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もっと文豪の死に様

第2回

中島敦――「甘え」の海でじゃぶじゃぶ泳ぐ(中篇)

2022.01.28更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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前編からの続き

 十代の敦は「母なき子」たる自分の境遇を利用していた。父や親類が不憫に思って遠慮がちなのをいいことに、「甘えの構造」に首まで浸かっていたのだ。
 前回はそんな結論で終わった。
 ところで「甘えの構造」というのは、当然ながら私の造語ではない。昭和46年(1971)に出版された土居健郎(注1)の『「甘え」の構造』で提示された概念だ。本はベストセラーになり、一定の年齢層には説明の必要もないほどよく知られている。
 では、土居が見出した「甘え」とはどんなものなのだろうか。
 甘えの始原は「乳児が、母親が自分とは別の存在であると知覚できるようになった段階で、母親が自分の生存になくてはならないものだと感じ、母親に密着しようと求めること」にあるそうだ。それが「分離の事実を否定し,分離の痛みを止揚しようとする」精神活動につながっていき、「甘え」という精神作用になる。
 らしい。
 なんのこっちゃという話だが、この手のもっともらしい、もとい、心理学的な説明をせずとも、「甘え」という概念を理解するのは日本人にとっては難しいことではない。
 親の脛をいつまでも齧っている子は「親に甘えている」。
 人から思わぬ厚意を受けたら「お言葉に甘えまして」。
 不遇を社会や他人のせいにする人間には「甘ったれるんじゃない!」。
 日常にあふれる言葉である。
 噛み砕くと、甘えとは自分の価値を他者から受けた行為/好意/厚意の質と量で推し量ろうとする心理と、そこから生まれる言動と言っていいだろう。つまり、他人から特別扱いされることで「自分は他者に認められた、必要とされる存在なのだ」と安心し、自己肯定感を得ようとするわけだ。
 さらに、同質性の高いホモソーシャルに所属することで相互に依存し、よく言うなら助け合い、悪くいうなら馴れ合うことで世を渡っていくのも「甘え」の一形態である。そしてこれは日本ではよく見られる光景だ。
 そうしたちょっと意地悪な視点で敦の生涯を見ていくと、彼が「他人から特別な好意」を引き出しながら世を渡る術に長けていたことが見えてくる。
 そう、彼は天下の甘えん坊将軍だったのだ。
 だが、もし生前の敦に「あんたは大した甘えん坊ですな」と指摘しても、絶対納得しなかっただろう。特に十代だとめちゃくちゃ反発したに違いない。なぜなら、彼は自分を「誰にも甘えられない人間」と考えていたに違いないからだ。

 その頃彼ははじめてハモニカを吹くことを覚えた。夕方になると、その金属の冷たい手触りを喜びながら、植民地の新開地じみた場末の二階の窓から、茜色の空を眺めてはハモニカを吹くのであった。彼は十七歳であった。一匹の黒猫を例外として、彼は誰も愛さなかったし、また誰にも愛されなかったように思われる。

 自伝的小説「プウルの傍で」に出てくる一節だ。
 暮れなずむ町の光と影の中、寂しさを噛み締めながらハモニカを吹く青年。
 昭和青春ドラマ定番シーンの原型ともいうべき光景が、こんなところにあったとは……。しかし、敦が昭和期ベタの原型になったとしても、私は驚かない。なぜなら、彼は戦前エリートの典型のような青春時代を送っているからである。
 現在では「山月記」や「文字禍」など、ファンタジーやSFっぽい作品が代表作とされているせいで一般的には私小説作家のイメージがほとんどない敦だが、二十代には自分をモデルにした習作を書いている。私小説バンザイだった当時の文学青年としては当然の流れだ。こういっちゃあなんだが、敦はやることなすことすべてが基本「ベタ」なのだ。
 もちろん、多くの私小説がそうであるように、事実関係に多少の変更は加えられているが、少年時代の思いはそのまま息づいているだろう。
 母がないばかりか、母の思い出すら聞けない子として育った敦は、心の隙間を抱えたまま思春期に入り、鬱屈した。一族の中でタブー扱いされる生母、なんてものは、子の心をささくれさせるに十分である。
 だが、「誰にも愛されな」いは、完全に彼の思い込みだ。そう、敦は父親から十分な愛を受けていた。それもゆりかごから墓場まで。

 昨夜汽車中は、至極元気に有之、何の難題も申さず候、家に着いてからも、機嫌よく遊びこれまた至極静穏に有之、これならば、さしたる事もなからんとかと存じ居候ところ、就寝後一二時間たつと、徐にむづかり始め、ついには「カアチャン何処へ往った」「カアチャン処へ往く」といって駄々をこねるには実に閉口いたし候。いくらなだめても、すかしても泣き已まず、ただ泣き疲るるのを待つのみに有之候。「カアチャン」と泣かるるごとに、腸を寸断せらるる想い、男泣きに泣き申し候。

 これは明治44年に田人が友人の関若之助に宛てて書いた手紙である。綿々と綴られているのは、チヨと別れた直後の敦の様子と、自分の心情だ。「「カアチャン」と泣かるるごとに、腸を寸断せらるる想い、男泣きに泣き申し候。」この文章に、父親としての情けなさ、子への申し訳なさが溢れ出ているではないか。続く文章にも、敦への深い思いを感じさせる記述が続く。
 だが、これよりも父の愛をダイレクトに感じさせるものがある。
 敦の死に際して詠まれた詩だ。名作なので、全文引用しようと思う。

 哭児
 長かりし雌伏十年、時到り、将に雄飛せんとして吾が児は逝きぬ
 吾子逝きぬ、あゝ吾子逝きぬ、夢抱き、光望みて、吾子逝きぬ
 いかばかりくやしかりけん、いかばかり苦しかりけん、吾子の心は
 千鈞の大鉄槌は下されぬ、吾が脳天のその真ン中に
 いかなりし前世の業ぞ、かくばかり我を苦しめまた苦しむる
 足はなへぬ、杖はた折れぬ、いかにか行かん、荊棘の多きに
 老人とて泣きてや已まん、遺されし幼児二人の将来おもえば

 悲哀ここに極まれり、だ。
 しかも、田人の場合、口でばかり子を思っていたのではない。行動でも示していた。
 敦は幼年から少年時代にかけ、父の転勤で日本各地のみならず朝鮮半島まで、数年単位で点々と居を移す生活を余儀なくされている。さらに、継母さえ二度も変わり、そのどちらともうまくいかなかった。気持ちの優しい田人は、さぞ胸を痛めたことだろう。
 後年、成人し、家庭まで設けたのにどこか腰の定まらない息子にできる限りの援助をしているのは、その償いと考えていたからではないか。
 一方、敦はというと、先ほど引用した通り、自分は愛されていないと思い込んだ。では、なぜそう思い込んだのか。簡単にいうと、すねていたのである。父の愛を一身に受けられない状況を。

 ある朝、父が、新しい母のこしらえたおみおつけを賞めるのを聞いて、三造は顔色を変えた。今まで、父はおみおつけなど少しも好まなかったことを三造は良く知っていた。彼は自分が恥ずかしい目に逢ったように感じて、急に箸をおくと、お茶も飲まないで、鞄をさげて、外へ飛出した。もう家の奴なんかと口はきくまい、と彼は考えた。(「プウルの傍で」より)

 ガキかよ、って話である。まあ、ガキだったのですが。
 そりゃ、父とて新妻のご機嫌取りぐらいする。まして田人は優しい質だ。継母を迎えなければならない息子も大変だが、いきなり生さぬ仲、なおかつややこしい年頃の男子を押し付けられた妻だって大変だ。料理のひとつぐらい褒めようというものである。
 しかし、敦は、父が自分以外の対象に気を使い、愛情を示すのが耐えられなかった。
「父の愛」が新しい家族に移ると己の生存に関わると無意識のうちに悟ったのかもしれないが、幼子ならともかく、この時の敦は十代半ばである。それこそ「甘ったれるんじゃない!」だ。
 なお、「プウルの傍で」を書いたのは24歳の頃。「また誰にも愛されなかったように“思われる”。」と語尾で多少のバッファをつけているのは、おそらく己が誰にも愛されなかったなんて全くの思い込みだとすでに気づいていたからだろう。
 さて、ここで、再度『甘えの構造』を見てみよう。この時の敦の心理にぴったりな解説があるのだ。

「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係している。すねるのは素直に甘えられないからそうなるのであるが、しかしすねながら甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」というのはすねの結果起きる現象である。ひがむのは自分が不当な扱いを受けていると曲解することであるが、それは自分の甘えの当てがはずれたことに起因している。ひねくれるのは甘えることをしないで却って相手に背を向けることであるが、それはひそかに相手に対し含むところがあるからである。したがって甘えないように見えて、根本的な心の態度はやはり甘えであるといえる。

 ほんこれ(注2)、というしかない。
 実母を知らずに育った敦は、‟父”と“母たち”についてこんな風に書いている。

 三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生まれたばかりの児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさを感じていた。が、やがて、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。(「プウルの傍で」より)

 まず、実母を「生んだ女」と表現する異様さが目につく。この表現に、敦が実母に抱えていた複雑な思いがにじみ出ているのは、誰が読んでも気がつくところだ。育ての母であった人の死に対しても冷淡だ。そして、第三の母に至ってははっきりと「憎んでいた」と書いている。
 では、父はどうだったか。

 そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向かって見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。(「プウルの傍で」より)

 自分ではなく、横入りしてきた新しい母に笑いかける。ゆえに父も憎しみの対象となった。心理学者ならずとも、この主人公がはげしく肉親の愛に飢えていたことが手にとるようにわかる記述だ。この後も作品中で父や母たちに対して延々恨み言を述べているのだが……。

 うらむのは甘えが拒絶されたということで敵意を向けることであるが、この敵意は憎むという場合よりも、もっと纏綿としたところがあり、それだけ密接に甘えの心理に密着しているということができる。(『甘えの構造』より)

 父は、父としてできることは精一杯してやっている。けれど、それをまっすぐ受け取れない年齢だったし、二人の継母とのこじれた関係が成熟の邪魔をした。
 とはいえ、正直いうと、継母らの性格にもかなり問題があったのだろう。
 田人は敦の実母チヨと正式に離婚した同日、紺屋カツと婚姻届を出した。カツは奈良県天理市の出身で、大和郡山にある女学校で裁縫教師をしていたそうだ。田人は奈良の学校で教鞭をとっていたので、そこで縁を得たのだろう。結婚当時カツは28歳。当時、この年令で初婚は珍しいが、背景に家庭の経済事情があったようだ。
 28歳というそこそこ落ち着いた年齢で、しかも教師として働いていたのだから、ある程度世知にも長け、子どもにも慣れているはずだ。それなら、ようやく小学校に上がろうという稚い継子相手でもうまくやっていくに違いない、と田人は期待したのかもしれない。だが、豈図らんや、カツと敦はうまくいかなかった。

 カツさんについては、おやつにキャラメル一個だけだったことなど、「どんなにひどい親でも実の母が欲しい」と言ったのを聞いております。(中島タカ「思い出すことなど」)

 最後まで「親子」になれないまま、カツは敦が14歳になった年に世を去った。難産の末の死だった。敦は、再び「母」を失った。
 翌年、後々妻として飯尾コウが嫁いできた。大阪の裕福な染物屋の娘で、名門女学校を出ている才女、かつ幼稚園教諭をしていたような人だった。
 今度の妻こそ、敦とうまくやってくれるかもしれない。田人は、祈るような気持ちで再々婚したのではないだろうか。
 だが、望みは虚しく潰えた。コウはカツに輪をかけたヒステリー気質だったらしい。もっとも、敦への当たりはカツほどきつくはなかったようだ。敦がすでに青年に近い年齢に達していたからだろう。その代わりといってはなんだが、まだヨチヨチ歩きの異母妹がいじめの対象になった。敦は、異母妹に複雑な感情を抱いていたように書き残しているが、それでも父を同じくする幼子が邪険にされるのを見て落ち着かない気持ちになったことだろう。敦は妹へのいじめに無関心でいられるほど冷たい人間ではない。ただ、当時は積極的に関わろうとはしなかったようだ。どうすればよいのかわからなかったというのもあるだろうし、この時期から親類宅に奇遇したり、学校の寮に入ったり、親元を離れて生活するようになったからだ。
 敦が生まれついての文学的秀才だったことは間違いない。だが、文学に接近するような一種の精神的不安定さを抱えたのは、母たちとの葛藤があってのこと。実母の不在は父への依存度を高め、しかし継母の存在で思うように甘えられなかった結果、反動として父母に敵対心を抱くようになった。だが、その敵対心が甘えの一形態に過ぎないのは引用したとおりである。
 敦は、生来感じやすく、頭の良い子供だった。そこに「甘え心」が満たされない状況が重なったことで、彼は思考を好む、ちょっとひねくれ気味の人間になった。
 内面の複雑性と、学者一家の一員という文化的な環境が重なった結果、「作家志望の中島敦」が生まれたのだ。
 けれど、それだけでは作家になれるはずもない。
 知性を花咲かせるだけの「個性」が必要だ。
 そして、敦はそれも持ち合わせてはいた。
 当時の価値観でいえば、帝大まで行って文学をやろうなんていう男は、確実に変わり者だ。けれども、変わり者過ぎるわけでもなかった。学内でうまくやれたし、友達も多かった。
 頭がよく、個性的だけど、学生生活を屈託なく謳歌できる程度には普通の感性も持ち合わせている。いわゆる「陽キャ」(注3)だ。
 意外に思うかもしれないが、この言葉が彼の性格を説明するのに一番ふさわしいように思う。内面には色々と抱えているけれども、表面的には陽キャ。国民的作家になるには、このぐらいのさじ加減がちょうどいいのだ。

 ただ明るいだけの凡人ではもとより問題にならない。だが、あまりにも変人過ぎたら、誰もその人を理解できない。さらに、人を寄せ付けないタイプの変わり者は、世に出ることすらできない。
 よほどの飛び抜けた、それこそ百年に一度レベルの天才でもない限り、認められるにはどこかに人間としての「可愛げ」や「愛嬌」が必要だ。敦はそれを備えていた。いうなれば「人好きする変わり者」だったのである。
 だが、当人的には自己キャラを「誰とも相容れない、超スペシャルな存在」と設定したかった。

 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃たのむところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。(中略)下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。(「山月記」より)

 有名な冒頭である。意固地で尊大でプライドばっかり高い、という難儀な性格を格調高く表現するとこうなるわけだが、当然ながら李徴は敦の一面をクローズアップした分身である、とされている。

 渠が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微かな声で呟いているのである。「俺はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使だ」とか。(「悟浄出世」より)

「悟浄出世」は西遊記の沙悟浄を借用した教養小説だが、悟浄もまた敦の分身だ。李徴よりはいくぶんソフトで自己嫌悪が勝る性格だが、「俺は堕天使だ」という言葉選びに厨二臭い……もとい「我いと高きものなり」精神が見え隠れする。
 敦の作品には他にも自身を投影したキャラクターがいる。そして、その一々が繊細であるがゆえに孤高で、誰の理解も得られることに苦しみ、だが大衆に迎合するぐらいなら死んだほうがまし、と澄ましかえるキャラクターとして造形されている。
 だが、しかし。
 現実の敦は、陽キャだった。温泉場でコスプレしてはっちゃける程度に。

 中島さんとは一緒に旅行にも出ました。昭和八年八月には、三国峠から猿ケ京温泉、四万温泉と廻りましたが、三国峠で忠治張りの扮装をした写真が残っています。(飯塚充昭「横浜高女同僚として」)

 そして、理解者も多かった。

 とにかく中島さんは私にとって魅力ある存在であり、意外とおしゃれな面も見せられ、丸善で英国製の外套など買っていたことなども思い出します。趣味なども豊かで、将棋は名人級と言えるのではないでしょうか。決して秀才ぶったところが無かったことも、私にとってその付き合いを何時までも忘れることのないものにしていると思うのです。(三好四郎「中島敦先輩のこと」)

 他にも敦の思い出を語る人々の証言なり手記なりを見る限り、どうにも彼が自分でいうほど性狷介だったとも、理解し難い人間だったとも思えない。
 それは人間性のみならず、文学性にも及ぶ。彼の文学には、むしろ大衆に理解されやすいある種の「普通さ」が感じられるのだ。
 と、書くと誤解されそうなので念押ししておくが、凡才と言っているのではない。感性において、大衆に受け入れられる普遍性を備えていたという意味だ。それを、仮に「普通」と表現している。
 たとえば、彼が繰り出す「韜晦」や「自己憐憫」といったカードの裏には、「僕ちゃん、こんな自分が大好き!」と大書してある。これは近代の文士、特にナンバースクールから帝大コースに乗っていたエリート層には標準装備の「甘え」であり、特段珍しい心理ではない。(なお、「甘え」概念を“発見”した土居健郎もまた、旧制高校から帝大コースの人だったことは特記しておきたい)
 また、敦はエリート・ホモソ社会の鉄則は決して侵さない“常識”も備えている。「山月記」だって、李徴は虎になっても友を害しはしない。己の才を認めない社会に嫌気がさしたのだから、「うまくやっている人」代表として袁傪を頭からガブリとやってもよさそうなものだが、お互い厚誼を確認しあうだけである。
 そりゃあそうだろう。エリート・ホモソ社会では妻子を捨てて虎になるのはOKだが、同質性の高い友を害してはいけないからだ。エリートでもホモソの一員でもない私なんかは「You、喰っちゃいなよ」と思うわけが、それをやると人気カルト小説にはなっても、教科書には載せられなかっただろう。
 もっとも、中島作品で主人公が喰われちゃう話はちゃんとある。『古譚』のうちの「狐憑」だ。だが、あれだって、社会に見えない恩恵を与えるホモソ不適合者が処分される話と解釈すれば、むしろ「食べちゃう」=「成果だけ取り上げて存在は排除する」方が、中島が所属したタイプの社会においては正解だ。こちらは教科書には載せられない結末だが、それでも同じ文脈上にあると読めないこともない。どれほど過激であっても、「理解できない結末」には決してならないのが中島作品の妙味だ。
 これはつまり、彼が極めて常識人だったことを意味する。現在でも反道徳とか鬼畜系と呼ばれる無残な小説を書く人たちがいるが、彼らもその実態は大変な常識人であることが多い。道徳も常識も知悉していなければ、それに反するものなど書けないのだ。
 また、感性に関しても敦自身が思うほど特別ではなかったと思う。私小説中に己の鋭敏多感を示すため披露される幼き頃のエピソードも、目を剥くほど突出した感性かと問われると、若干首を傾げざるをえない。
 たとえば小学生時代、担任教師に「太陽はいずれ光を失い、宇宙は滅亡する」と聞かされた時、敦は大変な恐怖に襲われるも、周囲の大人は笑うばかりだった、と得意げに書いている。幼い己の感じやすさを誇示しているのだ。
 しかし、実は私も同じような経験がある。私の場合は「宇宙の果て」を想像すると恐ろしくなって、身体の震えがとまらなくなったという程度のものだが、おそらく子供が形而上学的未知と遭遇すると、たいていはこういう反応になるのではないだろうか。たぶん、敦が思っているほど特別ではない。
 また、彼の私小説や詩には、彼の教養の源となった古今の文学や哲学の徒を羅列する場面がある。
 たとえば「和歌でない歌」と名付けられた詩群の中の作品「遍歴」は、全節が「ある時は」で始まる定型詩全五十六行の大作で、「ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系に統べんともせし ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし」といった具合に自分が影響を受けた古今東西の偉人賢人をだらだらと並べるのだが、“敦ならでは”を感じさせる名前は特に出てこない。当時の帝大文系青年なら親しんでいて当然のラインナップである。
 もちろん、敦ほどの秀才であればすべてに目を通し、多くを得たのだろう。しかし、明治時代初期に青年期を過ごした文豪たちが、案内人のいない状態で西洋文明の海に飛び込んで自ら発見し、新しい文化を獲得していったのに比べると、マニュアル通りに進んだだけのように見えなくもない。
 ちなみに、ナンバースクール→帝大系の教養は、昭和30年代になるとエリートの手を離れ大衆化していった。そして、昭和50年代には「これだけは覚えておきたい」系教養となり、お手軽な文庫や新書で紹介されるようになる。私なんぞは、もっぱらその「大衆化した一般教養」の、さらに匂いだけを嗅いだようなレベルなので、敦に「お前には言われたかねーよ」と叱られそうだが、それでも前世代の到達した高みに比べると「普通」に見えてしまう。
 あくまで私の印象ではあるが、敦は間違いなく秀才で、鋭い感性を持っていたが、自認するほどの超個性はなく、むしろ底によい意味での普通さを持っていた。
 それが顕著に現れるのが、彼の詩や短歌だ。

 我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もいまだ得詠まぬ歌ぞ

 なかなかの大言壮語である。歌に自負はあったらしい。
 しかし、内容はというと、

 石となれ石は怖れも苦しみも憤りもなけむはや石となれ
 しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも
 あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふ他に途なし

 みたいな。下手っぴではないが、秀歌を見た時の、心を鷲掴みにされるような強い感覚は覚えない。
 一方、妙に無邪気な歌もある。

 あめん棒明るき鏡シャボンの香五月はじめの髪床の昼
 肉も未だ締らぬ仔獅子首かしげ相手ほしげに我が顔を見る
 肉白き蟹の巻揚味軽くうましうましとわが食しにけり

 こういった日常生活をそのまま詠んでいるような歌の方が、よっぽどおもしろい。おもしろいけども、“あの中島敦”の歌だと思うと……ではある。
 ただし、私には詩や短歌の良し悪しを判断できるほどの目はない(きっぱり)。
 そこで、専門家に聞いてみた。歌人の佐藤弓生さんである。何を隠そう、私は佐藤さんの大ファンである。と、まあ、それはさておき。
 佐藤さんのご教示によると、敦は本格的な歌人とは見なされないが、「文人短歌」のくくりで取り上げられることがあり、ユニークな作家性によって楽しく読める、というぐらいの評価が妥当であろう、ということだった。どうやら「おもしろくなくはないが、小説に比べたら今ひとつ」という私の感想は、そう大きく的を外していなかったらしい。
 では、なぜ「今ひとつ」になってしまうのかというと、結局のところやっぱり“普通”だから、というしかない。歌は小説より研ぎ澄まされた感性が要求される。
 彼の生活詠は、のびのびとしていて、微笑ましい。ただ、その微笑ましさには妙なあざとさがあるというか、今風にいうならインスタ映えを狙っているような感じがある。「こういう感じで日常を切り取ると、バエるよね」みたいな。そして、バエを切り取るために必要なのは切っ先の鋭さではなく、大衆と共有できる感性だ。
 たぶん、二十代の敦が作家になろうとして二の足三の足を踏んでいたのは、己のこうした“弱点”にうすうす気づいていたからではないかと思うのだ。
 本来、大衆の心を掴む文章を書けるのは創作者として弱点ではない。むしろ武器だ。だが、文学/思想的高みを目指す若者であれば、若気の至りで邪魔に感じてもおかしくない。
 敦の最初の習作は「北方行」という長編だ。主人公の黒木三造と、三造の叔母の愛人として登場する折毛伝吉は敦の分身とみなされている。彼自身が中国大陸を旅した時の経験を生かしている上、三造の幼い頃のエピソードなどはかなり現実に近い。つまり、私小説の面を持っている。ところが、途中から菊池寛の「真珠夫人」も真っ青なメロドラマ的様相を帯びてくる。だが、あくまでも内面描写にこだわるので、正直あんまりおもしろくない。今風にいうならクズモラ男である主人公に共感できるならばおもしろいかもしれないが、ドラマづくりとしてはまあ失敗と断じてよかろう。もし、どちらかに振り切れていたらそれなりのものになったはずなのに。
 迷った敦は、結局「私小説的文学性」、つまり当時の大ベタの方を選んでしまい、二十代の迷走が始まる。だが、そこに彼の適性がなかったのは、後の代表作を見れば明らかだ。
「自分は不幸だ」と思い込むことで得た過度の自己憐憫が、若き日の敦にとっては創作のミューズに見えたのだろう。しかし、そのミューズは、彼にとって女神ではなかったのだ。
 真の女神は、隣にいた。そして、迷走を支えた。
 妻・タカだ。
 タカとは22歳で出会い、大恋愛のうえ、すぐに結婚の意志を固めた。父と同じく、恋愛結婚をしたのだ。
 ただし、恋愛結婚とはいえ一族の人間関係内で完結した父と違い、敦は大学時代の放蕩の中で伴侶を見つけている。タカは通い詰めていた麻雀店の女給だった。愛らしく、家庭的で従順、何より耐え忍ぶことを知る女だった。我の強い母たちに苦しんできた敦にとっては理想だっただろう。己が虎なのか猫なのか迷う男にそっと寄り添ってくれる女性だった。
 けれども、タカにとって敦は理想の男だっただろうか。彼女は中島家のような家では、嫁として認められない階級の女性だ。しかも、一緒になると決めた直後にタカの親戚筋から横槍が入り、双方の家族を巻き込んだ騒動に発展した。
 それでも愛を貫いたといえばずいぶんとかっこいいが、敦がどこまで真面目に結婚生活のことを考えていたかというと、かなり怪しいところがある。
 というのも、田人が大学を卒業するまで入籍を認めない(常識的な判断だ)といい、自分もそれに納得したにもかかわらず、しばらく事実婚/通い婚をした上、子供ができてしまっても入籍も同居もしなかった。
 それどころか、妊娠したタカを実家に戻したまま、自分だけあちらこちらに旅行にでかけている始末。にもかかわらず、旅先からタカに説教をかますような手紙を出す。いや、君、身重の妻をほったらかしといて何を言うてますん、である。水平チョップお見舞い相当のいい加減さだ。
 ところがタカは恨み言を言うでもなく、遠慮がちに同居を促すだけだった。

 この頃桓ちゃん(注4)色々なことを言えるようになりました。マンマーマンマー、ブーブー、バーバー云って、毎日とても元気です。とても可愛いんですのね。自分の子って可愛いものですわ。あなたも顔を見るときっとかわいくなりますわ。(中島タカ書簡より)

 長男が生まれて半年。まだ入籍せず。「ほんと、お前いい加減にしろよ」と詰ってもいいところだが。

 あなたと同せいすることが出来なければ、横浜の郊外に間借りでもしておせんたくものや何かお手伝い出来たらいいと思っています。(中島タカ書簡より)

 タカはどこまでも優しく、控えめだ。なんだかもう、読んでいるこっちがもどかしくなる。
 とはいえ、子供までできたんだからさすがに就職しなければということで、敦もようやく仕事を探し始めた。しかし、「大学は出たけれど」なんて言葉が流行する昭和不況の下で、新聞記者という狭き門に挑んであえなく撃沈。結局はグランパのコネで横浜にある女子校の先生になった。ただし、非常勤。その上、独居。まだ一緒に住む余裕がないからと妻を実家に住まわせたまま、自分は大学院に進学しようとする始末だった。普通に考えてありえないし、踵落とし相当の身勝手さである。
 だが、田人とタカは許した。敦を心から愛していたから。
 そして、敦はその愛を当たり前のものとして受け取った。
 さらに、家父長制が敦の迷走を支えた。中島家は結束が固く、誰かが経済的苦境にあると一族の誰かが何らかの手を貸して、陰に日向に支えるのが常だった。なにせ、父の兄弟のうち、二人までは一生働かず学問だけして七十八十の長寿を全うしている。一族に高等遊民を許容する雰囲気があったのだろう。
 なんにせよ、当時は父が子を支え、妻が夫に献身し、一族がこぞってサポートするのは当たり前のあるべき家族像だった。家庭内にも個人主義が入り込んでいる現在とは、まったく違う。
 敦が作家を目指せたのは、こうした戦前の「家制度」に甘えられたからだといってよい。
 実際、彼のあまちゃん精神は妻子と同居を始めた後も存分に発揮されている。確かに病に苦しんではいた。だが、発作がない時は、横浜という日本随一のハイカラ都市での生活を満喫した。
 家で園芸、近所へのグルメ散歩、友人たちとは盛んに交際し、旅行や登山も楽しんだ。あまつさえ、生徒に手を出してラブアフェアまでやってのけている。休日に生徒と映画を見に行っては映画館の中でずっと手を握っていたりね。それ以上はなかった(そうな)ので、かわいいっちゃあかわいいものだが、教師としての責任感や倫理観など、そこにはない。なお、この浮気のせいで、献身の権化のようなタカが離婚を考えるほど傷ついたのは特記しておきたい。
 なんにせよ、こんな風に敦は“男の二十代”を謳歌した。他人にどっぷり甘えながら。
 舐めてるよなあ、と思わなくはない。
 だが、この謳歌ぶりがなければ、おそらく彼は国民的作家になれなかった。
 なぜか。
 この時期に育んだ友人知人たちが、敦の名声を不朽のものにしたからである。
 次回はいよいよ中島敦篇最終回。敦文豪化の最後のキーパーソンに登場してもらおうと思う。

 

注1:土居健郎
1920(大正9)−2009(平成21) 精神医学者。東京生まれ。東京帝国大学医学部卒。米国の医学校に留学後、聖路加国際病院の神経科医長などを経て、東京大学や国際基督教大学などで教鞭をとる一方、一般向けの著作も多くものした。
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注2:ほんこれ
本当にこの通りという意味のネットスラング。
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注3:陽キャ
明るく活発で友達の多いキャラクターを意味する若者言葉。要するにクラスの人気者。
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注4:桓ちゃん
中島敦の長男。たけしと読む。
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