第1回
【老衰死・平穏死の本】人には「安らかにいのちを閉じる力」がある
2016.07.19更新
まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の書籍『「平穏死」を受け入れるレッスン』の本文を特別公開いたします。
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本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。
はじめに
日本にはいま、高齢者を〝上手に死なせる技術〞が求められています。
〝上手に死なせる〞とは、なにも安楽死をさせようなどという話ではありません。誰もが「最期は苦しまずに安らかに死にたい」と思っています。それをかなえよう、というだけのことです。ひと昔、いえ、ふた昔くらい前まで、日本人はけっこう上手に死ぬことができていました。人生の終わりが近づいたお年寄りは、襖一枚、障子一枚隔てた部屋の向こうで臥せっていて、家族の気配が感じられる日常のなかで静かに息を引き取っていました。そしてみんなから「ああ、大往生だった」と言われて野辺送りをされました。死とは悲しいものですが、天寿を全うできることは幸せな死に方でした。
しかし、いまはどうでしょうか。ちょっと様子がおかしいとなると救急車で病院へ直行です。本人は「そろそろお迎えが来たか」と思っているのに、してほしくもない医療を施されます。「生かし続ける方法があるなら、やらなければならない」とさまざまな医療装置につながれている人は、みんな険しい顔をしています。
そもそも医療とは、人を病気や怪我から救うためのものです。人を〝死なせない〞ために行うもの。寿命が来て、人生の終着駅に近づいている人に〝死なせない〞ための医療を施すことは、自然の流れに逆行しています。その人の肉体を苦しめることになります。老衰になったら、もうよけいなことをしてはいけないのです。自然の摂理にまかせたら、人は苦しまず、安らかに息を引き取ることができます。その人自身の持っている生命力に寄り添いながら自然なかたちで迎える死、それが、「平穏死」です。
芦花ホームで看取りをしていていつも感じることですが、自然のままに永遠の眠りについた方は、皆さんとても温和な優しい表情をしています。まるで仏さまのようです。その姿に私はいのちの気高さを感じ、自然と手を合わせてしまいます。
ところが、その穏やかな最期を迎えることを阻むものがあります。
意外なことに、これが家族の〝情(じょう)〞なのです。そして、老衰をも治さなければならないという医療への過信です。
私が平穏死を提言するようになって今年で七年目です。多くの人が理解を示してくれました。「年老いて人生の最終章を迎えたとき、あなたは延命治療をしてほしいですか?」こう尋ねると、多くの人が「してほしくありません」「ただいのちを引き延ばすだけの延命措置は望みません」と言います。ところが、自分の家族がそのときを迎えると、違うのです。「できるだけのことをしてあげたい」と、自然の摂理に抗うことを望みます。「一日でも長く生きていてほしい」と、延命措置をしようとします。「安らかに逝かせてあげたい。でも、この温もりを失うことになると思うと、何も医療をしないという決断ができません……」心は千々に乱れ、悩み惑うのです。
平穏死は、亡くなっていくご本人にとっては楽で幸せな最期です。しかし家族はそれを受け入れるまでに葛藤するのです。
「自分はしてほしくない延命治療を、なぜ家族にはしようとするのですか?」
それは、自分にとってかけがえのない大切な存在だから、家族だからです。絶対こうしなければならない、これが正解だ、という答えのある世界ではありません。人それぞれ、いろいろな考え方があって当然だと思います。歩み寄る死という現実を前に、考えることに意味があります。
悩み、迷い、涙する日々のなかで、本当に大切にすべきものは何かに気づくのです。それは、先に逝く家族が「死とはどういうものなのか」を教えてくれている時間なのではないかと私は思っています。誰もがいずれ死にます。身近な家族の死ときちんと向き合うことは、自分自身の死のレッスンでもあるのです。
老いて上手に死ぬために、人はどうあるべきか――。
あらためて、一緒に考えてみましょう。
第1章 人には「安らかにいのちを閉じる力」がある
■食べなくていい、飲まなくていい、眠って、眠って、さようなら
二〇一五年九月、NHKスペシャル『老衰死 穏やかな最期を迎えるには』という番組が放映されました。そのなかで、芦花ホームでの自然な看取りの模様が取り上げられました。
九三歳の女性、中村イトさんは、入所三年目でした。認知症が進み、意思表示はできなくなっていましたが、ご家族の話によると、元気なころには「亡くなったお父さんと同じように、自然な最期を迎えたい」と言っていたそうです。そこで、延命治療は一切せず、そのときが来たら、ホームで看取りをしようということになりました。
食事は食べやすいように加工された嚥下(えんげ)食にして、介護士が介助して口から食べていました。けれども、食事の途中でもとろとろと眠ってしまうようになりました。亡くなる一週間ほど前からは何も食べなくなり、一日の大半を眠っていました。水を飲ませようとしても飲み込めないので、水分を含ませたスポンジで口を湿らせました。
最期が近づいたことをご家族に知らせ、ご家族と職員が見守るなか、数日後に静かに息を引き取りました。私は死亡診断書の死因の欄に「老衰」と記しました。
老衰が進み、いよいよ最期が近づいてくると、皆さん食べなくなります。食事介助のうまい介護士だと、口に入れることはできます。しかし、なかなか飲み込めないのです。食事中にうつむいて眠ってしまうということもしばしばあります。これは老衰末期に共通する特徴です。身体がもう食べ物を受けつけなくなるのです。終わりのときが近づいているというサインです。ですから、われわれは無理には食べさせません。
生理学には、ホメオスタシス(homeostasis:恒常性)という概念があります。生体には、細胞の環境である体液の組成、温度、濃度などの条件を一定に維持する自動的機能が備わっている、とする考えです。生き物が生存の限界に達し、そのいのちが消滅するときは、遺伝子に仕組まれた仕掛けにスイッチが入り、体液の条件を維持することを停止します。生体自身が自動的に生命現象を終息させるのです。これが自然死の仕組みです。
■そのとき苦痛はないのか
自然な看取りをするかどうかをご家族と話し合うとき、多くの方が心配するのは、「苦しくはないのか」ということです。
私は芦花ホームの常勤医になることが決まったときに、緩和ケアについて再勉強しました。病院勤務の時代に、大腸がんが再発した年配の女性が最期のときを迎えられ、たいへん苦しまれたことがありました。そのときに、息子さんから「もっと麻薬を使って痛みを止めてやってほしい」と言われたのですが、十分なことができなかったことに対して忸怩たる思いがありました。その反省から、必要なときは効果的に痛み止めの麻薬が使えるようにと、準備をしていたのです。
ところが、ホームでは、亡くなるときにどなたも苦痛を訴えられないのです。食べなくなって、眠って、眠って亡くなられます。何もしていないのに、皆さん、最期はまるで麻酔をかけられているかのように、静かな平穏な最期を迎えられます。「今回もそうだったな」「また今回もそうだった」……その連続です。
芦花ホームに来てこの一〇年間、二〇〇名以上の方を看取ってきましたが、一例も麻薬を使っていません。使う必要がなかったのです。考えられることは、老衰になっている身体は苦痛を感じにくくなっているということです。その理由の一つは、βエンドルフィンというモルヒネ様の神経伝達物質が分泌され、体内に自然の鎮痛作用が働いているからだともいわれていますが、もう一つは、生命の最終章においては、血圧が下がって、脳では最も原始的な呼吸中枢にしか血液が届かなくなり、意識レベルも下がって、痛み、苦しみを感じなくなっていると考えられます。なかには、死に際にはむしろ多幸感があるのではないかと言っている研究者もいます。
やはりNHKの『老衰死』のなかで最期の様子が取り上げられた井川榮子さんのご家族も、「話ができない状態のお母さんが、苦しみを抱えてはいないか」ということをとても気にしていました。
介護が必要になったのは、八年くらい前だったそうです。家族は病院に連れていき、いろいろな治療を受けさせましたが、榮子さんは次第に治療の負担を訴えるようになりました。その後、芦花ホームに入所されました。延命につながる治療をどこまですべきか。いのちの火が消えるときは、水分、栄養はいらないのです。何をすることが苦痛になり、何をしないことが苦痛でないのか、私は丁寧に説明しました。ご家族は葛藤しました。悩んだあげく、結局「安らかに逝かせてあげたい」と望み、看取りをすることになりました。息子さんがホームに泊まり込むようになって四日目、静かに、穏やかに最期を迎えました。九二歳、私は死因にまた「老衰」と書き入れました。
■自然な最期こそ平穏な死
自然な最期というのは、
もう食べなくていいのです。
飲まなくていいのです。
痛みも苦しみもありません。
ただ眠って、眠って、いのちの終焉を迎えます。
火が消えるときは、炎が細く小さくなっていって、スーッと消えていきます。人間の自然な最期も、それと同じです。人間も自然の一部なのです。自然の一部ですから、自然にいのちを終えていく、そうすれば最期は平穏なのです。それを受け入れられるかどうかは、「いのちはいずれ終わるんだ」ということを覚悟できているかどうかということになるのではないでしょうか。数日だけでもいいので、一緒に寝起きしてその人に寄り添ってみることを私は勧めています。ずっと見守って息遣いを聞いていると、いのちの灯が少しずつ細く小さくなっていく様子がわかります。一緒に過ごすその時間が、目の前の現実を受け入れさせてくれるのです。
人間は遠い昔から親から子へといのちを繫いできたバトンランナーです。いくら医療技術が進歩しても、一人のランナーのいのちはせいぜい一〇〇年程度です。しかし、バトンを受け渡すことで、人間はさまざまな知恵を引き継いできました。私は静かな看取りの場というのも、いのちのバトンの一つのような気がしています。人は一度しか死ねませんから、練習はできません。けれども、先に逝く人が、見送る人に「死とはこういうものだ」と教えてくれているのです。その最後のバトンを受け取ること、それが看取りなのです。
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ミィ
2020.01.18
まさにおばあちゃんが今、106歳で死にかけて居ます。でも眠ってばっかりで心配だけど、この文を読み、私は少し楽になりました。