第19回
三島由紀夫――月の貴公子から太陽のタフガイへ(第6回)
2023.08.25更新
『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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あふれんばかりの才能を持ちながら、蒲柳(ほりゅう)の質であるがゆえに憧れの世界への扉は閉ざされ、「なりたいもの」にはなれなかった公威少年。
なりたいもの、それは頑強な肉体と精神を持つ超人的存在だ。
ただし、ここでいう「超人」とはニーチェ(注1)のそれではなく、戦前少年誌に登場する「強く正しく美しい日本少年」である。スクールカースト最上位でリーダーになれる程度の。そして、その少年は清らかに死んでいかねばならない。死こそが「少年なるもの」の純粋なロマンを完成させる唯一の方法だからだ。
私の死への浪曼的衝動が実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、つまり肉体的条件が不備のためだったと信じていた。浪曼主義的な死のためには、強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。十八歳のとき、私は夭折にあこがれながら、自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。そして私を戦後へ生きのびさせたものが、実にこのそぐわなさにあったということは、私の浪曼的な矜りを深く傷つけた。(「太陽と鉄」より)
筋肉とはすなわち「完全無欠なニホンショウネン」の象徴である。
健全な精神は健全な肉体に宿る、というところだろうか。
いくら才能があっても所詮は隠花。日に向かってのびのびと咲く花でなければ意味がない。
いや、花であってはいけない。
オトコは鉄でないと。
鉄そのものである軍隊に一兵卒として入るのは、夢を叶えるラスト・チャンス、のはずだった。しかし、チャンスは弱々しい体と父の意向、何より直前になって怖気づいてしまった己の怯懦(きょうだ)によって潰えた。
「太陽と鉄」は晩年に書かれた「総括・三島由紀夫」――今風に言えば「シン・ミシマ」的エッセイだが、己の想いを率直に、しかし三島らしい難解な言い回しと語彙で韜晦し、かつ巧みに自己像を都合よく改変しているのが興味深い。
彼を「戦後へ生きのびさせたもの」は、夭折にふさわしくない身体だった、と自己分析している。
しかし、それが単なる言い訳であるのは明らかだ。
彼を戦後に導いたのは、他ならぬ彼と彼の家族の「御身大切」だった。そして、それは後年の三島にとってアキレス腱になった。
なんにせよ、十代の公威少年が何者かになるためのほぼ唯一の希望だった「期待の新人作家 三島由紀夫」は父によって封じられている。よって、あらまほしき道は美しき日本少年としての死だけだった。
もし、戦火によって命を散らすことができれば――たとえ戦場でなくとも、せめて空襲ででも死ぬことができたら、「天才少年の夭折」という悲劇の一隅に加わることができるはず、だった。
けれども、戦争は終わってしまった。
残ったのは何者にもなれないままの自分だけだった。
「私の浪曼的な矜りを深く傷つけた」のは肉体ではなく、父に忤えず、入隊からも尻尾を巻いて逃げ出した自身の惰弱な精神にほかならない。けれども、肉体を持たなかった公威少年にとって、精神すらも弱いと認めるのはレーゾン・デートルに関わる。到底できぬ相談だったのだろう。だから、肉体――筋肉に集中することにした。言い訳も、将来の展望も。
内気さん、さようなら
学校卒業後は親の望み通り大蔵省に入省した。官庁の中の官庁・大蔵省に入ることが、息子が父にしてやれる最大の孝行だった。支配的ではあるが、同時に息子を溺愛する父でもあった。まもなく成人する息子を「坊や」と呼び続けるほどに。そんな父なりの愛を理解できない三島ではなかっただろう。
また、戦後すぐに家族の花園のような存在だった妹の美津子がチフスで亡くなり、手中の珠の予期せぬ早世に意気消沈する両親をこれ以上苦しめたくないとも思ったかもしれない。三島が家族思いの優しい人物であったことはまごうことなき事実である。
だが、それ以上に、大蔵省入省は父の支配から逃れるための最適解でもあった。父の官僚制度に対する積年のルサンチマンが成仏したことで、夢にまで見た専業作家の道が開けたのだ。
父は就職後も文学を諦めることなく、夜を徹して執筆に励んでいた息子が、通勤中に寝不足で線路に落っこちる事故を起こしたのを知り、命あっての物種だと悟って退職を認めたのだ、と書いている。「命あっての物種」とは、美津子を亡くしたことを受けての物言いであるようにも思う。しかし、やはり気が済んでいなかったらそうはならなかっただろう。
さて、では三島は父の変心を予測していたのだろうか?
もしかしたら、していた、のかもしれない。鋭敏な彼なら、父の心理を見透かしていたっておかしくない。父の軛から逃れる好機が到来したら、その一瞬を逃さないよう、面従腹背を貫き通していたのだろう。
事実、三島は父の知らないところで着実に文壇に近寄っていた。
戦後、わずかに残った学生時代には、執筆を続けるほか、生き残りの文学者たちを尋ねて回るのに時間を費やした。鎌倉の川端康成を訪ったのは昭和21年1月のことだ。
なぜ私が川端氏を訪問する勇気を持ったか、そのへんがどうも記憶があいまいなのであるが、紹介状も持たずに有名作家を訪問するほどの蛮勇は持ち合わせなかった私であるから、なにか私を力づける事情があったに違いない。(「私の遍歴時代」より)
わかりづらい言い回しだが、三島を評価する誰かが紹介の労を取ってくれたのだろう。
なお、戦後文壇の名(迷)場面として今も語り継がれている「太宰治に『お前の文学なんか嫌いだ』ってゆってやったぜ」エピソードもこの時期のものだ。
日本文学史上屈指の人気を誇る作家に「俺はお前なんか認めないよ!」と言い放ったのを誇らしげに書き残す。
なんという稚気。
なんという自己顕示欲。
ただ、さすがに自己分析は正鵠を射ている。
もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。(「私の遍歴時代」より)
太宰は“弱さ”を売りにする作家だ。戦前の少年誌的「日本男児」が内面化した理想だった三島にとって、まさに唾棄すべき執筆態度だったろう。……いや、むしろ「うらやましかった」のかもしれない。“弱さ”を臆面もなく利用できるその厚顔が。同じような弱さ、同じような道化性を抱えていたからこそ、“弱い道化”を“おいしいポジション”に昇華してしまった先輩作家に小面憎い思いがわくのを拭いきれなかったのではないか。
“弱さ”を売りにする手法は、日本の純文学畑のお家芸だった。今でもその風が残るほどに。しかしそれを完成させたのが太宰であるのは誰も否定できないだろう。
だからこそ後塵を拝する形になるこの道だけは絶対に行くまい。
その決意が結晶したのが「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」の言葉ではないか、という気がしている。
弱さを利用した太宰。
けれども、三島にとって弱さは捨てるべきものだった。それ以上に急所であった。彼は、とにかく強くならなければならなかったのだ。
青年期に入ると、少年期には親しい友にしか見せなかった鼻っ柱の強さを少しずつ表面に出し始めている。“弱さ”を脱ぎ捨てる時期が到来していた。
馬鹿笑いから始めよう
昭和23年、23歳になった三島は、念願叶い専業作家の道を歩みだした。
ただし、歩みはゆっくり着実だった。確信はまだ持てないでいた。
せっせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きていても仕様がない気がしていた。ひどい無力感が私をとらえていた。深い憂鬱と、すばらしい高揚感とが、不安定に交代し、一日のうちに世界で一等幸福な人間になったり、一等不幸な人間になったりした。私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか、というような疑問にさいなまれた。(「私の遍歴時代」より)
執筆活動をしながら、多くの時間は内省に向けられた。
多くの人が知的形成をある程度完成してそこで満足する地点で、私にとっては、知性が決して柔和な教養として現われず、ただ武器として生きるための手段としてしか与えられていなかったことを、発見しなければならなかった。(「太陽と鉄」より)
知性が生きるための手段。スクールカースト底辺でそれでも居場所があったのは彼が明晰な頭脳の持ち主だったからである。父の支配を逃れることができたのも突出した文才あったがゆえである。
けれども、彼が真に欲する「ホモソーシャルでの地位確立」は知性だけでは得られないものだ。
だからこそ、すべてを得るために、まずは知性だけでもなんとかなりそうな文壇で地位を固めなければならない。
昭和24年7月、最初の矢が放たれた。
『仮面の告白』である。
己の性的嗜好を含めた半生を赤裸々に綴った小説。
一見、日本の文学青年たちが大好きな私小説的露悪趣味に則っているようで、確実に一線を画す手法は敬愛する森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」に倣ったのだろう。けれども、それ以上に「三島由紀夫」という人間をどのように見せていくのか、つまりどんなイメージ戦略を取るのかを熟慮した上で書かれた作品である
少年誌的強さへの単細胞な憧れとホモソーシャルへの帰属欲求は、文学者の嗜好に合わせた「若きエロスの告白」にすり替えた。一神教由来のホモフォビアの影響を受けていない日本社会では、若き日の同性愛的傾向はさほど禁忌ではない。むしろ文学者にはちょうどよいセンセーショナリズムである。
案の定、世間は食いついた。
上流階級、そして知識階級としてのスタンスを保ったままの自己破壊(のように見える)行為は新進文学者にふさわしい。下衆過ぎたら彼が評価を得たい層から黙殺される。一方、高踏的過ぎたら大衆は興味を持ってくれない。
文学者としての高い評価を得ながら、筆一本で食べていくだけの大衆性を持つ。
アクロバティックな手法を、三島は自家薬籠中のものとした。
同時に「スター作家・三島由紀夫」としての自己演出もこの頃始まった。
文弱であることを否定する最初の手段は「バカ笑い」だった。
三島が不自然なほどの大笑いをするのは有名だったのだが。
また、二十五、六歳ごろから目立ってきた例の三島の大声笑いは次第に度を増し、まるで横ッチョにいる別の三島が代笑しているようなすっとんきょうな大爆笑をやらかすし、若い時代のあの能面今いずこと言うようになりました。(「倅・三島由紀夫」より)
父の直感「別の三島が代笑している」は正しかっただろう。大笑いしているのは倅の公威ではなく、自己演出された作家・三島だからだ。
高らかで明るい笑いは、健全で伸びやかな精神とそれが宿る屈強な肉体の象徴であり、タダシイニホンショウネンには不可欠だ。三島の肉体改造が始まったのは30歳ぐらいからなので、この時期はまだあるべき像に筋肉が追いついていない。そんな中、大笑いは演出として一番手っ取り早い。お芝居やラジオドラマを参考にすればいいわけだから。
呵々大笑は、「三島ここにあり」を示す手段であり、何事も笑い飛ばす大器と思わせる方法であり、月の貴公子ではなく太陽のタフガイであることの象徴だった。
三島の抜き差しならない運命は、高笑いによって地ならしされていったのである。
作家・三島由紀夫から男一匹・三島由紀夫へ
昭和26年12月。新進気鋭の作家として衆目集める存在になった三島は、朝日新聞特別通信員という位置づけで世界一周旅行に旅立った。この当時、当然ながら飛行機で行くわけではない。船旅だ。
ここで「太陽」と再び出会ったと、三島はいう。
太陽を敵視することが唯一の反時代的精神だった私の少年時代に、私はノヴァーリス(注2)風の夜と、イエーツ(注3)風のアイリッシュ・トワイライトを偏愛し、中世の夜についての作品を書いたが、終戦を堺(ママ)として、徐々に私は、太陽を敵に回すことが、時代におもねる時期が来つつあるのを感じた。
そのころ書かれ、あるいは世に出た文学作品には、夜の思考が支配的であり、ただ彼らの夜は私の夜に比べて、はるかに非耽美的であるだけのちがいにすぎなかった。(「太陽と鉄」より)
戦後、封じられていた不健全なもの抗権力的なものが一気に吹き出した。
それらは、戦争責任を誰かに転嫁したい時代の空気には、簡便な反権力の手段として歓迎された。本当の権力に逆らうほどの根性はないが、戦争中の沈黙を言い訳する程度の叛逆性を見せたい/見たい層にはとてもフィットした。
愛する国が破れたという理由で狂うものはいなかった。
人間を狂気に陥れ、死なせるのには、どれだけの大事件が必要なのか? それとも狂気は特殊の天分に属し、人間は本質的に決して狂気に陥らないのか? (「真夏の死」より)
無頼、デカダンが流行した。かつて「正しい」とされていたものたちを否定し、露悪的な逆張りをすれば、とりあえずはなんとかなる。きれいはきたない、きたないはきれい。三人の魔女たちが高速で円舞するような時代になったのだ。
三島の目には、とても俗悪な態度に映っただろう。それらは、あまりに安易なのだ。安易はひ弱に通ずる。マッチョを目指すなら、反逆の潮流に反逆しなければならなかった。
私は次第次第に、戦時中に自分の信じた夜に自信を失い、ひょっとすると私は終始一貫、太陽を崇める側に属していたのではないか、と考えるようになった。もしかすると、そうかもしれなかった。(「太陽と鉄」より)
それはそうだと思う。
ずっと、太陽に愛される少年になって、陽のあたる場所に立ちたかったのだから。
そしてもしそれが事実なら、今私が依然として太陽を敵にまわしていることは、そして私流の小さな夜を主張しつづけることは、時代へのおもねりにすぎないのではないかと疑われた。(「太陽と鉄」より)
おもねりは信念を持つ少年にとっては唾棄すべき態度だ。
なりたかった自分にもう一度再会し、素直に受け入れ、なりたかった自分になっていくために捨てなければならなかったこだわりを、太平洋を航行する船のデッキで浴びた太陽が溶かしてくれた。三島の言では「太陽と再会」し「和解」したのだ。
三島の洋行はたった五ヶ月である。その間にアメリカ合衆国、ブラジル、フランス、イギリス、イタリア、ギリシャと渡り歩いている。いかな頭脳の持ち主でも、たったこれだけで西洋文明のすべてを理解するのは不可能だ。
だが、異邦人になると、精神は解放されていく。
誰も自分を知らない街で、ここに在るのは単なる一日本男性。不純物であるからこそ際立つ己という個。
しらっこ公威を知る人はいない。平岡家の正嫡としての態度を求められることもない。
それは三島が生まれて初めて味わった真の解放感ではなかったか。
ギリシャは私の自己嫌悪を孤独を癒し、ニイチェ流の「健康への意志」を呼びさました。私はもう、ちょっとやそっとのことでは傷つかない人間になったと思った。晴れ晴れとした心で日本へ帰った。(「私の遍歴時代」より)
この旅で、確信を得たのだろう。
「三島由紀夫」を通して、平岡公威を彼流の「超人」すなわち「強く正しく美しい日本少年」にしていくことができる、と。ニヒリズムに囚われていた者が日の目を見るための自己補完を練ったという意味で、かの哲人とこの作家の思考の流れは似ている、気がする。
帰国後、文業はますます盛んになり、文壇での地位も揺るぎなきものとなった。大衆からの支持も得た。作家・三島由紀夫は完成した。
いよいよ、肉体に取り掛からねばならなかった。ようやく“男一匹”になれるのだ。
だが、肉体を得ただけでは解決しないことを、四十路に近づいた彼は痛感していくことになる。
注1 ニーチェ(1844~1900)
Friedrich Wilhelm Nietzsche
ドイツの哲学者。実存主義の先駆的存在。キリスト教倫理を弱者の奴隷道徳とし、人のうち強者である者の自律的道徳を上位に位置づけ、その具現者を「超人」とした。19世紀の社会に興った大衆支配時代への批判はファシズムを思想的に裏打ちする結果となった。著書に「悲劇の誕生」「ツァラトゥストラはかく語りき」「権力への意志」など。
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注2 ノヴァーリス(1772~1801)
Novalis
ドイツ前期ロマン主義の詩人、小説家。夢、死などを神秘的に、ロマン豊かに、繊細に描いた。著作に詩集「夜の讚歌」、小説「青い花」など。
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注3 イエーツ(1865~1939)
William Butler Yeats
アイルランドの詩人・劇作家。アイルランド文芸復興運動の中心人物であり、ケルトの伝説を使った幻想的な詩で知られる。1923年にノーベル文学賞を受賞。オカルティストであり、東洋にも深い関心を寄せた。詩集「アシーンの放浪とその他の詩」「塔」、戯曲「砂時計」「鷹の井戸」など。
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