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もっと文豪の死に様

第23回

【ブライハ・ラプソディ】坂口安吾――頼るもの無き子供時代(第1回)

2024.01.19更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 日本近現代文学史上で「無頼派」と括られた作家たちのうち、不朽の陰キャ御用達スーパースターと化した太宰治を除けばもっとも知名度が高いのは坂口安吾だろう。
 高知名度の理由は、出版各社や大型書店が毎夏開催する「夏の百冊」的企画の定番書であるからだと私は考えている。少なくとも私が学生だった頃は『堕落論』は必読書ぐらいの勢いで平台に置かれていた。大阪は天王寺にあった大型書店でアルバイトをしていたので間違いない。
 しかし、何ごとも滅菌一方になった21世紀JAPANでは、「人間は堕落する」と断言する書は悪書と判断されたのか、若者向けの夏フェアには入っていないようだ。しかし、「大人の男」向けと銘打った企画には採用されていた。正直、『堕落論』はいい大人になってから初めて読む本ではない(というかあれに感銘を受ける“大人”は相当ヤバい)と思うんだが、どういう形であれ今に読みつがれているのは間違いない。
 私のファースト安吾は、若干記憶に判然としない部分もあるものの「不連続殺人事件」だったように思う。これも夏フェア常連作だった。そして次が「堕落論」。はるか昔の記憶を手繰り寄せれば「不連続殺人事件」はおもしろかったものの登場人物が多すぎて辟易した、「堕落論」はなんかムカついた(ムカつきの理由は後ほど)ような気がする。
 そんなわけで高校生の頃はあまりピンと来なかったのだが、大学生になって「夜長姫と耳男」と「桜の森の満開の下」を読んで一気に印象が変わった。もろ好みだったからだ。同時にミステリーから幻想的な残酷物語まである作風の広さに驚いたわけだが、今になって思えば少なくとも戦後作品に関しては一貫しているのだ。
 安吾は、ままならぬ己にずっとイラついていた。
 そして、そのイラつきを、ありとあらゆる形に変換して書いた。
 生活上では自堕落な態度や奇矯な振る舞いとなって現れた。
 その結果、彼は無頼と見なされるようになったのだ。
 しかし、彼は本当に無頼だったのだろうか?
 もし、無頼の語義を文字そのまま読み下して「頼るもの無き」と解釈するのであれば、彼は決して無頼ではなかった。特に、49歳で脳出血死する直前は。
 だが、出生の地・新潟では、たしかに「頼るもの無き」日々を送っていたらしい。

本名に見る幼少期の不遇

 前回紹介した通り、坂口安吾は1906年(明治39)10月20日、新潟市西大畑町に生まれた。父は政治家にして地元代々の名士、後妻である母も大地主の娘である。ならば何一つ苦労することないのびのびとした子供時代だったかというと……。

 私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。(「石の思い」より)

 土地の名士とはいえ、内情はハリボテ状態だったらしい。
 ただ貧乏といっても赤貧洗うが如し、の環境ではない。庶民の子供よりは恵まれた生活を送っていた。
 たとえば、小学校の同級生だった人物は「安吾の家に遊びに行くと生菓子を食べることができた。でも安吾は普通の子が食べる駄菓子を好んだ。生菓子は飽きていたし、駄菓子は非衛生的であると禁じられていたからだ」と証言している。典型的なおぼっちゃまである。
 また、安吾の好物だった「おけさ飯」なる食べ物。茹で卵を白身と黄身に分けて裏ごしして飯にのせたものにダシをかけて食べる、一種のお茶漬け的食べ物であるそうだが、これなどは新潟市内の高級料亭で提供されていたものが元になっているらしい。高級料亭で接待を受けまくっていた父親が、レシピを家庭に持ち込んだのではないかとのことだった。
 そこで、先日新潟を訪れた際、料理の出どころ候補として名前があがっていた料亭に行ってみたのだ。
 そこは一見して最高級とわかる門構えの、よほどでないと敷居をまたげなさそうな老舗だった。もちろん、私のような塵芥が食事できるはずもない。だが、ありがたいことに敷地内には観光客向けのカフェが併設されていたので、そちらに入ってみた。
 立派な門から石畳が続き、母屋への入り口には人力車が置かれている。もちろん今は飾りだが、往時は出入りする客を待ち受ける車夫が並んでいたのかもしれない。
 梁や柱の太さといい、整えられた庭といい、見事のひと言である。この料亭は安吾の生家に比較的近かったので、幼き安吾坊ちゃんも入ったことはあるかもしれない。
 名士の子はいくら貧乏をしたといったところで、やはり生活レベルが違うのだ。ただ、世間が思っているほどは金持ちでなく、借金苦によって家内がギスギスすることもあったのだろう。
 それでも父母が愛情をたっぷり注いでくれていたのであれば、浮かぶ瀬もあっただろうが。

 私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。(中略)だから私は父の愛などは何も知らないのだ。(「石の思い」より)

 尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。(「石の思い」より)

 父の無関心は、名前にも表れているように思う。
 生まれた時に与えられた名前は炳五。
 名の由来は、丙午生まれの五男坊だから。
 実に雑な命名だ。
 もっとも、かつての日本では、子の命名は雑で当たり前だった。今のように親が姓名判断だなんだとあれこれひねくりまわし、“個性的”な名前を熟考するようになったのは戦後の習慣なのだそうな。
 大抵は生まれてきた順番(太郎次郎的な)や、生まれた時の状況(昭和元年生まれで昭一、朝に生まれたからアサなど)などを反映させる。旧家の場合、長男長女に与えられる名前は最初から決まっていることもある。
 もちろん、良い名前を与えようと頑張って考える親もいたことだろう。だが、願いを込めたところで、古典などに由来する凝った美名を与えられるのは学者や貴種の子ぐらい。庶民階級は、食いっぱぐれないようにヨネやきれいな子になるようにハナ、ぐらいが関の山だ。しかも、子沢山だと、階級関係なく下にいけばいくほど雑な命名になる。よって、13人も子ができてしまった家の12番目ともなると「炳五」になってしまうのも無理からぬことだったのだろう。
 ところで、子沢山富豪のほぼ末子という似たような境遇に生まれた太宰治の本名は修治なので炳五よりはマシにみえる。だが、兄たちが総一郎、勤三郎、文治、英治、圭治とそれぞれ家での立場や意味の通る名前を与えられているのに対し、ひとりだけ漫才師のまえだまえだみたいに「修める治める」と近似する語を重ねられているあたり、やっぱり雑になっているような気がしないでもない。
 だが、それでも「炳五」よりは愛がある気がする。
 というのも、炳五というのはどうにも語感が悪いからだ。ご存知の通り、甲乙丙を成績や等級などを表す語として使う場合、丙は三番目であり、あまりぱっとしない響きを持つ。安吾が生まれた頃、学校の成績表は甲乙丙丁表記になっていて、丙は落第の一歩手前だ。5段階評価だと2、私の高校での数学の成績と同じである。炳(丙)の字自体は五行説のうち火を表す語であり悪い意味はない。だが、小学校の悪ガキならぜったい成績の「丙」を連想して、どうかしたらいじめの種にしかねないと思うのだが……。地元では権勢を誇る坂口家の子息ならそんな心配は不要だったのだろうか? それとも、そんなことすら考えなかったのだろうか?
 ただし、安吾自身は自らへの冷遇は子沢山ゆえではないと考えていた。

 子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、しかし、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。(「石の思い」より)

 なんにせよ、親のこの一種の雑さが、安吾の人格形成に大きく影響したのは間違いない。
 新潟には「杉と男の子は育たぬ」なる諺があるという。
 風が強く雪の多い気候ゆえ杉は途中で折れてしまい大木には育たぬ、女が強い土地柄ゆえ男の子が軟弱になってしまう。そういう意味合いらしいのだが、単に気候が厳しい土地では生物としてより強い女児の方が生き残る確率が高い、ということもあるのだろう。坂口家の場合も、五男八女のうち女の子はみな育っているが、男の子で成人したのは長兄の献吉と四男の上枝(ほづえ)、そして安吾の三人だけだった。

安らぎを知らない子

 では、女だらけの一家で育った安吾は、三島のように大人しい子に育ったかというと、さにあらず。ガキ大将で、手に負えない暴れん坊だった。なぜそんな子になってしまったのか。理由は生来の性格に加え、親の愛情不足が原因と安吾は自己分析している。
 父は家父長制下の父らしく跡継ぎたる長兄のみ気にかけていた。
 母はなぜか安吾だけを嫌った、らしい。

私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷たい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。(「石の思い」より)

 だが、難産を理由に子を嫌うようになる母などいるだろうか。難産だったがゆえに産後は療養に入り、新生児と十分スキンシップが取れなかったせいで愛着形成が十分できなかった、というパータンは考えられる。
 けれども、むしろ彼女を襲っていた過度のストレスが「一番手のかかる子」をはけ口にしたのではないかという気がするのだ。
 過度のストレスとは、って? 
 借金苦? 
 病? 
 それらもあった。あったが、とんでもない事件が彼女の身に降り掛かっていたのだ。

私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違わぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上なのである)この三人のうち上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持って遊びにくる(「石の思い」より)

 は? 毒殺???
 坂口家って犬神家だったの???
 何があったのか詳細は書かれていないが、継母と継子の相克だとしたらいくらなんでも派手すぎる。警察沙汰になったとの記述も別資料にあったので嘘ではないのかもしれないが、それにしても……。
 なんにせよ、家族に殺されそうになるのは相当なストレスである。未遂に終わったところで心は深く傷つく。トラウマになってもおかしくない。そのストレスが溜まりに溜まれば、発散の矛先が一番むずかしい子に向かう、のはありえるのかもしれない。
 ただ、安吾のすぐ上の兄は、母はむしろ平凡な田舎の母親だったと証言する。母に対するひどい記述は安吾の僻みゆえだろう、というのだ。どちらが本当かはわからない。普通に可愛がられた兄にはわからない何かを、安吾は見ていたのかもいれない。
 ただ、安吾は純粋に母を憎んでいたわけではない。むしろ、距離があると信じていたがゆえに強烈なマザー・コンプレックス――俗にいうマザコンではなく、母なるものへの憎しみと猛烈な慕情を複雑(コンプレックス)に抱えたのは間違いなさそうだ。

 私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じていた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとと愛を感じており、海と空と風の中にふるさとの母をよんでいた。常に切なくよびもとめていた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂う気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもいたのであった。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であった。(「石の思い」より)

 ところが私の好きな女が、近頃になってふと気がつくと、みんな母に似てるじゃないか! 性格がそうだ。時々物腰まで似ていたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだろう!
 私は復讐なんかしているんじゃない。それに、母に似た恋人達は私をいじめはしなかった。私は彼女らに、その時代々々を救われていたのだ。所詮母という奴は妖怪だと、ここで私が思いあまって溜息を洩らしても、こいつは案外笑い話のつもりではないのさ。(「をみな」より)

 安吾は生涯にわたり「己の場所」を求めて試行錯誤を繰り返すことになる。
 その試行錯誤は、「母なるもの」を得られなかった結果、安定した精神の足場を得られなかったがゆえの行動ではなかったか。
 新潟随一の繁華な街で、富裕な家の子として育ちながらも、安らぎを得られたのはそこからすぐにある砂浜から見える日本海の光景を眺める時だけだったという。
 私も、先日その光景を見てきた。
 唱歌「砂山」に歌われる通りの、色彩に乏しい寂しげな景色だった。
 鈍色の海と荒れる波だけが心の原風景なのだとしたら。
 彼が無頼――頼るもの無き人間になったのも無理はない、のかもしれない。
 小学校での悪童ぶりは中学に入っても一向に収まらず、落第の危機が迫った結果、父はとうとう息子を東京に追いやった。
 多くの文学者にとって東京は憧れと希望の土地だ。けれども、安吾には「流竄の地」だったわけである。
 そして、本格的な心の放浪はここからはじまるのだった。

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  • みんなの感想

    ぴんこ

    なんともおもしろい!!!
    安吾のことが気になって気になって引き込まれるように最後まで読みました。
    そしてどなたかの数学の成績まで知ることもできました…
    とても読みやすかったので、これからゆるりとさかのぼって読ませていただきます(^^)

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