第8回
なぜサボテンは「いい顔」をするのか
2018.09.06更新
【 この連載は… 】 植物選びの基準は「いい顔」をしているかどうか……。植物屋「Qusamura(叢)」の小田康平さんが、サボテンや多肉植物を例に、独自の目線で植物の美しさを紹介します。植物の「いい顔」ってどういうことなのか、考えてみませんか?
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雷血丸(らいけつまる)
鉢 寒川義雄
生きてきた時間、生きる必死さ
園芸植物には多様なジャンルがある。観葉植物やラン、山野草などそれぞれに奥深いと思う。叢はこれまでサボテンや多肉植物に特化し提案してきたので、サボテン屋だと思われているに違いない。そこで、僕がなぜサボテンにこだわってきたのかを書こうと思う。
僕が感じる植物の面白さの一つは、植物それぞれが時間をかけて個性的な表情を生みながら生長し、変化していく点である。したがって、崖っぷちに根付くマツの古木や山奥に潜むご神木のような大樹などもかっこいいなぁと感じるが(これらは盆栽やいけばなの世界でも評価されているはず)、毎年否応無しに滅多斬りにされる街路樹のプラタナスや、アスファルトを突き破りたくましく生きる名も無き雑草なども興味をそそられる。むしろ植物の凄みを感じるのは後者の方だ。しかし、これらにどんなに興味を持ったとしても、空間を構成する要素としてこちらの都合で取り入れることはできない。それらはその場所で息づいており、表現として鉢植えにしたり、空間を演出したり、流通に乗せるたりすることは不可能に近い。
では、小さな鉢植えの中でそれらに負けない表情を持つ植物は見つからないだろうかと考えた。たいていの植物は何十年もかかって生長した場合、何メートルもの高さになってしまう。何十年かけても鉢植えに収まることのできる植物は、人の手で小さな鉢にまとめ上げる盆栽か生長の極めて遅いサボテンくらいだろう。その中で作為性の高い盆栽は自分の性格に合わないため、必然的にサボテンが向いているなと感じた。サボテンはその性質から、人がいじくりまわさなくても勝手に生長する。本来、水分が極端に取り込みにくい乾燥地で育つために、すくすくと生長しづらいことに加え、乾燥地を耐え抜くために呼吸を制限し、太陽の出ている日中は呼吸を止める。光合成のメカニズムもやたら回りくどく、エネルギーを生長に変換する効率が極端に悪い。また、生長しすぎると無駄に体表面積が増えるだけでかえって致命的なリスクを抱えてしまう。だから多くのサボテンは年に数センチしか伸びず、小さな体の中に何十年もの時間が凝縮され、個性的な表情を生み出すのだ。
また、国内のサボテン園芸のバックグラウンドがとても特殊だったことも僕がサボテンに興味を持つことになった要因だと思う。日本のサボテン生産者は大きく分けて二つ。規格植物を大量に生産する市場出荷型生産者と、個人の趣味家だ。海外では前者のような生産者が大規模に生産を行うが、日本ではそこまで大きな生産者は数えるほどで、逆に後者の生産量はかなり多い。全国津々浦々、たくさんのプロ級の生産者さんたちが存在し、地域や個人の嗜好でそれぞれ扱っているサボテンの種類や育て方が異なる。基本的に商売を目的としていないためにハウスの中は多種多様の一言に尽きる。個人レベルで数万鉢を育てている方もざらだ。そんな趣味家を訪ねると、丹精込めて仕上がった美しいサボテンたちがハウスの中央に鎮座している。しかし数千、数万鉢もあるわけだからハウスの端にはあまり管理されずほとんど自力で育っている現地さながらのサボテンもころがっている。元々、極限に近い厳しい環境で育っているサボテンだから、管理されず放って置かれてもたくましくよじれながら生きる。そうした端っこで生きるサボテンに目をつけた。それらのサボテンは生きてきた時間がまざまざと肌に現れ、生きる必死さを感じさせてくれる。街路樹のぼこぼこのプラタナスや踏みつけられてもへこたれない雑草のように。だから、サボテンは「いい顔」をするのだ。
この連載は、「月刊フローリスト」からの転載です。
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