第1回
叢という植物屋
2018.02.08更新
【 この連載は… 】 植物選びの基準は「いい顔」をしているかどうか……。植物屋「Qusamura(叢)」の小田康平さんが、サボテンや多肉植物を例に、独自の目線で植物の美しさを紹介します。植物の「いい顔」ってどういうことなのか、考えてみませんか?
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生きている植物には、生きてきた証と生きていく変化がある。
2012年、それまで13年間携わってきた花屋から転身し、叢(くさむら)という植物屋を立ち上げた。
花屋を営んでいた頃から、切り花も含め、サボテンや多肉植物、その他さまざまな植物と出会い触れていくうち、それらの造形の妙、進化の多様性などに心惹かれるようになった。そして見れば見るほど一つとして同じものがなく個性を持っていることに興味を感じていた。ただ、それと同時に、どうしてこんなにも素晴らしいものが世の中でもっと注目されないのか、なぜ美術館やアートギャラリーに並ぶことがないのかを不思議に思うようになった。魅力という点ではアートピースに負けていないはずなのに。
この連載では、植物を見せるうえで、僕が感じてきた「殻」のような閉塞感をどのようにしたら突き破ることができるか、これからどんなことをしていこうとしているかを書いていこうと思う。先に挙げた閉塞感は、僕個人が感じているものであり、世の中の人々、特に植物業界の方々がどのように感じているかはわからない。人によっては閉塞感なんてまるでないのかもしれない。ただ一個人が素人ながらに感じたことを思いのままに書いていこう。
筆者が国内外を巡り集めた植物は、その個性を引き出す鉢に合わせられる。店内には常時数百点が並ぶ。
空間を構成する仕事に携わりたいと思い、花屋という仕事を選んだ。インテリアや建築の洋書を探しては、むさぼるようにかじりつき、毎日のように読みあさった。どのような空間がかっこいいと言われるのか、そこにどのように植物が絡んでいるのか。最初は見よう見まねで、アレンジメントや生け込みをした。身近な建築士やカメラマン、照明デザイナーと組んで空間演出もした。自分の花が添えられたその空間は華やかに見えた。しかし、その数日後には花は枯れ、自分の跡はわずかな時間で消えてしまった。ほかのインテリアや照明、音楽はそのままかっこよく残っているのに。
これではダメだ。花合わせやデザインをどんなに考えて、どんなにうまくものができたとしても、ものの数日で消えてしまう。枯れゆく姿や儚さも魅力ではあるけれど、空間に残ることはできない。花というものは、一瞬を飾る結婚式のような演出には向いているかもしれないが、僕がしたいことは、あくまでも継続的な空間演出。植物の魅力をより長く味わってもらえるのは、生きた植物、根のある植物だと思った。そして生きる植物の生長、変化というものは、美術品にはないかけがえのない魅力であるということに気づいた。
その魅力をどのようにして伝えていくか、そこに僕の居場所があるように思えた。生きている植物には、生きてきた証と生きていく変化がある。生きてきた証とは、植物の生長と時間が作り上げた造形であり、それは一朝一夕ではない。長い年月ででき上がった姿は、時間が長ければ長いほど個性的な表情をする。厳しい環境下で必死に耐え抜いてきた姿はことのほか深いものがある。生きていく変化とは、生きるための生長であり、新しい枝葉を出し、時には花を咲かせる。まだ見ぬ姿が人の心をざわつかせる。もの言わぬ植物の姿の意味や、将来起こりうる変化を僕が伝達することができたなら、植物のおもしろさはもっと大勢の人に伝わるのではないか。
生きている植物といえども、大量生産の植物の表情は浅い。一つひとつが長い年数を経て個性的な表情を持つ植物はどこにあるのか。それらを探すことがまず課題となった。さまざまな植物を探すうち、やがてサボテンや多肉植物に出会う。趣味家の育てるサボテンや多肉植物は、大量に生産されるものと違って、それぞれがユニークだった(なぜサボテンや多肉植物が特に個性的な表情を生むのかについては、追々書くと思う)。
有象無象に並ぶサボテンや多肉植物は実にさまざまな「顔」をしており、そこから僕がどれを選ぶか、それをなぜ選ぶのか、その理由一つひとつが伝えるべきことであり、伝わってほしいことなのだ。
この連載は、「月刊フローリスト」からの転載です。
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