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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第5回

生まれいずる命

2018.12.03更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

独身貴族のはずが……

 「独身貴族」という言葉が好きであった。

 一生結婚しない。

 煩わしい人間関係から逃れ、自由に生きる。

 自分で稼いだ分は、自分のためだけに使う。

 好きな時に好きな場所に出かけ、世界中を駆けめぐる。

 自分は将来、そういう人生を歩むものだと信じて疑わなかった。

 それがなぜか結婚し、ふたり連れとなった。

 いや、それどころか、娘が生まれて、3人家族になってしまった。

 いったいぜんたい、私の人生はどこで狂ってしまったのだろう?

パリは出会いの街

 大学3年生の春休み、2月から3月にかけての2か月間、私はパリに滞在した。

 当時私は、バイトをしては金を貯め、数か月単位で旅行する生活を送っていたが、前年の夏休みにインドに旅行した際にA型肝炎に罹り、帰国後に1か月の入院生活を送った。病み上がりの身でまたインドに行くなどもっての外だと医者にきつく釘を刺された私は、仕方なくヨーロッパでもブラブラしようと、とりあえずパリ往復チケットを買って飛行機に乗ったのであるが、パリがことのほかおもしろく、結局すべての旅程をパリに費やしてしまった。

 このとき、宿泊していた安宿でアフリカ音楽を取材していた日本人カメラマンと出会い、彼を通してアフリカ人ミュージシャンと知りあったことが私の「アフリカン・ライフ」のはじまりとなるのであるが、このとき、もうひとつ重要な出会いがあった。

 ある日、カメラマン氏が有名なアフリカ人ミュージシャンの家に遊びにゆくと、フランス人の女性ジャーナリストが取材にきていた。すると、彼女がいきなりペラペラの日本語で話しかけてきた。聞くと、彼女は70年代に数年間日本に滞在し、寺山修二の天井桟敷に出入りしてフランス・ツアーを成功させたり、バイトで当時駈けだしだった三宅一生や山本寛斎のモデルなどをしていたという。その後、ジャマイカに渡ってボブ・マーリーをはじめとするレゲエの取材をはじめ、今はアフリカ音楽のフランスへの紹介に尽力しているという。

 このとき私は、カメラマン氏の紹介で彼女に一度だけ会ったのであるが、その2年後、大学院に入ってアフリカに短期の調査旅行に出かけた際、経由地のパリで泊めてくれないかと図々しくも手紙を書き、心の広い彼女は快諾の返事をすぐに寄こしてくれたのである。こうしてアフリカへの行き帰りにそれぞれ1週間ずつ彼女の家に居候することになったのであるが、そこで私はひとりの天使に出会った。

天使の笑顔

 5階にある彼女のアパートの扉を開けると、彼女と、当時パートナーとして暮らしていたカメルーン人男性が笑顔で出迎えてくれた。そして、その向こう、というより、その下にいたのが、やっとヨチヨチ歩きをはじめたばかりの娘さんであった。彼女が私を見てニッコリ笑ったとき、私は生まれてはじめて本物の天使に出会ったと思った。

 その褐色の肌。パッチリと開いた瞳。ゆるくカールした黒髪。小さなアヒル口をパクパクさせながら、しきりになにかを話しかけようとしている。こんなカワイイ生命体を目の前にしたのは初めてであった。

 人生とは、長いながい時間の流れである。良い時もあれば、悪い時もある。幸せの後には不幸がつづき、若い者も年老いてゆく。

 だが、人生を一瞬一瞬の連続であると捉えたとき、それらがことのほか美しい瞬間で満たされていることに驚かされる。そうした瞬間は連続性のなかですぐに消滅してしまうので、当人はまったく気づかないのであるが、それを目撃した者の眼には深く焼きつけられ、心のなかに死ぬまで留まりつづける。それゆえ、ときに一枚の写真が長編映画よりもインパクトを持つのであろう。

 あの時の光景も、そのようなものとして私の心に焼きつけられた。

 フランス人の母と、カメルーン人の父と、その娘。白人のイヴと、黒人のアダムと、その間に褐色の肌の天使。まったくもってそれは自然であり、なんの問題もなかった。この聖家族像は、人間の営みのあるべき姿として私の心に焼きつけられ、意識の奥底に収められた。

 ちなみに、この赤ん坊の可愛いさはたんなる私の欲目などではなく、万人の認めるところであった。その証拠に、彼女が幼稚園生の頃、どのような経路で知ったのか、あのグランジ・ロックの<ニルヴァーナ>のスタッフから、彼女を天使役としてPVに出演させたいというオファーがあったという。その時は日程調整がつかなくて流れたが、もし出演していたら、ぎりぎりで生前のカート・コバーンと共演できていたということになったのに。

 まさに、後悔先に立たず、である。

子が親を救う

 パリでの出会いと同じくらい私におおきな影響を与えた出会いがあった。

 90年代の初め、アビジャンでストリート文化の研究をしていたときのこと。当時、もっとも人気のあったレゲエ・スター、タンガラ・スピード・ゴダの親友となり、2日ごとに彼の家を訪ねるのが日課となっていた時期がある。

 彼はアビジャンのゲットーで生まれた生粋のストリート・ボーイで、かつてはかなりの「ワル」として鳴らしたという。やがてレゲエと出会い、ラスタ文化に影響されて不良の世界から足を洗い、あるポップ・グループのローディーとして働くようになった。その後、渡仏のチャンスをつかむと、不法滞在者として2年以上パリに滞在し、そのあいだにアルバム1枚を録音し、帰国した。ストリートのスラングをふんだんに使った歌詞、かつての暴力的なストリート・スタイルを満載したルックス、さらにその独特の宗教観でストリート・ボーイたちの心を鷲づかみにし、あっというまにスターに登りつめた。

 その粗暴なイメージの裏に知性と真摯さを隠しもった彼は、音楽について、文化について、神について、私とおおいに語りあった。我々はまさに家族同然であった。

 彼には娘3人、息子ひとり、計4人の子供がいた。長女と次女はワル時代に知りあったガールフレンドとの子供、長男と三女は今の奥さんとのあいだの子供。婚姻関係外で子供が生まれるのはアフリカ(すくなくとも私の知っている範囲)ではよくあることで、運が良ければ両親のどちらか、あるいは親戚のもとで育てられ、運が悪ければまともに面倒を見てもらえず、ストリートに生活の場を求めるようになる。

 彼の子供たちは大家族のもとで分け隔てなく育てられ、みな私によくなついていた。そんなある日、彼が私にこう漏らした。

 「スズキ、子供はいいぞ。俺は上のふたりの娘を養うために、家族のもとに留まり、毎日食べ物を探すのに奔走した。ときには、裏の川で親子そろってタニシをすくって料理の具にしていた。もし養うべき子がいなかったら、他の連中のように犯罪の世界に足を突っ込むようになっていただろう」

 かつての仲間たちのおおくはストリートに留まり、ゆすり、たかり、脅し、盗み、密売の世界に生きている。いっぽう、ふたりの子供を授かった彼は、子供を育てる道を選び、犯罪から遠ざかっていった。

 父がいて、母がいて、4人の子供がいて、そのうちの2人は母が異なり、さらに祖母がいて、父の兄弟とその奥さんと子供たちがいて、それに何人かの親戚の居候が加わって、この家族はじつに賑やかな大家族であった。父は子を養い、子は父の精神的支柱となり、スターではあったものの常に金はなく、おおいに笑い、おおいに喧嘩する家族であった。

 こうした濃密な小宇宙を形成する家族は、日本ではときにテレビの特番でとりあげられるくらいのレア・ケースとなってしまったが、アフリカでは、すくなくとも庶民のレベルにおいてはごく普通に存在している。

 この家族は、私の眼に、あのパリの聖家族とおなじようにキラキラ輝いて見えた。それは、人が共に生きることの根本にある家族の姿を垣間見させてくれる現場であった。

 貧困と人口増加に喘ぐアフリカであるが、じっと目を凝らせてみるならば、そんな資本主義上の要請とは別のレベルで、キラキラと輝く瞬間で満ちあふれていることが理解できるであろう。

多様性のタテ軸

 私が結婚を決心したのは、長年付きあってきた彼女と一生添い遂げる方向に心が傾き、ついに納得(観念?)したからであるが、振り返ってみると、無意識のレベルであの2枚の聖家族の写真が私の心を解きほぐしていったように思える。

 かつて、私の心の写真には自分ひとりだけが写っていた。独身貴族である。

 やがて愛する人と出会い、私の横にひとりの女性が並んだ。結婚である。

 だがじつは、二人のあいだにはすでに天使のための場所が空けてあったのではないだろうか?

 パリで天使の笑顔に出会ったとき、すでに私のかたくなでエゴイスティックな独身貴族ファイルの解凍がはじまり、結婚プログラムの起動が開始されたのではないだろうか?

 アビジャンの友人の大家族との触れあいのなかで、結婚プログラムはヴァージョンアップを繰りかえし、ついに完成されたのではないだろうか?

 私の結婚プログラムは、デフォルトから越境的であり、アフリカ的であった。だから妻との結婚に際し、いっさいの迷いがなかった。それだけでなく、やがて生まれてくる子の存在が重要であることを、心のどこかで感知していたように思う。

 つまりそれは、多様性というものが、現に存在している者どうしの共時的な横の関係だけではなく、そこから生みだされる縦の関係を含んだ通時的なものであり、このヨコ軸とタテ軸が交叉する場で共時性と通時性を同時に生きることが重要であることを、ふたつの出会いが無意識のレベルで私に語りかけていたと、そんな風に思えるのである。

 そして幸運にも、来日した妻はほどなく懐妊し、翌年の秋に無事娘を出産した。

出産という営み

 妻が破水し、予定日よりはやく市民病院に自動車で駆けこんだのは、ある11月の肌寒い日の夜のことであった。

 なにもわからず右往左往する私。医師の指示にしたがって看護婦さんがテキパキと作業し、しばらく待ったあとで妻は分娩室に連れてゆかれた。なにぶん緊急のことゆえ、私が出産に立ちあう、という流れにはならなかった。

 ひとり、待合室の廊下に座って待つ私。こんなとき、人は一時的に俗世から切り離される。まるで映画の一場面であるかのように、周りの光景が滞って見える。そして、そこに流れる時間は出産のリズムとシンクロし、私の意識を包みこむ。

 やがて私は、時計のリズムに切り刻まれず、カレンダーに記載されない、もっと大きくて濃密な時の流れ、なにかこう、ドロッとした、原初的な力の動きといったものを感じ、戦慄を覚える。いま、たしかに新しい生命が誕生する、という感覚が脳髄を直撃したように思えた。

 こんな経験をしたのは私だけだろうか、あるいは世の父親のおおくが同じような経験をしているのだろうか?

 あの時に身体の奥底に定着された感覚を思い起こしながら、私はこう思う。

 あの時間は、多様性が生まれる以前に属している、と。

 誰と誰が結婚し、出産までどんな準備をし、出産後の処理をどのようにし、どんな名前をつけ、誰がどう育てるか……これらはすべて文化的に規定されており、よって文化の数だけの多様性を持っている。だが生まれる瞬間そのものは、すべての人類にとって同じである。受精から出産までの生理的プロセスは、ホモ・サピエンス固有のものであり、約20万年前にアフリカで誕生して以来、変わることがない。

 そのことを、私は「時の流れ」というかたちで、あの病院の廊下に座りながら、具体的に実感したのであろう。であるから、私は確信を持って言うことができる。人はすべて同じであると。

 たしかに、この世に生まれ落ちた瞬間から、肌の色は違い、身体的特徴も同じではない。だがそれは、ホモ・サピエンスが世界中に拡大する過程で、環境に適応しながら自らの姿形を変えていったというだけのことである。

 陣痛を経て、産道を通って新しい生命が生まれる瞬間は、同じである。古来より繰りかえされるこの営みに、差異はない。

多様性ワールドへ、ようこそ

 黒人の妻と、アジア人の私とのあいだに生まれた天使がそこにいた。

 まだ肌は白く、思ったより黒髪はフサフサで、華奢な手足を必死で動かしながら、つぶらな瞳で中空を見つめている。

 これから言葉を覚え、文化を身にまとい、世界の多様性の一部へと取りこまれてゆくことであろう。

 だが今はまだ、日常の裂け目から溢れでてきた原初的な時間の流れの中でまどろんでいるようだ。

 まだ、何者にもなっていない「人間」がそこにいる。

 かつて、私もそうであったにちがいない。

 すべての人が、そうであったにちがいない。

 すべての異なる人たちが、かつて同じ道を通ってこの世にやってきた。

 多様性ワールドの住人は、この事実を忘れてはならない。

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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