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第4回

~永遠の繁栄を願った常緑樹の庭~ 南禅寺 金地院

2018.05.07更新

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元来、神社仏閣や日本庭園巡りは年齢層の高い人たちの趣味とされてきましたが、昨今ではSNSが身近になり幅広い世代が楽しんでいます。なかでも1200年の歴史がある京都はこの町でしか見ることのできない景色が残っており、そのひとつである日本庭園には様々な見どころがあります。本連載では、京都在住の庭園デザイナー・烏賀陽百合氏による、石組や植栽などの「しかけ」に注目して庭園を楽しむ方法を紹介します。
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臨済宗南禅寺派の大本山である南禅寺の塔頭。応永年間(1394~1427年)に北山に創建された寺を、徳川家康の政治顧問・以心崇伝(いしんすうでん)が現在の地に移築した。 「鶴亀の庭」と呼ばれる方丈前庭庭園は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作による江戸時代初期の代表的な枯山水庭園。背景の常緑樹も特徴的。

砂と石で風景を表現する日本独自の庭園、枯山水

 最近、海外でも枯山水の庭が人気だ。枯山水は英語で「Zen Garden(ゼンガーデン)」と呼ばれ、日本庭園と言えば禅の庭!というイメージが強いようだ。龍安寺の石庭はまさしく理想の日本庭園らしい。シンプルかつ美しく、その美しさはすぐに理解できるものではない。ゆっくりと庭を眺めて、その意味や作者の意図を考察する行為が、彼らにとって「禅」なのだ。
「Zen(禅)」という言葉も若い外国人には魅力的なようだ。20代のアメリカ人女性から「禅はカッコイイ言葉ってイメージで、I feel Zen !(アイフィールゼン!=禅を感じるわ!)とか、動詞としてI Zen (アイゼン!=禅してる!)みたいに使ったりするわよ」と教えてもらった。室町時代の禅僧が聞いたらびっくりするに違いない。禅は今やオシャレで、洗練されたイメージなのだ。
 枯山水は、それまでの日本庭園の歴史を180度変えた、画期的なスタイルの庭園。そして他の国で類を見ない、日本独自の庭園文化だ。水を一切使わず、砂と石を使って山水の風景を表す独特のスタイル。自然石や白砂のみを用い、荒波の中に浮かぶ島や、鯉が滝を登ろうとする様子や、荘厳な自然の景を表現している。
「枯山水」という言葉は、平安時代に書かれた庭園の作り方の指南書「作庭記(さくていき)」の中にはすでに登場しているが、今の枯山水とは違ったものだったようだ。
 枯山水の庭園様式が広がったのは、室町以降。禅寺の方丈庭園で数多く作られた。禅寺の方丈庭園は、元々は宗教的儀式を執り行うための場所だったが、時代と共に祭儀が行われなくなり、室町時代になるとその空間が庭園に変わるようになった。
 画期的だったのは、それまでは水を確保できる場所でしか作ることができなかった庭園が、枯山水の登場でどこでも作れるようになったことだ。特に禅寺はそれぞれの塔頭寺院が独立しているので、水の確保が難しい。しかし水を必要とせずに作庭できる枯山水の様式は、方丈の庭園としてぴったりだった。
 枯山水は、見る側に想像力と知識を必要とさせる庭園。背景にあるテーマやストーリーを予備知識として知らないと、庭の景色が見えてこない。しかし想像することで、庭が生き生きとして見えてくる。作り手と見る側との「共通認識」があってこそ成り立ち、庭を通して両者がコミュニケーションを図るという、かなり特異なスタイルだ。
 このような高度な庭園鑑賞の手法は、他のどの国にも見当たらない。西洋庭園は見た目に分かりやすい。ベルサイユ宮殿の庭園で見られる絢爛豪華な噴水や、整形庭園と呼ばれる植物を刈り込んで作った幾何学模様の庭園は、人の力が自然の力をも制することを誇示している。
 禅寺の枯山水庭園は「精神性」の方が重要視される。そこには日本人の美意識、感性、技術、知識などすべてが詰まっていて、それらを庭から読み取った時にこれ以上ない歓びを感じる。日本人として日本庭園文化に触れる、最高の歓びだろう。

徳川幕府の威光で集められた名石

 しかし日本の枯山水庭園の中にも、権力や政治力がチラリと覗く庭もある。岡崎の南禅寺の塔頭、金地院(こんちいん)の庭園は、徳川家の権威を表した庭だ。
 南禅寺の住職でもあり、徳川家康の片腕でもあった以心崇伝(いしんすうでん:本光国師、1569~1633年)が、自らの京都の住まいとして現在の地に金地院を再興させた。以心崇伝は徳川三代に仕え「黒衣の宰相」とも呼ばれた僧侶。徳川家のためにさまざまな政治的策略も行った人物だ。この寺院の名前を取って、金地院崇伝(こんちいんすうでん)と呼ばれる。
 彼は徳川家光の入洛に合わせ、ここに徳川家に相応しい庭を作るよう、当時幕府に関係する建築や庭園、築城を担当していた作事奉行(さくじぶぎょう:今の建設大臣のような役職)の小堀遠州(こぼりえんしゅう)に依頼する。小堀遠州の作と伝えられる庭は多いが、金地院のようにはっきり小堀遠州作と分かっている庭は珍しい。以心崇伝の日記「本光国師日記(ほんこうこくしにっき)」に、1627年(寛永4年)8月28日、小堀遠州に作庭を依頼した記述がある。
 崇伝はとても几帳面な人だったのか、日記には庭で使われた材料の詳細も記されていて、どの大名がどの石を寄進したか、という内容も書かれている。以心崇伝は当時権力の中枢にいた人物。彼の一声で全国の大名から次々と名石が集まった。
庭園左手の亀島の方には、紀州の青石が多く見られる。青石の中でも特に青みの強い緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、京都の庭園でよく使われた。また右手にある鶴島の鶴首に見立てた長い四角の石は、赤穂から運ばれた石と伝えられている。これだけ良い石がこの庭に集まっているのは以心崇伝の力と、家光の時代にはすっかり盤石となった江戸幕府の威光によるものだ。石から当時の権力のパワーバランスが見えてくるから面白い。

庭園左手にある亀島。真柏(しんぱく)の木と紀州の青石などを使った石組で亀を表現。

背景の常緑樹が「永遠の繁栄」を表す

 金地院の庭にはさまざまな意味が込められている。それらを知って、謎解きのようにこの庭を見ていくと、とても面白い。
 まずは、一番目立つ鶴島と亀島。昔から「鶴は千年、亀は万年」と言われ、長寿=おめでたいことのシンボルだった。そして鶴亀と来ると、セットのようによく作られるのが蓬萊山。蓬萊山は不老不死の仙人が住むと言われる伝説の山で、不老長寿ということからやはりおめでたいことのシンボル。お能の演目「蓬萊」も、おめでたい場面によく演じられる。

庭園右手にある鶴島。長い石は、鶴の首に見立てている。

 茶色の大きな平石は「礼拝石(遥拝石)」と呼ばれている石で、木々の向こうに建てられている小さな東照宮に対して置かれている。ここに東照宮があることはほとんど知られていない。しかし天井の龍は狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれたもので、由緒ある建物であることが伝わる。

金地院は徳川家ゆかりの寺院。苔むした小道を行くと東照宮が現れる。

東照宮に対して据えられた礼拝石。

 ここの庭の一番の特徴は、背景の常緑樹だろう。庭園の多くは落葉樹の楓などが植えられ、秋の紅葉シーズンには観光客が多く訪れる。しかし、ここは深い緑の鬱蒼とした木々が茂っている。それは常緑樹が葉が落ちないことから「永遠に続く徳川の繁栄」を表しているからだ。一見地味に見える庭だが、そのお陰でこの庭はどの季節に来ても静かで、ゆっくりと見ることができる。
 江戸時代の京都の名所名園を紹介した「都林泉名勝図会」に載っている金地院の図を見ても、今の庭園の姿とほとんど変わらない。江戸時代からの景色を楽しめる点でも、ここの庭はとても貴重だ。
 金地院には小堀遠州が改修した茶室「八窓席(はっそうせき)」もある。三畳台目の席で、京都三名席の一つだ。他にも、ここには長谷川等伯(はせがわとうはく)が描いた襖絵「老松(おいまつ)」と「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」の本物がある。「猿猴捉月図」は手長猿が水に映った月を手ですくい取ろうとした様子が描かれており、猿の毛並みがフワフワとしていて、なんとも愛らしい。
 金地院では、江戸時代の日本文化の煌めきを、庭や建築、絵画から実感できる。この寺院そのものが至宝だ。ここに来れば、日本人で良かったと実感するだろう。

「 永遠に続く徳川の繁栄」を表す、庭園の背景の常緑樹。

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著者

烏賀陽 百合

京都市生まれ。庭園デザイナー、庭園コーディネーター。同志社大学文学部日本文化史卒業。兵庫県立淡路景観園芸学校、園芸本課程卒業。カナダ・ナイアガラ園芸学校で3 年間学ぶ。イギリスの王立キューガーデンでインターンを経験。2017年3月にN Yのグランドセントラル駅構内に石庭を出現させ、プロデュースした。現在東京、大阪、広島など全国のNH K文化センターで庭園講座、京都、鎌倉でガーデニング教室を行う。また毎日新聞旅行で庭園ツアーも開催。著書に『一度は行ってみたい 京都絶景庭園』(光文社)がある。

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