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よみものどっとこむ

第10回

自分の怒りに気づく

2017.04.21更新

読了時間

【 この連載は… 】進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。「優柔不断」「後悔」をきっぱり捨てるブッダの智恵を、初期仏教長老が優しく説きます。韓国語版出版&電子書籍1000冊突破を記念して、書籍の冒頭部分を特別公開いたします。

■自分の怒りに気づく


 人間ですから、判断を間違うこともあります。理性を働かせていても、いつも必ず正しい判断ができるわけではありません。ミスや失敗は起こります。間違ったのですから、その結果はよくありません。それは当然のことです。自分がやったことに対するそれなりの結果がついてきただけです。

 だから、べつに感情的になるような話ではないのです。ところが、自我に囚われていると、結果に文句を言いたくなるのです。

 もっともはっきりと表れる感情が「怒り」です。

 たとえば、あなたが車を運転していて、交差点で信号待ちをしていたとします。後ろの車の人がクラクションを鳴らしました。青信号に変わっているのに、あなたがすぐに発進しなかったからです。

 そのクラクションを、「青信号なのに何しているんだよ、さっさと行けよ」というふうに受けとめてしまうと、カッとなります。「なんだよ、ほんのちょっと気づくのが遅れただけじゃないか、うるさいな」と相手に対して怒りの感情を抱いてしまいます。

 些細な出来事なのに、人間はクラクションの音ひとつで「自分を否定された」と激しく思い込んで怒り、大ゲンカをしたりすることがあるんですね。

 でも、「あっ、青信号に変わっているのを教えてくれているんだ」と思えば、バックミラーを見ながら「悪い、悪い。教えてくれてありがとう」と手を上げて挨拶して終わりです。

 どちらが自分にとっていい結果かといえば、怒らずに、和やかに対応するほうに決まっています。怒りがなければ苦しみがないのです。

 ブッダの言葉にこういうものがあります。


 欲があるとき、苦しみがある。

 欲がなければ、苦しみがない。

 怒りが生まれたら、苦しみが生まれる。

 怒りが消えれば、苦しみが消える。

 悪い行為をすれば、悪い結果がある。

 善い行為をすれば、善い結果がある。


 怒るというのは自我に囚われた状態です。どんな理由があろうとも、正当な怒りというものはありません。怒りは悪、悪い結果しかもたらしません。

 自我に囚われた状態というのは、自分サイドからの一方的な視点でしかものが見えていない視野狭窄の状況です。事実がきちんと見えていない。見えていないのですから、他の人が教えてくれていることを素直な気持ちで聞く必要があります。

 苦しみたくないのなら、理性的な人間になって正しい選択をしたいなら、つねに怒りの感情を持たないように心がけることが大事なのです。


■現実を素直に受け入れる


 たとえば、売り上げ目標を達成できなかったことで、あなたは会議で上司から、「部員みんなが数字を達成しているのに、きみだけどうしてこんな成績なんだ。きみはうちの部の足を引っぱっている。やる気があるのか」と言われてしまいました。

 あなたがこの立場だったら、どうしますか?

 しょぼんとうなだれて、部長の〝台風〟が行きすぎるのをじっと待ちますか。

 こういうときにも、怒りの感情を持ってしまう人もいます。「これはパワーハラスメントだ。なにもみんなの前でこんなふうに恥を搔かせることはないだろう。部長がこういうことを言うから、最近みんなが自分を見る目が冷たくなった。後輩までがバカにしたような態度をとる。これって一種の社内いじめじゃないか」、そんなふうに考えてしまうのです。

 客観的に見て、そんなふうに思えますか?

 この上司は事実しか言っていません。これはパワハラではないのです。成果が出せなかったのですから、イヤな結果がついてくるのは当然の成り行きです。他のみんなはそれぞれがんばって目標を達成しているとしたら、達成できなかったあなたはみんなに迷惑をかけているのですから、厳しい目を向けられるのも当然です。それなのに、いろいろ言われたくない、バカにされたくないというのは、虫がよすぎます。それは因果の法則に違反しています。

 結果に関係なく、いつでも認めてほしい、ほめてほしい、優しくしてほしいというのは、とんでもない勘違いです。

 結果はつねに行為次第です。行為は判断次第。自分が判断を間違い、行為を間違ったから、目標達成という結果が出せなかったのです。それによって、こういう結果を招いたのです。自我をはずしてシンプルに考えれば、これはごく当たり前のことでしかありません。

 叱責されたといっても、人格を否定されているわけではなく、業績につながっていないことを指摘されているのですから、「そういうことか」と真摯に受けとめる、それだけの話です。

 これからもここで働いていきたいと思うなら、業績をきちんと上げなくてはいけない、目標を達成しなければいけないわけです。幸いなことに、周りには達成している人たちが大勢いるのです。ですから、この場合は「皆さん、ご迷惑かけてすみません。挽回できるようがんばります。私の仕事のやり方を改善するために、もっとこうしたほうがいいというところがあったら、どんどんアドバイスしてください」と、周りの人に明るく言うのがいいでしょうね。まず、人の指摘を聞く耳を持つことです。そして実践してみるのです。それが、現実を受け入れて成長していくということです。


■感情はエンドレス


 「怒る」と「叱る」の違いはどこにあるかわかりますか?

 「怒る」とは、主観的な感情をぶつけることです。これに対して「叱る」とは、客観的に理性でことの是非、善悪を説明することです。

 親が子どもに対して、先生が生徒に対して、上司が部下に対して、厳しく叱らなければいけない場面はたくさんあります。ところが、叱る側が怒ることと叱ることの区別がきちんとついていなくて、叱っているつもりで怒っていることが多いのです。

 たとえば、「ゲームばかりしていないで、宿題をやりなさい」と言っても、ちっとも言うことを聞かない子どもに対して、お母さんはそのうちに怒りを爆発させます。堪忍袋の緒が切れたお母さんの小言は、もう止まりません。話はその日の宿題のことだけでなく、さまざまなところに広がっていきます。「あんたはいつもこうなんだから」と過去のことに遡ったかと思うと、「こんなことでは先が思いやられる」と将来のことまで心配して、いま怒るのです。

 お母さんの怒りは、なぜ延々と続くのでしょう。それは感情には際限がないからです。感情は次から次へと湧いてきます。ひとつ思い出すと、また新たな感情が湧いてきて、それがずっと続くのです。つまり、宿題をやらないことを理由に、お母さんは子どもに対してふだん溜まっている感情を吐き出しているんです。だから、長いのです。終わらないのです。これも自我ですよ。

 客観的に、理性で叱ったらどうなりますか。「こういうことをしていると、こうなります。こうなると、その先こういう結果が待っています。あなたはそれでいいの? 自分でよく考えて行動しなさい」。これだけです。1分で終わります。

 先生も同じです。長々とお説教する先生は、主観で、感情でものを言っているから、ちっとも話が終わらないのです。自分が自我を全開にして「怒ってはいけません」「自我に囚われてはいけません」といくら言ったところで、これでは説得力がありません。

 社会では、子どもが小さいころから理性について教えています。しかし、教えるほうも自我の塊で、感情で判断しながら教えるので、完璧なかたちの理性というものを教えることができません。ですから、人間の理性はなかなか完成しないのです。

 だからこそ、もうこれで十分理性を学んだ、私の理性は完全だということはなくて、人は一生、謙虚に学びつづけていかなければならないのです。


『もう迷わなくなる最良の選択』の連載は、今回で最終回となります。いかがでしたでしょうか。続きが気になる方は、ぜひ書籍を購入してお楽しみください。

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著者

アルボムッレ・ スマナサーラ

スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、80年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程で道元の思想を研究。現在、宗教法人日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事し、ブッダの根本の教えを説きつづけている。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHKテレビ「こころの時代」などにも出演。著書に『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』『ブッダの実践心理学』全8巻(藤本晃氏との共著、以上、サンガ)、『怒らないこと』『無常の見方』『無我の見方』(以上、サンガ新書)、『執着の捨て方』(大和書房)など多数。

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