復刊されたけれども、よほど大きな書店でもない限り、棚には並んでいないだろう。もし、菊池寛が大衆文学賞に彼の名前を用いなかったら、忘れられた作家の群れに入っていたはずだ。
 時には獅子文六のように、版権切れを境にリバイバルする作家もいるにはいるが、数十年にわたって継続して忘れられず、どの世代も万遍なく知っている作家となるとそう多くはない。
 対して、生前の中島敦はほぼ無名だった。
 処女作が芥川賞にノミネートされ、文壇の注目は集めつつあったが、世間はまったく知らない。当然ながら、他の文豪たちのように死亡記事が新聞に載るようなこともなかった。
 死んだその瞬間の中島は、「一部の関係者に将来を嘱望されるも、ほんの数作を発表して夢半ばのまま33歳で死んでしまった元教師」でしかなかったのだ。
 では、ここで彼の死をめぐる状況を整理しておこう。
 死因は喘息。重篤な発作によって窒息したものとみられていれる。
 21世紀の現在、喘息は治療法が確立され、完治せずともコントロール可能な病気になっている。よって、あまり死病というイメージはないかもしれない。けれども、今でも喘息発作に苦しむ人は数多くいるし、これで亡くなる人は皆無ではない。まして昭和の前半では死に至り得る恐ろしい病だった。
 末期の様子について、敦の妻であるタカがこんな風に語っている。

 好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい」
 と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持って、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい」
 とも申しました。(「お礼にかえて」より 『中島敦研究』所収)

 悲痛である。
 死の直前には痩せ衰え、注射液も身体に入らなかったという。そして、せめて苦痛を和らげてやりたいと背中を撫で続ける妻の胸に倒れ込み、そのまま息を引き取ったそうだ。愛する人の腕の中で死ねたのは、せめてもの慰めだろうか。タカは苦しみぬいた夫の死に顔が安らかだったことに安堵したと述べている。それが慰めになるほど、厳しい闘病だったのだろう。
 実は、私の遠縁にも喘息が原因で亡くなった人物がいる。他界したのは私が生まれる前なので直接は知らないのだが、発作の様子を何度も側で見たという私の母などは「喘息は本当に怖い」とことあるごとに言っていた。
 喘息の主な症状は呼吸困難発作である。気管や気管支が何らかの刺激によって反応し、咳や喘鳴が発症、気道が広範囲に狭まって呼吸困難になる。気管支喘息の原因はだいたいがアレルギーだそうだが、ストレスも症状を起こす、あるいは悪化させる一因と見られている。
 一般的には小児喘息がよく知られているけれども、成人になってから発症することもある。
 敦の場合、最初の発作は19歳だった。発症を誘発したのは、その1年前に患った湿性肋膜炎(注1)であるらしい。肋膜とは肺の表面を覆う2枚の薄い膜のことで、呼吸にとっては大変重要な器官だそうだ。そんな部分に炎症が起きてしまったら一大事なのは言うまでもない。
 当時の敦は旧制高校のエリート校・第一高等学校に通う学生だったが、1年間も休学し、数ヶ月間の療養生活を送る羽目になった。若い身空で長期療養などたまったものではなかろうに、それだけで終わらず、なんとか復調こそしたものの、喘息という後遺症まで残ってしまった。短い人生の3分の1以上を、死に至る病とともに生きなければならなかったのだ。
 特に、死の当年は、ようやく作家としての第一歩を踏み出した希望の日々であると同時に、絶え間なく襲ってくる発作との闘いの日々でもあった。そんな中で、珠玉の名作を何作もものしたのだから、その精神力と才能には脱帽するばかりだ。
 だが、一方で疑問もわいてくる。作家になるなら20代でもなれただろうに、なぜ爆発したのは死ぬ間際だったのだ? と。
 なにせ彼は一高から東京帝国大学に進学した戦前最高レベルのエリートだ。同じ道を歩んだ先輩には芥川龍之介や谷崎潤一郎、川端康成など錚々たる顔が並ぶ。おまけに、実家は特別裕福ではないが、樋口一葉や林芙美子のように赤貧の中にいたわけでもない。やろうと思えば執筆に専念できたはずだ。
 だが、敦はそうしなかった。
 その理由を探っていくうちに、敦の人生には、日本戦前エリートに共通する、独特の精神状態が浮かび上がってきた。
 その精神状態を、世間はこう呼ぶ。
「甘え」と。

「甘えの構造」に生きる

 中島敦は明治42年(1909)、父・中島田人(たびと)と母・チヨの第一子として、東京の四谷に生まれた。
 明治42年といえば、ファースト・シーズンの劈頭を飾った二葉亭四迷がベンガル湾上で客死した年だ。なんというか、感慨深い(主に私が)。
 第一子が男の子だったということで、誕生時はさぞ祝福され、喜ばれたことだろう。だが、喜びは長くは続かなかった。3歳にもならないうちに両親が離婚してしまうのだ。
 離婚の原因は判然としない。性格の不一致、あるいはチヨの不貞が原因ともいう。だが、私は別の理由があったんじゃないかと邪推している。
 というのも、田人とチヨは恋愛結婚(もしかしたらデキ婚)だったからだ。
 もちろん、恋愛結婚でも性格の不一致や不貞はいくらでも起こりうる。離婚もままある。愛し合っている二人が別れるはずはないわ! みたいなナイーブな話をしようというのではない。どちらかというと、離婚の経緯をつぶさにみた上での推論である。どうも二人の離婚には、“恋愛結婚”を厭うた親族から妙な干渉があったのでは、と勘ぐりたくなるところがあるのだ。
 そもそも中島家はお堅い旧家。江戸は日本橋新乗物町で代々「御乗物師」を家業にしてきた家だった。ちなみに江戸期は「中嶋」表記で、「中島」になったのは明治以降のようである。なお、十一代目中嶋清右衛門の没年が弘化四年(1847)なので、かなり古い家柄といっていいだろう。
 さて、乗物師とは文字通り乗物を作る職人を指す。よって町人階級ではあるのだが、「御乗物師」となっている点がミソだ。「御乗物」と表記するのは武家や公家などの支配階級が使う乗物だけで、つまり中島家の取引先はそういう相手だった、ということになる。
 中島家の家長は代々中嶋清右衛門を名乗り、加賀藩と深い関係にあった。藩からは三人扶持の俸禄を受けていたので、町人身分とはいえ加賀家家臣でもあるのだ。町人の中ではかなり上層階級、まず良家といえる。また、経済的にも恵まれていたようで、少なくとも寛保年間(1741~1744)には江戸日本橋の新乗物町に土地を所有し、店を構えていた。
 一方のチヨは元旗本の娘で、家柄的には元町人の中島家よりも格上だ。なんでも敦の祖父にあたる中島撫山のお気に入りだったそうで、才気煥発、明治時代にすでに教師をしていたような女性だった。当時は女性の就労に眉をひそめる風潮もあったが、田人の妹にも教師をしていた人もいるので、中島家でもこの点は特に問題視されなかっただろう。教師は女性が就ける数少ない「まっとうな職業」だった。もちろん、仕事なぞせず、十代で分相応の家に嫁ぐのが世間の「理想」だったわけだが。
 いずれにせよ、チヨのステイタスに問題があったとは思えない。
 だが、当時の中島家が“恋愛結婚”という形を許したかどうか。
 というのも、かつて御乗物師だった中嶋家は、幕末になると漢学を教える学者一家にジョブチェンジしていたのである。
 十二代清右衛門になるはずだった中島慶太郎は、家業を嫌い、漢学者・中島撫山(ぶざん)となった。
 そして、安政5(1858)年に両国に漢学の私塾を開いた後、維新の混乱を避けて埼玉県久喜市に転居。そこでも塾をやって、死ぬまで門弟千人以上を抱えたという。この時期には新乗物町の地図から中嶋清右衛門の名前が消えているので、土地は売り払ったと思しい。おそらくその対価で、十分な蓄えもあっただろう。
 中島家十三代目当主は敦の伯父・靖で、彼もまた綽軒(しゃくけん)を名乗り栃木県で漢学塾を開いた。こちらも門弟三千人を超していたそうだ。漢学塾なんてたいして儲からなさそうだが、これだけ人気なら話は別だ。
 撫山が漢学者を志したのは学問への志が高かったのと同時に、職人系商家の身分が嫌になったせいかもしれない。だが、結果的にはこれが中島家をして激動の時代を乗り越えさしめる妙策になった。もし、武家を主な取引先とする乗物師一本でやっていればお家も零落したはずだ。
 ちなみに、綽軒と田人は腹違いの兄弟であり、敦は傍流の人間ということになる。とはいえ、綽軒の母・紀玖が早くに亡くなったため、紀玖の子は二人、田人の母である後添えのきく(本名よし)の子は十人と、圧倒的に数で勝る。だから力関係は微妙だったかもしれない。
 とにかく、敦の生まれた頃の中島家は、長が漢学者、親類には学者、牧師、技官系軍人、高級官吏、女性教師と、いわゆる「どこに出しても恥ずかしくない仕事」をする人たちがずらりと並んでいた。おまけに子女の嫁入り先も医家ばかり。どう考えても「お固い」を通り越してガチガチの岩石一家なのだ。その上、一族の結束までも固いときている。
 このタイプの家は、しばしば嫁いできた人間にとっては針のむしろになる。
 田人は12人兄弟の下から3番目、しかも一介の田舎教師に過ぎなかった。おそらく、一族の中ではあまり発言権がなかっただろう。そんな味噌っかすっぽい子が“恋愛結婚”をした時、相手がいくら以前から付き合いのあるしっかりした家のお嬢さんとはいえ、面白くなく思った親戚がいてもおかしくない。ゆえに、中島家の誰かがチヨをいびり倒し、結果として離縁につながったのではないか、なんて想像してしまうわけだ。
 念の為言っておくが、根拠はある。
 そもそも大前提として、目を離せない時期の子どもを抱えた女性がおいそれと不貞に走れるとは到底思えない。体力的にも時間的にもそんな余裕はなかろう。
 中島敦研究の第一人者である川村湊は『狼疾正伝』でチヨの不貞を「ありうること」としているが、初めての子育て真最中の女性に浮気する余裕があるかどうかに思いが及ばぬ辺り、やはり男性だなあと思う。男性は乳飲み子がいたところで浮気し放題ですからね。後年の敦もそうでしたし。
 ま、敦の浮気については追々述べるとして、もうひとつ傍証になりそうなのが正式な離婚の時期だ。届け出が出されたのは、撫山の死後なのである。チヨは撫山のお気に入りだった。だから、生前は彼女を守る盾になったことだろう。だが、それが失われると、途端に正式離婚の運びとなった。
 中島家の人々はとかくチヨを悪く言っていたらしい。「頭はよかったが家庭的ではなかった、針一つまともに持てなかった」なんていうのは、いかにもいびり出す方がつけそうなイチャモンではないか。
 ところが、みんながみんな敵だったわけではない。あろうことか、田人の母、つまりチヨには姑に当たるきくだけは、「只々身からでたさびとはいえ、余りにかわゆそうに候」と庇うような言葉を手紙にしたためているのだ。
 これって不思議じゃないですか?
 普通に考えて、嫁が不貞を働いたなんてことになったら、姑は排斥運動の急先鋒になるものだ。同情なんぞするわけがない。「身からでたさび」が何を指すのかは、どこにも書かれていないのでわからない。しかし、離縁の原因は尽く女性の不手際に帰せられる時代である。ものすご~くしょーもないことでも「身からでたさび」扱いされたっておかしくない。いずれにせよ、姑のきくにとって、この離婚は同情に値するものだった、という点は見逃せない。
 さらに、田人はチヨとの復縁も考えていたらしい。もし不貞が原因なら、サレ夫が復縁を望むってのは、ちょっと考えづらい。妻が夫の不貞を許すのは経済的原因が主だが、男性はその点からは自由だ。つまり、女性よりよほど裏切りに対して非寛容に振る舞える。それなのに田人が一年ほど籍を抜かなかったのはなぜなのか。ほとぼりが冷めればチヨを家に戻そうと考えていたからではないだろうか。
 田人がチヨへの恨み言を広言し始めるのは、チヨから離婚を急かされるようになってからだ。さらに、数年後には幼い敦をそっとチヨに会わせている。心底憎んで離縁した妻なら、こんなことはしないだろう。
 色々と考え合わせると、チヨは一部の親類に結婚の経緯やなんやかやを嫌われて「家風にあわない」とかイチャモンをつけられたあげく、いびり出されたような気がするのだ。旧弊な家だと、夫婦の間柄を直接関係ないはずの親族がややこしくすることなど、日常茶飯事である。
 一方のチヨといえば、当初は田人との復縁を望んでいた。こちらは子を手放す辛さが理由だったかもしれないが、最終的に叶わなかった。両家話し合いの席で、復縁に強固に反対する親戚がいたのだ。反対者は敦が「斗南先生」という小説に書いた変人の伯父・端蔵とも、生涯独身だった叔母・志津というもいう。この二人は中島家の中でも特に頑固で癖の強い人たちだ。タカの回想によると、これが原因で田人は生涯志津にはいい感情を持っていなかったというから、夫婦は案外生木を裂くような別れ方だったのかもしれない。
 と、ここまで読んできて、「なんで『文豪の死に際』なのに、親の離婚にここまでこだわるの?」と思ったかもしれない。
 そりゃあなた、スキャンダルといえば格好のネタ……というのは嘘で、敦の後半生を支配した「甘え」に、「母の不在と親戚内での悪評」が大きく影響したように感じられる節があるからだ。
 こう言ってはなんだが、成人後の敦は、難治の持病があったという同情すべき事情を考慮に入れても、社会人、そして家庭人として眉をひそめたくなるような行動が多い。
 小説家として身を立てることを熱望していながらも中々行動に出なかったのは、雌伏というより、己の才能に対する結論を出すことからの逃げだったように感じないでもないのだ。そして、その“逃げ”の感情の源には、彼の「甘え」があったのではないか。
 どうにもそんな姿が透けて見えてくるのだ。
 本人にもその自覚はないでもなかった。

「人生は、何もしないでいるには長過ぎるが、何かするには短すぎる」? 何を生意気を言っているんだ。長過ぎるか、短か過ぎるか、とにかく、それは何かやって見てから言うことだよ。(「狼疾伝」)

 何もやっていない自分に批判的な目を向けている。しかしながら、やっぱり具体的に動き出せない。結局、きちんと自己批判できていることに満足してしまう。満足するから、また何もしなくなる。これは「甘え」の典型例であり、悪循環である。
 悪循環だが、循環エンジンの燃料となる「甘え」はいくらでも手に入った。父は我が子を母なき子にしてしまった負い目を感じていたのか、敦には遠慮がちだったし、親族は母のない子のために何かと援助してくれた。斜に構えて孤高を気取っていても、周囲は許してくれるのだ。高等遊民製造装置のような環境からは、よっぽどの覚悟で一念発起しない限り抜け出せるものではない。そんなドツボに、二十代までの敦は沈み込んでいたのではないかと思うのだ。
 次回は、そんな前半生をじっくり観察してみたい。

注1:湿性肋膜炎
胸膜腔に滲出液が溜まる病気、現在は胸膜炎と呼ばれる
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