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もっと文豪の死に様

第22回

織田作、安吾、石川淳――ブライハ・ラプソディ

2024.01.05更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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ぶらい‐は【無頼派】
第二次大戦直後の一時期、無頼的姿勢を示した織田作之助・坂口安吾・太宰治・石川淳・檀一雄らの作家に与えられた名称。新戯作(げさく)派。
(「デジタル大辞典」より)

文豪=早死イメージを作った人たち

 「文豪の死に様」はそもそも「文豪は早死が多いっぽいよね」というあやふやな認識から始まったが、そのイメージ形成にはおそらく「無頼派」と呼ばれた作家たちが大きく寄与している。
 無頼派とは第二次世界大戦敗戦後に流行した一群の作家たちを一括りにする呼称だ。
 太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳などがその一員とされる。
 それにしても、無頼派とは内実がわかるようでわからん、なんともケッタイなグループ名である。
 たとえば、「白樺派」や「新思潮派」なんかは、そこに含まれる人たちが寄稿していた同人雑誌のタイトルを冠しているわけだから由来は明白だ。
 また浪漫主義や自然主義、あるいはプロレタリア文学なんかは、作品を裏打ちする思想の名前だからグループ名にふさわしいだろう。
 でも、無頼派の場合、「無頼」は雑誌名でもないし、思想でもない。あえていうなら「状態」とか「性格」? でも、そんなので括るのってあり?
 今更ながら疑問に感じたので、とりあえず、日本近代文学史上での定義を確認してみることにした。
 日本近代文学大事典の「無頼派」を引いてみると、こんなことが書かれていた。

敗戦直後の昭和二一年から二四、五年あたりにめざましい活躍をした一群の文学者たちに与えられた名称である。(中略)はじめは「新戯作派」という呼び名のほうが一般的であったが、しだいに「無頼派」の呼び名が広く用いられるようになった。

「新戯作派」もよくわからないが、続きにはさらに驚くべき記述があった。

いつごろから、誰が、無頼派ないし新戯作派と呼出したかは、はっきりしない。というのは、彼らがみずから無頼派、新戯作派を名乗って文学運動を起こしたのではない。(中略)つまり白樺派のような同じ学校の出身でもなく、また日本浪曼派のように同人雑誌に結集したのでもなく、自然主義のように共通の文学目標を持っていたのでもない。

 なんや、このないない尽くしはっ!
 本人たちが「ブライハやろーぜ!」と結集していたわけでもない。誰が言い出しっぺかもわからない。そもそも言葉の発生源すらわからない。
 それなのにいつの間にか会派扱いされていた、というのである。
 ナンノコッチャ。
 では有名無実なのかというと、当然ながらそんなことはない。日本近代文学大辞典には「これは読者たちが、みずからの願望によってつくりあげた幻想のエコールである。」と書かれている。
 なんかかっこいい!
 でも、よくわかんない。
 エコールって、フランス語で学校、ですよね? ということは、読者たちが勝手に思い込んで作った架空の学校、ってこと?
 ナンノコッチャ、Again。
 一言一句に引っかかってしまうのだが、このままだと話が進まないのでひとまず要約すると、戦争が終わって、それまで黒だったものが白、白だったものが黒に一夜にしてひっくり返ったのを見た若者たちが「大人なんて信じられるか!」となった気分に呼応した、あるいはそうした気分を刺激した小説やエッセイを書いた人たち、ということになるらしい。
 ちなみに「日本近代文学大辞典」のこの項目を書いたのは奥野健男氏だ。氏は太宰治を始めとする無頼派研究の第一人者だった文芸評論家なので、一旦この説をまるっと鵜呑みにする。ちなみに奥野氏は、あのとても便利なマジックワード「原風景」を文芸評論に持ち込んだ人でもある。ありがたい御仁だ。
 そんなわけで、とにかく無頼派の人たちは、当時の社会から「この人たちは無頼である」と判断され、勝手にグルーピングされた、ということになる。
 だが、無頼とはなにか。
 いや、もちろん言葉の意味は知っていますよ。でも、念のため辞書で確認しておきましょう。

(1)頼みにするところのないこと。また、そのさま。
(2)一定の職業を持たず、無法なことをすること。また、そのさまやその人。やくざ。
(3)期待通りでないものを、憎みののしっていう語。
(4)やすんずることがないこと。くるしいこと。また、そのさま。
(5)酒や女遊びにふけること。放蕩。
(日本国語大辞典より)

 無頼の一般イメージは(2)と(5)だろう。
 この二つを重ねると、破滅型のならず者、みたいな像が浮かび上がってくる。
 よって無頼派とは「文学的ならず者の派閥」というところでよろしかろう。今だったら「ナラズモノブンガク」とか表記しそう。で、妙にカクカクした変形のゴチやドットっぽいフォントを使うんだ、きっと。
 では、無頼派と目される太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳などはならず者だったのだろうか。
 太宰治はそうかもしれない……というか、作家としての表面的なイメージがそうなるよう、自ら仕向けている。それをやりすぎた結果があれだったと私は思っているのだが、この人に関してはさすがに別項を立てたい。
 そこで、坂口安吾、織田作之助、石川淳を見ていくことにしたのだが、その過程でちょっとおもしろいことに気づいた。
 よって、今回はこの三人を同時に取り上げ、それぞれの死を対比することで見えてくるものを探りたい。そうすることで、彼らをエコールの象徴とした戦後社会とはどんなものだったのかが浮かび上がってくる、と思うのだ。
 なぜその三人か、って? それは、彼らが昭和史を眺めるにふさわしい人生を送っているから。
 今、昭和の歴史は急速に忘れられようとしている。
 特に戦後すぐの時期に若者だった層がどんどん鬼籍に入っていく中で、当時の庶民が抱えていた戦争への複雑な感情が、ごく単純な二色に塗り替えられようとしている気がするのだ。これはとってもまずいことだし、同時代を生きた人たちへの侮辱にもなるだろう。
 後世の私たちは記述されたナラティブを慎重に扱うことでしか時代の空気を感得し得ない。今回は、その試みとしたい。

三人三様 凸凹人生

 さて、ここで三人のプロフィールを確認しておこう。

織田作之助(おだ・さくのすけ)
1913年(大正2)10月26日、大阪市中央区生玉前町に鮮魚商を営む父・鶴吉と母・たかゑの長男として生まれる。旧制高津中学を卒業後、31年(昭和6)に旧制第三高等学校に入学。文学活動に励むが36年には自主退学。30年(昭和15)に「夫婦善哉」でデビュー。戦後は大阪の庶民生活を書き人気作家となる。終戦時は32歳。肺病による喀血で47年(昭和22)1月10日に急死した。享年35。

坂口安吾(さかぐち・あんご)
1906年(明治39)10月20日、新潟市西大畑町に地元の資産家で国会議員の父・仁一郎と母・アサの5男、13人兄妹中12番目の子として生まれる。本名は炳五。19年、旧制新潟中学に入学したが2年で落第、翌年東京の旧制豊山中学に転校。25年、東洋大学印度哲学科に入学、同時にアテネ・フランセに通い語学を学ぶ。大学卒業後、文学活動に入り31年「風博士」で認められる。終戦時は38歳。戦後は小説からエッセイ、批評など幅広い分野で活躍。1955年(昭和30)2月17日、脳出血で急死。享年48。

石川淳(いしかわ・じゅん)
1899年(明治32)3月7日、東京市浅草区浅草三好町に銀行家で東京市会議員の父・斯波厚の次男として生まれる。6歳から漢学者で昌平黌儒官の祖父・石川省斎に論語の素読を学び、淡島寒月より発句の手ほどきを受ける。15歳の時に祖母はなの養子として石川家に入り家督相続人となった。1911年(明治44)旧制京華中学校に入学、16年(大正5)慶應義塾大学予科に入学するが中退、17年(大正6)旧制官立東京外国語学校仏語部に入学。20年(大正9)に卒業後は日本銀行調査部に勤務するがすぐに退職。その後、職を転々としながら文筆活動を続け、37年(昭和12)『普賢』で第4回芥川賞を受賞。終戦時は46歳。戦後は長きにわたり文壇で活躍し数々の賞を受賞。87年(昭和62)、肺がんで死亡。享年88。

 さて、いかがだろう。
 根っからの庶民だった織田作はともかく、安吾と石川の履歴はどうも無頼っぽくない。 むしろ大変ええ家のボンボン、なのである。
 おまけにガッツリ早死しているのも織田作だけだ。安吾も49歳で若いといえば若いのだが、平均寿命が60歳程度だった時代だったことを考慮すると極端な早死とはいえない。
 そして、石川に至っては現在の平均寿命レベルまで生きている。全然早死ではない。しかも、ばっちり名士として生きてきた。
 こうして見ると、無頼派とは一体? となりはしないだろうか。
 私は思いっきりなった。
 死への道筋はどうやらまったく異なる三人なのだ。しかし、少なくとも戦後のひと時は同じような道を辿っていたはずである。よって、そこを集中して見れば無頼派とはなんぞや、は理解できるだろう。
 一方、「一時期は同じ」でありながら、いったい何が違ってこれだけ異なる末路になったのか。そこを追求すれば「死」が何によってもたらされ、あるいは避けることができるのかがわかるのではないか。
 そんな仮説を元に、次回からはそれぞれの人生と文学をつぶさに見ていくこととする。
 まず初回は無頼派といえばこの人! の坂口安吾に登場してもらおう。「堕落論」で一世を風靡し、当時の若者を煽るだけ煽った男は、どのように世に出て、死んでいったのか。
 キーワードは「風」。
 お楽しみに。

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