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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第6回

小さな正義と大きな自由

2018.12.17更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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幼稚園の庭先で

 「あの、ちょっとお話があるのですが……」

 ある日のこと、娘の通っていた幼稚園で私は呼びとめられた。

 振りかえると、そこには同級生のママたちが3、4人。

 もうすぐ小学校入学。おなじ学校にゆく同士で声がけでもしているのだろうか。

 だが、世の中そんなに甘くない。

 「あのー、娘さんはどの学校に……?」

 「○○小学校ですが」

 「ああ、そうですか……。インターナショナル・スクールとか、そういうのではないんですか……?」

 「ええ、うちは近くの公立小学校でじゅうぶんですよ」

 「まあ、そのー、ちょっと困ってるんです……」

 どうやら、雲ゆきが怪しいようだ。言いたいことが、はっきりいえない。

 「あのー、私たち話しあったんです。それでみんなでこう思ったんです。お宅の娘さんには、別の小学校にいってほしいって」

子育てに奔走

 天使のように生まれた娘は、天使のように育った。

 はじめて子を授かったわれわれ夫婦。故郷を遠く離れた妻となんの知識もない私は、世の若夫婦たちと同様、慣れない子育てに奔走した。

 おむつ、ミルク、夜泣き、お風呂、離乳食……われわれの生活は赤ん坊中心となり、妻の歌の仕事も、私の学問も、二の次になった。

 東京、フランス、アフリカ……娘はどこに行っても可愛がられ、愛された。

 私たちは、前回紹介したあのパリの聖家族のように、子育てに忙殺されながらも、幸せだった。

 やがて幼稚園に入る年頃になるのだが、じつは私はそういう社会の仕組みにたいして無頓着なところがあり、そのことに気がつかなかった。

 たとえば中学3年生の時のこと。秋の学園祭が終わった翌日に教室にゆくと、驚いたことにみんなが勉強しているのである。昨日まであんなに楽しく遊んでいたのに、どうしたというのか?

 すると友人のひとりがこう言った。

 「これからは、高校受験の季節だろう」

 そのとき私は、高校は受験するものであることをはじめて知ったのである。山梨の田舎で育った私は、田んぼのなかの公立中学に通ったが、公立高校がそのすぐ近くにあった。すぐ隣にあるので、不覚にもこのままつづけて通うものだと思いこんでいたのである(中高一貫でもないのに)。ふたりの兄がおなじ中学から受験しておなじ高校に通っているのにもかかわらず、気がつかなかったのだ。

 こんな「うっかり知らない」人生を送ってきた私に襲いかかった試練、それが娘の幼稚園問題であった。

ワンダーランドへようこそ

 近くにある名の知れた幼稚園に電話してみる。

 「あのー、娘を入園させたいのですが……」

 「入園手続きは3月なので、来年にお願いします」

 今は9月。4月入園にあわせて、ママたちが並んで申しこみをする、などということは私の知識の枠外にあった。

 とりあえず、近所にある幼稚園に何件か電話してみる。するとある小さな幼稚園から、定員に余裕があるので10月から入園できる、という返事があった。

 これで一安心、と思った私は、まだ「現実」というものを理解していなかった。「ママたち」という現実を。

 幼稚園の園長さんも先生方も、みな親切であった。

 子供たちは、無邪気かつワガママであった。

 そしてママたちはというと、微妙であった。

 いきなり学期の途中からやってきた闖入者。

 ハーフの女の子と真黒な母親。

 ママたちも最初は親切であった。交流を試み、食事会を開き、お遊戯での母親の出し物に誘ってくれる。だがそこにはひとつの文化があった。日本特有の「ママ文化」が。

 文化は同化作用を持つ。

 「おなじように振る舞いなさい。さもなければ、よそ者よ」

 これは悪意ではない。文化の本質である。特定のメンバーに共有されることこそ、文化の存在意義なのだから。

 子供がおなじ幼稚園に通うという社会的契機がママたちを結びつけ、そこに一定のコミュニケーション様式を成りたたせ、無言・有言の圧力によって新参者を同化しようとする。

 だがそれは、あまりにも息苦しい。日本人でもそう感じるのであるから、アフリカでアーティストとして自由に育った妻には、なおさらである。

 幼稚園というワンダーランドで、最初は彼女なりに馴染もうと努力はしてみたものの、ことのほか壁は高く溝は深く、やがてその努力も放棄され、ママたちとの距離も離れていった。

正気と狂気のあいだ

 正気を保て。

 これこそ現代社会において、もっとも大切なことではないだろうか。さまざまなプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、自分の領域をなんとか確保しなければならない。

 プレッシャーがあからさまな差別であれば、ことは簡単である。おおきな声で「ノー」と叫べばよい。みなが「そうだ」と応じてくれる。

 だがもし、そのプレッシャーが一見して「正しい」場合、ことは複雑かつ残酷になる。それはまるで真綿で首を締めるように少しずつあなたを侵食し、やがて息の根を止めることになるだろう。

 おおくの者がウツになり、自らの命を絶つ国、ニッポン。

 それでも無言の同化圧力をやめられない国、ニッポン。

 国際化だからと言いながら、むやみやたらと外国人に近づき、知らず知らずのうちにその同調パワーで相手の自由を奪い、魂を吸いとろうとする国、ニッポン。

 このような過酷な環境のなかで、外国人は正気を保たねばならない。だが、残念ながらおおくの外国人が正気を失ってゆく国、ニッポン。

 私はこれまで、日本に来たために気が狂ってしまったアフリカ人をふたり見たことがある。

 ひとりは日本の国費でコートジボワールから日本の大学に留学し、正気を失い、帰国後はときどきアビジャンの日本大使館を訪れていた男性。挙動不審、言語不明瞭で、受付の女性職員がその対応に苦慮していたのが思いだされる。

 もうひとりは、妻の故郷ギニアで出会った男性。日本人の女性と結婚し、子供もひとりもうけたが、突然離婚させられ、強制的に帰国させられたという。その詳しい経緯はわからないが、元妻への手紙を書いたので、日本に着いたら投函してくれとのこと。住所をメモして渡してくれたのだが、そこには数字の1がひとつ、その下に2がふたつ、その下に3が3つ、その下に4が4つ……と10まで数字が規則正しく書きこまれ、きれいな三角形をかたちづくっていた。

幼稚園の庭先で、その2

 結局、妻はママたちに同化しなかった。あいさつを交わし、行事にも参加し、やることはやるが、あとは個人の自由である。自分の行動様式にまで口出しはさせない。

 そして、ママたちが私を呼びとめたあの日のこと。

 「あのー、この幼稚園は小さいから、小学校に入ると少数派になると思うんです」

 「はあ、そうかもしれませんね」

 「で、親としては、やっぱり、イジメなんかが心配なんですね」

 「でしょうね」

 「だから、すこしでもイジメのネタになりそうなことは避けたいと思うんです」

 「そうですね」

 「お宅の娘さんは目立つし、もしかしたらって思うんですね」

 「ほうっ」

 「それで、うちの娘もおなじ幼稚園だっていうだけで、とばっちりを食うんじゃないかと心配なんですね」

 「はあ?」

 「うちの娘はあの通りおとなしいですから、イジメなんかに耐えられないと思うから、とっても心が痛むんですね」

 「……」

 「ですから、なんとか別の学校にいってもらえませんか?」

 私は唖然としてしまった。返す言葉もない。

 すると別のママが口を開く。

 「うちはお宅と家が近いから心配なんです。お宅の娘さんは自由に育って、なんというか、しつけができてないみたいですよね。帰り道がいっしょになったら、きっとうちの子も一緒になって道草したり買い食いしたりして、悪い影響がでると思うんですね。だから、ぜひともちがう小学校に通ってほしいんですよね」

 つまり、集団でなんとかわれわれを「はぶこう」というわけである。

 ひとりは、あんたの娘はかならずイジメられる、するとおなじ幼稚園であったという理由で私の娘もイジメられる、だからその前に、悪い根はとり除いておこうという理屈である。

 もうひとりは、通学路がいっしょになる関係上、お宅の「悪」がうちの子に伝染するかもしれない、だから通学路が別になるよう別の学校にいってくれ、という理屈である。

小さな正義

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことである。

 ママたちの恐ろしさは薄々感じてはいたし、テレビドラマなどで誇張した姿が描かれるのを見たこともあるが、それが誇張などではないことをこの身で体験してしまった。貴重な体験をしたという意味では、文化人類学者冥利に尽きると言えないこともないが……

 だが私は知っている。彼女たちに悪意のないことを。彼女たちはただただプレッシャーを感じていただけなのだ。

 いかにして、娘を、息子を、安全に育てあげるか。

 いかにして、自分の子をイジメの魔の手から守るか。

 いかにして、家族の明るい未来をつくりあげるか。

 こうしたプレッシャーのなかで正気を保つために、彼女たちは自分たちなりのやり方で正義をおこなった。すこしでも危険な要素をとり除き、正しい世界を保つために正義をおこなった。

 だがそれは、「小さな正義」であった。半径10メートル以内の自分の生活圏を守るためだけの、小さな正義であった。

 このような正義は、往々にして他者の自由を侵害する。ママたちが私の娘に対し、不当にも「ちがう学校にゆけ」と要求したように。その意味で、これは「悪意なき悪事」でもある。

 だが、一生懸命生きている彼女たちを誰が責められよう。私たちだって、日々小さな正義を行使しているのではないだろうか。

 「あるべき家庭」というプレッシャーのなかで、妻は夫に、夫は妻に、親は子に、子は親に、それぞれの正義を突きつけ、相手の自由を抑えつける。

 「正しき教育現場」というプレッシャーのなかで、先生は生徒に、生徒は先生に、親は学校に、生徒は生徒どうしで、正義をおこないながら自由を失っている。

 職場で、コンビニで、ファミレスで、駅のホームで、ネット上で、日々、小さな正義が行使されている。

 そして、それらのすべてではないが、その一部が、いや、もしかしたらかなりの部分が「悪意なき悪事」として相手を傷つけているのではないだろうか。

自由への歌と踊り

 二階堂ふみ主演の『神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まない』(入江悠監督/2011)という映画に、おもしろい一幕があった。

 ひとりの女性が、保育園の園長とママたちに吊しあげられている。彼女は離婚し、女手ひとつで息子を育てながら、バーでセクシー系のポールダンスを踊っている。

 年齢6歳くらいの息子はパソコンを自由に操るちょっとした変わり者で、インターネットを中心に活動するポップロックバンド、「神聖かまってちゃん」の大ファンである。

 彼が保育園にパソコンを持ちこみ、このバンドの曲を再生すると他の園児たちが大喜び。ピアニカなどで伴奏をつけながら、彼の指揮のもと、みなで楽しく歌っていた。ただ、その歌詞が「死にたいなー、生きたいなー、どっちでもいいなー」というヤバそうな内容。

 それを知って激怒したママたちに押され、「お宅のお子さんが二度とパソコンを持ちこまないか、さもなければ退園していただく」と園長が詰めよるのが先程の場面。

 気の強い女性は、息子のパソコンをゴミ箱に押しこんでその場を後にするが、息子が街の電気屋でパソコンを自由自在に操作し、大人たちがそれを囲んで絶賛する姿を見て気を取り直し、あらたにパソコンを買ってあげた。

 そしてその夜、待ちに待った「神聖かまってちゃん」のライブがネットで生配信される。

 息子は保育園の友人ふたりを自宅に呼んで、みなでパソコンを前に踊りまくる。

 保育園の園長は、偶然パソコンでそのライブを見て、わけの分からない戦慄を覚える。

 そしてバーの楽屋にいた母親は、たまたまライブを見ていた若い踊り子のスマホを乗っ取って、そのコンサートの迫力に吸いこまれてゆく。

 かつて人気ダンサーだった彼女。歳をとり、子育てに疲れ、やる気をなくし、バーのマネージャーから小言をいわれる今日この頃。だがこのとき、彼女はなにかから解放された。

 心が躍る。身体が躍動する。ステージでかつてないほど生き生きと踊る彼女の姿を見て、観客は総立ちで拍手喝采し、マネージャーは満足げに頷く。

 彼女は自由を見た。自由を感じた。それをもたらしてくれたのは、前夫でも、合コン仲間の女友達でも、保育園のママたちでもない。問題児の息子であった。枠に収まりきらない彼だけが、枠の向こうを見せてくれたのだ。

大きな自由

 この社会は、無数の小さな正義で成りたっている。そこには秩序があり、安全がある。だが、その正義の根拠はあやふやな場合がおおいのではないだろうか。むしろ、漠然とした恐怖感が人を正義に駆りたてているような気がする。

 人は恐怖と正義に板挟みになりながら、異質なものを排除しようとする。

 だがその根拠は思いこみにすぎず、その行為には正当性がない場合がおおい。

 大切なのは、そんなものを吹き飛ばしてしまう「大きな自由」を見つけることだ。

 あれこれと小さな事に心煩わし、他人の足を引っぱっているヒマがあったら、血湧き肉躍る自由な領域を探し求めることだ。

 それがなんであるのかは個々人の問題である。

 むしろ、それを探すことこそが、生きる目的なのではないだろうか。

 その後、うちの娘はみなとおなじ小学校に通い、なんの問題もなく卒業し、あのイジメ恐怖症の娘さんとは中学もいっしょで、ときに家に遊びにゆくようになっていた。

 あるとき、なんの会話をしていたのか忘れてしまったが、娘にその子の好きな音楽はなにか尋ねたことがある。

 返ってきた答えは、なんと「デス・メタル」

 それを聞いた私の脳裏に、あの過保護ママの顔がまざまざと浮かんできた。まさか彼女は、自分の娘がメタル愛好家になるなどとは思ってもいなかったであろう。

 私は、子どもというものは親の思惑を超えて、しっかりと育ってゆくものだなあと、妙に感心したのであった。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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