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もっと文豪の死に様

第10回

尾崎翠――時代の壁と心の壁(後篇その1)

2022.06.24更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 翠が初めて上京したのは大正6(1917)年のことだ。
 当時、東京「都」は存在せず、東京「府」と東京「市」があった。東京市は麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15区からなっていた。そこに荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の周辺5群と小笠原諸島を加えたのが東京府だ。つまり、池袋も渋谷も品川も郡部で、まだまだ農村地帯としての顔が強かった。
 しかし、東京の膨張――人口的、文化的、物理的等々すべての意味において――は、ちょうどこの頃から始まっている。
 大正6年、人口はまだ300万に満たなかった。つまり現在の4分の1以下である。だが、この直後から昭和12年頃にかけてのたった20年で700万人、つまり倍以上に増加している。つまり、翠はかつてない規模で人口が増えていく東京にやって来て、青年期を過ごしたことになる。
 江戸時代はすでに半世紀前。令和の今から1970年代の昭和を見る感覚に近い。
 前時代の生き残りはまだまだ健在だが、社会の中心からはそろそろ離れようとしていた。長谷川時雨のように、古き良き江戸の空気を知っている人間も少なからずいたとはいえ、東京はすでに明治の顔すら急速に失おうとしていた。
 中央停車場は東京駅に姿を変える途中だったし、明治時代に建てられた銀座のレンガビルはすっかり近代和風建築に入れ替わっていた。その一方で洋行帰りの人々がカフェやビアホールなどの西洋大衆文化を導入し、定着し始めていた時期でもある。「銀ブラ」という言葉の出始めが大正4年頃というが、これは市電の整備が進んで、少々離れた地域からでも気軽に東京中心部に出入りできるようになったことを意味している。都市整備と人口急増は相乗効果を発揮して、「東京」を真の大都市にしていった。
 都市では、老いも若きもリッチもプアも、それなりに人生を楽しむことができる。公園から文化施設まで、ありとあらゆる「人生の埋草」が揃っているからだ。
 山陰の静かな街で育った翠の目に、そんな華やかな都会はどう映っていたのだろう。

 町にあるものは、みんなさだの目に、珍しく美しく映りました。次から次と展けてくる飾窓(ショーウィンドウ)。その一つには美しい大きい人形が、美しい色と模様に彩られた着物や帯をつけていました。次の窓には洋服と帽子、その次のには人形やゴムまりやお手玉、こんどの窓には、びろーどの鞄や、百合の花のついた小さな手帖や、五色に光る鉛筆……美しい物が限りなく続いています。
「まあ美しい人形、着物、帽子……」
 そしてさだは、お祖父さんの呼び声も、道具箱のきしむ音も忘れるのです。(「空気草履」より)

 彼女は、間違いなく東京に、というよりも「都会の文化」に魅せられていた。
 東京には、文学的な相談に乗ってくれる人もいた。新潮社の中村武羅夫だ。この名前、近代文学に深い関心を持っている向きにはお馴染みだろう。名前ではすぐにピンとこなくとも、評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」を書いた人と聞けば「ああ、あの!」と膝を叩くに違いない。「文芸を政治主張に使うなんぞ芸術への冒涜だ、ふざけんなこのヤロウ」とプロレタリア文学大批判をやってのけた人物である。彼は純粋芸術としての文学を愛するタイプだった。
 翠の文学人生最初期に、彼からアドバイスをもらえたのは、おそらく幸運だった。彼の芸術志向およびモダン指向と、翠本来の資質が合致していたからだ。もし、中村武羅夫がガチガチの自然主義信奉者だったら、翠の素質を潰していたかもしれない。この世に悲劇は数多あるが、メンターとメンティの資質が食い違う悲劇に勝るものはない。いつだって才能を潰すのは、硬直脳の指導者によるトンチンカンな指導だ。 
 さらに、上京翌年に一番上の妹である薫が結婚したのも、翠の背中を押すこととなったと思しい。昔は、結婚は上から順番にするものであり、ゆえに長姉は半端じゃない結婚圧力を受けるものだった。今でも覚えているが、当時まだ礼宮と呼ばれていた現皇嗣殿下が婚約を発表された前後、「兄より先に結婚するなんて」と非難していた人間が少なからずいた。当時十代だった私には理解不能なイチャモンだったが、昔の人には疑問の余地すらない当然の序列だったのだろう。
 娘を東京の大学に出すぐらい啓けていた尾崎家とて、まったく圧力がなかったわけではあるまい。特に下が3人もいる翠にとって、無視しようとしてもしきれなかったはずだ。けれども、上の妹が先に結婚してくれたことで、結婚圧力要素がひとつ消えた。
 こうして翠は、大正8(1919)年に準備万端整えて再度上京し、23歳で日本女子大学校国文学科に無事入学した。
 念願叶ったのだ。
 住処は大学の寮だった。そして、ここで生涯の親友となる5歳年下の松下文子と出会った。
 この時期の翠は、おそらく生涯においても最も幸せで、最もエネルギッシュだったろう。
 夢が現実のものとなり、文学の先達や何ものにも代えがたい親友も得た。あとは理想の文学をものして、作家になるだけだ。
 希望は執筆力にも影響した。夏休みにさっそく初の中編小説「無風帯」を書き上げ、秋には「新潮」で掲載の約束を貰った。
 私は、東京で作家としてやっていけるかもしれない。
 翠は未来に光を見出していたことだろう。
 だが、人生万事塞翁が馬。好事魔多し。
 将来を約束してくれるはずの「無風帯」掲載が裏目に出てしまったのだ。さらに、まるで運を使い果たしてしまったかのように、翠の物書き人生は大きく停滞しはじめる。

夢見た場所で夢破れ

「新潮」に掲載された「無風帯」は自然主義風の小説だが、表現の端々に翠らしさがある。また、後に繰り返されることになるモチーフ「兄と妹」がすでに登場しているのも特筆すべきことだろう。
 同じ号には芥川龍之介、志賀直哉、佐藤春夫の作品も掲載されていた。つまり、翠の作品は彼らの目に触れたかもしれない。上々のスタートだった。
 この時期に雑誌上で発表した「生活の反映」と題する短いエッセイには、未来への希望を胸に生活する若き女性の、燃えるような理想が力強く書かれている。

 私の生活はあまりにあわただしい。私はこのあわただしい生活の中に統一を見出して行かねばならぬ。
(中略)
 私はもっと静かにもっと落ちついて自分を深く反省し自分の非を知り大いなるものの前には謙遜になり恵まれたる身の感謝を常に大いなるものに対して恐れ謹む従順なる私でなければならぬ。
 ここに調和と感謝と歓喜の世界がある、そこに安心と信頼と奉仕の世界が生まれる。
 生の終りを思わせる庭のわくら葉もやがて来らむ春の栄光の準備のための休息であろう。
 生の力は不滅の運行であるから。

 だが、実際には「来らむ春の栄光」は幻だった。
 小説の掲載が原因となり、大学を退学する羽目に陥ったのだ。
 通説では、大学側が学生身分での寄稿を問題視したことに翠が反発し、中退を選んだことになっている。つまり、勉学が本文たる学生の分際で小説を書くなんて何事だ、と怒られたせいで「うるせえ、なら辞めてやる!」ってな流れになった、とされているのだ。
 ところが、ある資料には、「無風帯」掲載直後、「活躍する当校学生」的な文脈で校内報に翠の快挙が紹介されていた、とする記述があった。一次資料の校内報を発見できていないので引用は避けるが、もしこれが本当であれば、当初は問題視されなかったのかもしれない。
 だが、翠が2月末には大学を退学したのは紛れもない事実だ。ならば、一ヶ月ほどの間に何があったはずである。
 ここからは想像になるが、考えられるのが、保守的な教師や卒業生が騒いだパターンだ。どこにでもいるじゃないですか。自分の基準で勝手にけしからん認定してくるヤツ。
 それに、どうやら日本女子大学が提供する授業は、イチャモンをつけられてまで続けるほどの魅力がなかったようなのだ。
 この時期の日本女子大学には様々な才能が集まったのだが、少なくない人数が中退している。日本女子大学にかぎらず、日本の女子大の多くは「良妻賢母の養育」を教育方針にしていた。良妻賢母教育なんて、自我に目覚めた近代女性とは最悪の取り合わせだ。
 日本の女子教育における「良妻賢母」の呪縛は強い。私が高校に入った時代、つまり昭和の終盤から平成序盤でもまだ残存していたぐらいだ。我が卒業校は仏教系の女子校だが、校内報だかなんだかに「卒業生が子をあやしながら仏教歌を子守唄代わりに歌うようになれば、我が校の教育は初めて(←ここ大事)生きた教育となるだろう」的なことが堂々と書いてあったのを覚えている。今となってはアホですか? って話なのだが、当時それに疑義を申し立てる人間はいなかった。まあ、真に受ける人間もさほどなかったとは思うが。かく言う私は「アホですか?」と思っていた。
 翠が大学に入ってから半世紀以上、しかも間に戦後民主主義への移行という大事件があっても、女子教育の現場にいる教師の認識がその程度だったのだから、翠の時代がどんなものだったかは語らずとも、である。そんな空気に積極的に見切りをつけた結果が「退学」だったのではないだろうか。
 勇躍飛び込んだ学び舎に夢見ていた学問はなく、失望だけが残った。翠は一旦故郷に戻ることにした。でも、文学を諦めたわけではない。鳥取でも文学修行はできる。そう考えたのだろう。
 けれども、一度飲んだ東京の水を忘れられなかった。
 翌年には、生涯の友となった松下文子を頼って、再び東京に出てきた。そして、一緒に暮らし始めたのである。
 文子は旭川出身の地主の娘だ。経済的に恵まれていると同時に、進歩的な女性だった。そして義に厚かった。二人が絆を固めたのは、在学中に文子が胃痙攣で入院した際の出来事だったらしい。若い女性が異郷でひとり病床に伏すのだ。さぞ不安だっただろう。だが、友の心細さを払拭するように、翠は献身的に看護した。文子はそれに感動し、翠が夢を叶えるまで力を貸すと誓ったそうである。ゆえに、翠が退学すると、それに抗議するような形で文子も退学してしまった。とはいえ、それは理由のひとつに過ぎず、おそらく彼女もまた大学に見切りをつけていたと思われる。
 なぜなら、文子は退学後も東京に留まり、ちょうど大正9(1920)年に開学したばかりの日本大学宗教学科に進んでいるからだ。
 日本大学は女性の入学を認めた、先進的な大学だった。なお、帝国大学のトップである東京帝国大学や京都帝国大学が女性に門戸を開いたのは昭和21(1946)年つまり戦後のことである。ただし、同じ帝大でも東北帝国大学は大正2年には、全国に先駆けて女性大学生を誕生させている。戦前、必ずしも地方が遅れているばかりではなかったよい証拠だ。
 なんにせよ、一番の親友が東京に留まったことは、翠には勿怪の幸いだった。活動の足場を確保できたのだから。
 大正10(1921)年にはまた上京し、文子とともに暮らし始めた。とはいえ、無職ではどうにもならない。なんとか経済的独立を果たそうとした。そして、出版社で働き口を見つけたものの、これはうまくいかなかった。社交性のなさが仇となったというが、翠には出版社勤めは無理だっただろう。おそらく編集者を目指したのだろうが、出版社といえども勤め人、詰まるところはコミュ力がものを言う。それは今も昔も変わりない。文学に近い職場と思って選んだものの、実態を目の当たりにして肩を落とす翠の姿が目に浮かぶようだ。
 とはいえ、お金がなければ暮らしは立たない。仕方なく、実家に戻った。でも、やっぱり東京の方がいい。こんな感じで、その後数年間、文子を頼りに、東京と鳥取を行ったり来たりする生活を送ることになる。
 この間、少女小説を書こうとしたり、地元の文学サークルが出している同人誌に作品を寄稿したりと、文学から離れたわけではなかった。岩美での教師時代に材を取った「花束」などは佳品といえる。だが、家族の問題(結婚した妹の死別や次兄の発病)などがあり、落ち着いて文学修行のみをしていられる状況にはなかった。
 結局、翠が再度東京にしっかりと腰を落ち着けられたのは、昭和2(1927)年になってからだった。翠はすでに30代に突入していた。

女ゆえの壁

 2月、文子が病いに倒れたとの連絡があった。ワイル病だった。今では耳慣れないこの病気、ネズミが原因となる動物由来感染症で、1970年代ぐらいまでは死亡例もある恐ろしい病気だったらしい。衛生環境がよくなった今では国内の年間発症数は百件にも満たないようだが、それでも狂犬病などと同じ第四類感染症にはなっている。重症化すると黄疸や腎不全が出て、皮下や鼻出血から致死率の高い肺出血などの出血症状を起こす。適切な治療が行われないと、致死率は 20~30%に及ぶという。
 文子の病態は決して楽観できるものではなかったらしい。見舞いに行った翠が、看護婦に対して涙ながらに救命を訴えたと創樹社刊「尾崎翠全集」の年譜には書かれている。
 幸いなことに文子は回復し、元の生活に戻ることができた。そして、この出来事は、翠と文子の仲を一層強固にした。
 文子の退院後、二人は当時東京市外(現新宿区)だった上落合の一軒家に間借りをして、一緒に暮らし始めた。二人がともに暮らすのはこれが初めてではなかったが、翠が今度こそ東京に腰を落ち着けようとした点で、覚悟が違ったのだろう。
 ここから昭和7(1932)年9月に鳥取に帰るまでの5年間、翠はようやく本格的な「文士生活」を送ることになる。そして、数多いとは言えないながらも、質の高い作品を発表し、知る人ぞ知る存在になっていくのだ。
 大正末期から昭和初期、落合周辺には翠と同じく文学に青雲の志を抱く若者が多くいた。彼らが翠の“文学仲間”になった。
 売れっ子になる前の林芙美子もちょうどこの頃落合に引っ越してきた。翠の才能に憧憬を抱き、姉のように慕っていた。この頃はまだかわいいところもあったらしい。
 一方、文子はなんとか翠を売り出そうと躍起になっていた。そろそろ彼女もタイムリミットを迎えていたからだろう。
 何のタイムリミットかって?
 結婚だ。
 一人娘だった文子は、いずれ婿養子を取って実家を継がなければならない定めにあった。すでに婚約者がいたのだ。当然ながら親が決めた人だ。文子は日本大学宗教科を首席卒業したほどの秀才で勉強家だが、そんな女性ですら最終的には家庭に収まらざるをえない。時代は女性の学者を望んでいなかった。たとえ本人が望んでも。
 けれども、翠は30歳を過ぎてもまだ夢を追うことができた。おそらく、翠の夢は、文子の夢でもあったのだろう。
 二人の努力が実り、翌昭和3年(1928)6月には「婦人公論」誌に「山村氏の鼻」という掌編が掲載された。美男子で鋭い嗅覚を持つ、キザなモダンボーイの山村を巡るちょっとしたコントなのだが、翠らしい諧謔と冷めた人間観察、そして素っ頓狂なオチで、欧州の一流作家の作と言われたら騙されそうなほど完成度が高い。愛読していたチェーホフやゴーゴリなどの影は随所に見えるものの、自家薬籠中の物にしている。
 この作品が大評判を呼び、一躍文壇のスターになった……と書けたらよかったのだろうが、そうは問屋が卸さないのが当時の日本文壇だ。
 明治末期には猖獗を極めていた自然主義(日本の自然主義文学、嫌いなもので)も、大正時代には自然主義至上論者に反駁する諸作家の活躍でずいぶん多彩にはなっていたのだが、まだまだ影響力は強かった。また、手段文学であるプロレタリア文学が最盛期を迎えていた。一方、翠と親和性が高い「芸術としての文学」を目指す一群は、ようやく力を得てきたばかりの段階だった。
 そうした中、翠のような女性の作品を高く評価できるほどの見識を持つ者は、文壇にも読者にもさほど多くなかった。
 いい作品なら男女関係ないのでは?
 そう思うかもしれない。もし、そう心から思える環境に今の日本人がいるとしたら、それは喜ぶべきことだ。先人の努力が多少は実ったのだろうから。
 けれども、翠の時代はそうではない。
 たとえば、翠が「女人芸術」誌主催の討論会に出演した時の様子を報じた新聞記事では(無記名記事なので書き手の性別などは不明だが、おそらく男)、討論内容そっちのけにパネラーの容貌を点数で評価するような無礼極まりないことを平然とやっている。
 女が何を言おうと関係ない。とにかく顔貌が最重要。
 そう言いたいが如くだ。いや、実際かの記者はそう思っていたのだろう。
 ブスは人前に出てくんな。黙っとけ。文章の端々からそんな侮蔑心がこぼれ落ちている。
 この手の記事が大手を振ってまかり通る世の中だった。
 女性たちが普段からいかに無神経な言葉を投げかけられ、能力評価すら容貌に左右されていたかは想像に難くない。
『文豪の死に様』の有島武郎の章で取り上げた波多野秋子、そして前回取り上げた長谷川時雨は、美人であるがゆえの苦悩を味わった人たちである。しかしながら、その美貌があったから超男社会で成り上がれたのも事実だ。ただし、真に才能ある女性にとって、その状況は決して幸せではないのだが。
 なんにせよ、美貌に恵まれず、さらに林芙美子のような社交性や図々しさを持ち合わせていなかった翠は、ひたすら才能だけで勝負しなければならなかった。
 これは相当キツい。
 さらに、「山村氏の鼻」発表と同時期に、頼りの友・文子がとうとう結婚し、郷里に帰っていった。
 翠にすれば、それは単なる親友との別れではなかったはずだ。半身をもがれるような思いだったに違いない。その証拠に、この頃から少しずつ精神状態に暗い影が兆し始める。そしてそれは、翠の文学道を閉ざした最大の原因として育っていくことになったのだ。

病は仇か、それとも?

 翠が頭痛持ちになったのは20代後半、鳥取時代だったという。そして、頭痛薬ミグレニンを常飲するようになった。だが、初期はまだ対症療法として使う程度だったようだ。
 尋常でなくなるのは、文子との別離後。徐々に服薬量が増え、ピーク時には三日でひと瓶空けたという。ミグレニンは粉末の薬だ。それをそのペースで飲んでしまうのだから、薬害が出てもおかしくない。ゆえに、彼女の身の回りの人たちは、翠の精神状態が悪化した原因は薬だと考えた。林芙美子なんかは盛んにそう喧伝していた。そして、今でも翠の文学生命を断ったのはミグレニンの副作用による幻覚などの精神状態の悪化だった、というのが定説になっている。
 だが、私はふと疑問を感じた。
 本当に薬が原因だったのか、と。というのも、翠の30代以降の作品を発表順に読んでいくうちに、ある可能性が思い浮かんだのだ。
 そこで、まずはミグレニンの資料を調べてみた。すると、副作用として精神状態への悪影響を指摘する記述は見つけられなかった。念のため、戦前の資料も調べられる範囲で調べたが、胃腸を悪くしますよ、とする資料が一点見つかっただけだ。これは現在の資料とも合致する。
 やはり「ミグレニンの過剰摂取によって幻覚を見るようになった」説は成り立たないのでは? そう睨んで、さらに調べたところ、果たして渡辺由紀子氏の「尾崎翠の病跡」という論文に行き当たった。
 ここで渡辺氏は、翠の幻覚症状は、薬害ではなく内因性の精神病ではないだろうかと推測している。つまり、翠の錯乱に薬が影響している可能性を全排除できないまでも、それが主因ではなく、当時精神分裂症と呼ばれていた精神疾患、今でいうところの統合失調症になっていたのではないかと示唆しているのだ。
 統合失調症という名称自体は世間にもよく知られている。しかし、具体的にどのような病なのかについてはイメージ先行で正しいところがあまり知られていないように思う。
 そこで、念のため、この病気に対する正しい知識を確認することにした。以下、引用部分(主に「」で表記)のソースは、すべて厚労省運営の「みんなのメンタルヘルス総合サイト」であることを明記しておく。

 さて、統合失調症は「こころや考えがまとまりづらくなってしまう病気」と定義されている。
 人間は通常、視覚/聴覚/嗅覚/味覚/触覚によって得られた各情報を脳内で整理整頓し、整合性のとれた情報に一本化することで、外界に対して安定した認知状態を保っている。ところが、なにかの拍子に整理整頓機能が弱くなると、情報が無秩序に脳内に散らばってしまう。つまり、外界からの刺激で発生した信号が、各々好き勝手にやりだすのだ。そうなると当然、思考はうまくまとまらず、心は混乱状態に陥る。これが統合失調症を発症した状態なのだそうだ。
 統合機能が失調する。だから統合失調症。なるほど。
 昔は精神分裂症といったが、今ではこの言葉は使われない。だが、翠の時代はもっぱら「精神分裂症」が一般的だった。よって、本篇では場合によって使用する場合がある。その旨のみ了承いただきたい。
 今現在、日本での統合失調症患者数は約80万人で、生涯で一度でも統合失調症を発症するのは全人口の0.7パーセント程度とみられている。0.7パーセントというと珍しい病気のように感じられるが、100人に1人レベルと思うと、決して少なくない。たとえば、日本の人口で見た場合、大阪や神奈川の人口の占める割合がおおよそ0.7パーセントだ。
 事程左様に珍しくはない病気ではあるが、病因は未だ解明に至っていない。厚労省は「発症の原因は正確にはよくわかっていませんが、統合失調症になりやすい要因をいくつかもっている人が、仕事や人間関係のストレス、就職や結婚など人生の転機で感じる緊張などがきっかけとなり、発症するのではないかと考えられています。」としている。
 症状には、罹患してから初めて表れる陽性症状と、罹患したことで失われる陰性症状がある。
「陽性症状の典型は、幻覚と妄想です。幻覚の中でも、周りの人には聞こえない声が聞こえる幻聴が多くみられます。陰性症状は、意欲の低下、感情表現が少なくなるなどがあります。周囲から見ると、独り言を言っている、実際はないのに悪口を言われたなどの被害を訴える、話がまとまらず支離滅裂になる、人と関わらず一人でいることが多いなどのサインとして表れます。」ということであるらしい。
 世界保健機関WHOは、統合失調症を9種類の型に分類している。それを見ていくと、翠の症状は「妄想型」と呼ばれるタイプのようだ。
 妄想型は、30代前後に発症することが多く、幻覚や妄想などの症状が主となる。しかし、人格が変わったり、おかしな言動が目立つようになったりという、私たちが想像するところの「統合失調症」的症状はあまり出ない。社会性は保たれ、人とのコミュニケーションは円滑に行えるという。
 翠が最後に東京を離れる前のエピソードを見ると、この状態がもっとも近い。
 けれど、私はこれとは異なる精神的なクライシスがあったような気がしてならない。
 その病名は、解離性同一性障害。
 いわゆる多重人格である。
 なにを突拍子もない、と思われるかもしれない。だが、これがまったく根拠のない妄想ではないことを、次回述べていきたい。

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